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第3話 噂
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王国図書館は学術の殿堂でありながら、同時に社交の場でもある。
貴族の若者や学者、時には外交使節までもが来館し、情報と人脈が行き交う。
禁書庫への来客がない時間はロビーの受付業務を手伝うことがあるカミルにとって、賑わいなど煩わしいだけだった。
ひそひそと交わされる声に、カミルはページをめくる手を止めた。
「そういえばお聞きになりまして?あのヴァレンティス家の若様が最近こちらに通ってらっしゃるとか……」
「まぁ、誰かお目当ての方がいらっしゃるのかしら?ほんと、顔も地位も申し分ないし……羨ましいわ」
「でも、相手は選ばないと有名ではなくて?男でも女でも、本気にさせるようなことを言っては、すぐに別れてしまうとか」
最近はセドリック・ヴァレンティスに関する会話が増えており、カミルの耳にも入ってきていた。
──セドリック・ヴァレンティス。宰相の長男にして次期宰相候補。
男女問わずモテる、浮名の多い男。
そんな話は前から耳にしていたが、本人を前にすれば意外と真剣に学びを求める一面も見えていた。
しかし世間が彼を「遊び人」と呼ぶのなら、それは事実なのだろう。
「……私には関係のないこと」
小さく呟き、目の前の文字に視線を戻す。
自分は禁書庫の管理者。守秘義務を背負い、ここで一生を過ごす。
誰が誰にどんな評判を持とうと、自分の務めには関わらない。
そう言い聞かせながら、胸の奥の小さなざわめきを押し込めた。
***
その日もセドリックは姿を見せた。
黒髪を軽く払って入ってきた彼は、いつも通り堂々とした足取りで禁書庫へ進む。
「今日も来てくださったのですね、ヴァレンティス様」
「ああ。昨日の続きを頼む」
淡々と迎えるカミルの態度は、以前と変わらない。
セドリックは資料を受け取ると、椅子に腰を下ろし、ふとカミルに視線を向けた。
「……なあ」
「はい?」
「お前、俺の噂を聞いたか?」
思いがけない問いに、カミルは瞬きをした。
「……ええ、まあ。耳に入ることはあります」
「どう思った?」
真正面から問われ、カミルはわずかに逡巡したが、結局は事務的に答えた。
「私には関わりのない話です。ヴァレンティス様がどのように振る舞われても、私の務めには影響しませんので」
それは本心だった。
彼の噂に心を乱されるほど、自分は無防備ではいられない。
過去の痛みを抱え、守秘義務に縛られる身。誰かの私生活に踏み込むなど、最も避けるべきことだ。
セドリックは、その答えにしばらく、言葉を失った。
「……そうか」
軽く笑って見せたが、その声音にはどこか翳りがあった。
セドリックは噂に慣れていた。
男女を問わず多くの視線を集め、勝手な憶測や誇張された逸話が飛び交うのは日常だ。
否定する気もない。求められれば応じ、去る者は追わない。それが彼の流儀だった。
しかし、カミルの反応は──予想外だった。
普通なら軽蔑されるか、興味津々で突っ込まれる。
ところが彼は、淡々と「自分には関係ない」と言った。
まるで本当に心を動かされていないかのように。
(……俺は、彼にとって、それほどどうでもいい存在なのか)
胸の奥に、微かな痛みが走った。
何も気にしていない態度が、妙に苛立ちを感じる。
セドリックは受け取った資料をしばらく眺めたまま、笑みを浮かべなかった。
「……お前は、俺に興味がないのか」
不意の言葉に、カミルの手が止まった。
「興味……ですか? ヴァレンティス様は宰相家の嫡男で、次期宰相候補。国にとって重要なお方です。……私ごときが、興味を持つなど不遜でしょう」
理路整然とした答え。
それは建前であり、自分を守るための盾でもあった。
セドリックはしばらく黙り、そして苦笑を漏らした。
「そういうところだ。……誰にでも気安く笑ってくる奴らより、お前の方がよほど意地悪だな」
口調は冗談めいていたが、目の奥には物悲しさが宿っていた。
その日の帰り際、セドリックはいつになく静かだった。
いつもなら「また来る」と軽やかに言い残すのに、その日はただ振り返り、短く告げただけだ。
「……明日も来る」
カミルは小さく頭を下げる。
扉が閉じ、重い静寂が戻ると、彼はそっと息を吐いた。
「……どうお伝えすればよかったんだろう」
セドリックのあの悲しげな瞳が胸から離れなかった。
禁書庫に響くのは、古い紙をめくる音だけ。
その音がやけに頼りなく思える夜だった。
貴族の若者や学者、時には外交使節までもが来館し、情報と人脈が行き交う。
禁書庫への来客がない時間はロビーの受付業務を手伝うことがあるカミルにとって、賑わいなど煩わしいだけだった。
ひそひそと交わされる声に、カミルはページをめくる手を止めた。
「そういえばお聞きになりまして?あのヴァレンティス家の若様が最近こちらに通ってらっしゃるとか……」
「まぁ、誰かお目当ての方がいらっしゃるのかしら?ほんと、顔も地位も申し分ないし……羨ましいわ」
「でも、相手は選ばないと有名ではなくて?男でも女でも、本気にさせるようなことを言っては、すぐに別れてしまうとか」
最近はセドリック・ヴァレンティスに関する会話が増えており、カミルの耳にも入ってきていた。
──セドリック・ヴァレンティス。宰相の長男にして次期宰相候補。
男女問わずモテる、浮名の多い男。
そんな話は前から耳にしていたが、本人を前にすれば意外と真剣に学びを求める一面も見えていた。
しかし世間が彼を「遊び人」と呼ぶのなら、それは事実なのだろう。
「……私には関係のないこと」
小さく呟き、目の前の文字に視線を戻す。
自分は禁書庫の管理者。守秘義務を背負い、ここで一生を過ごす。
誰が誰にどんな評判を持とうと、自分の務めには関わらない。
そう言い聞かせながら、胸の奥の小さなざわめきを押し込めた。
***
その日もセドリックは姿を見せた。
黒髪を軽く払って入ってきた彼は、いつも通り堂々とした足取りで禁書庫へ進む。
「今日も来てくださったのですね、ヴァレンティス様」
「ああ。昨日の続きを頼む」
淡々と迎えるカミルの態度は、以前と変わらない。
セドリックは資料を受け取ると、椅子に腰を下ろし、ふとカミルに視線を向けた。
「……なあ」
「はい?」
「お前、俺の噂を聞いたか?」
思いがけない問いに、カミルは瞬きをした。
「……ええ、まあ。耳に入ることはあります」
「どう思った?」
真正面から問われ、カミルはわずかに逡巡したが、結局は事務的に答えた。
「私には関わりのない話です。ヴァレンティス様がどのように振る舞われても、私の務めには影響しませんので」
それは本心だった。
彼の噂に心を乱されるほど、自分は無防備ではいられない。
過去の痛みを抱え、守秘義務に縛られる身。誰かの私生活に踏み込むなど、最も避けるべきことだ。
セドリックは、その答えにしばらく、言葉を失った。
「……そうか」
軽く笑って見せたが、その声音にはどこか翳りがあった。
セドリックは噂に慣れていた。
男女を問わず多くの視線を集め、勝手な憶測や誇張された逸話が飛び交うのは日常だ。
否定する気もない。求められれば応じ、去る者は追わない。それが彼の流儀だった。
しかし、カミルの反応は──予想外だった。
普通なら軽蔑されるか、興味津々で突っ込まれる。
ところが彼は、淡々と「自分には関係ない」と言った。
まるで本当に心を動かされていないかのように。
(……俺は、彼にとって、それほどどうでもいい存在なのか)
胸の奥に、微かな痛みが走った。
何も気にしていない態度が、妙に苛立ちを感じる。
セドリックは受け取った資料をしばらく眺めたまま、笑みを浮かべなかった。
「……お前は、俺に興味がないのか」
不意の言葉に、カミルの手が止まった。
「興味……ですか? ヴァレンティス様は宰相家の嫡男で、次期宰相候補。国にとって重要なお方です。……私ごときが、興味を持つなど不遜でしょう」
理路整然とした答え。
それは建前であり、自分を守るための盾でもあった。
セドリックはしばらく黙り、そして苦笑を漏らした。
「そういうところだ。……誰にでも気安く笑ってくる奴らより、お前の方がよほど意地悪だな」
口調は冗談めいていたが、目の奥には物悲しさが宿っていた。
その日の帰り際、セドリックはいつになく静かだった。
いつもなら「また来る」と軽やかに言い残すのに、その日はただ振り返り、短く告げただけだ。
「……明日も来る」
カミルは小さく頭を下げる。
扉が閉じ、重い静寂が戻ると、彼はそっと息を吐いた。
「……どうお伝えすればよかったんだろう」
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禁書庫に響くのは、古い紙をめくる音だけ。
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