禁書庫の管理人は次期宰相様のお気に入り

結衣可

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第4話 嵐の夜

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 その日は朝から空模様が怪しかった。
 厚い雲が王都を覆い、昼を過ぎる頃には激しい雷雨となった。
 王国図書館の窓を打つ雨粒は、まるで外界を遮断するかのように強く、衛兵たちでさえ帰路を案じるほどだった。

 それは夜になっても変わらず叩きつけるような雨が降り続いていた。
 カミルが記録を終え、自室に戻ろうとしたとき、禁書庫の重い扉を叩く音が聞こえ、小さく眉をひそめた。
 慌てて、扉を開けると、そこにいたのはセドリック・ヴァレンティスだった。

「ヴァレンティス様……この嵐の中をいらしたのですか?」
 
 カミルは目を見開き、戸惑いを隠せなかった。
 濡れた外套を肩から外し、琥珀の瞳にいつも通りの光を宿している。

「悪天候でも政務は待ってくれないからな」

「あ、あの……お待ちください、濡れた状態での禁書庫への立ち入りは困ります」

「あぁ、そうだな」

「このままでは体が冷えてしまいます。暖炉がある部屋にご案内致します。」

 カミルは冷静に告げ、暖炉のある部屋へセドリックを案内することになった。


 雨音と雷鳴が遠くで轟き、厚い石壁に守られた図書館でさえ、時折振動を感じるほどだった。
 暖炉には火が焚かれ、橙色の明かりが揺らめく。

 セドリックは長椅子に身を預け、濡れた髪を乱暴に拭いながら口を開いた。

「……ここに来ると、不思議と落ち着くんだ」

「……そう、ですか」

 カミルは対面に腰を下ろし、手元の本を閉じた。
 いつもなら軽口と笑みで飄々としている彼が、珍しく真面目な声音をしていたからだ。

 セドリックは火を見つめ、ぽつりと続けた。

「俺の周りはいつも騒がしい。取り入ろうとする奴、俺を値踏みする奴……気が休まらない」

「宰相家のご子息であれば、当然でしょう」

「そうだな……」

 カミルはわずかに目を細めた。
 彼にとってはこの禁書庫の重々しい静寂が、安らぎになるというのか。

「……だが、お前が俺に無関心なのが、時々……少し堪える」

 静かに零された言葉に、カミルの胸が強く揺れた。

「……無関心、ですか」

「ああ。俺が何を言っても、誰と比べても、お前は動じない。まるで俺が特別じゃないみたいだ」

 セドリックの声音には、いつもの余裕はなかった。
 ただの軽口でも、噂のような華やかな話でもない。
 彼の本心が、初めてカミルの前に晒されていた。

 カミルは言葉を探した。
 彼ほどの立場であれば、誰もが媚びへつらい、過剰な好意を示すだろう。
 だからこそ、自分の淡白な態度が逆に彼の心を刺していたのだ。

 カミルは自嘲めいた笑みを浮かべた。

「……私はただ、禁書庫の管理人として務めを果たしているだけです」

「分かってる。お前が勤勉で、余計なことを言わないのも知ってる。……でも、それが俺には苦しい」

「苦しい……ですか?」

「そうだ。俺はもっと、お前に気にしてほしいんだよ」

 まっすぐに向けられた瞳に、カミルの心臓がひとつ強く跳ねた。

 外では風が吠え、雨が窓を叩く。
 その嵐の中、図書館の一室だけが静謐な温もりに包まれていた。
 暖炉の火に照らされるセドリックの横顔は、華やかな噂に彩られた青年ではなく、一人の寂しさを抱えた男に見えた。

(……こんな顔をする人だったのか)

 カミルは視線を落とした。
 胸の奥に芽生えるのは、驚きでも不安でもない──ほんのわずかな期待。

 ──もし自分が誰かにとって特別であり得るなら。
   もし、この青年が本当に、自分の存在を必要としてくれているのなら。

 そんな淡い期待が、雨音に紛れるように胸に広がっていった。
 自分はこのまま一緒にいてはいけない。
 一度抱いてしまったこの期待を今は上手く隠せる気がしなかった。
 
「……ヴァレンティス様、本日はこちらでお休み下さい」

 カミルは一礼すると、セドリックの顔を見ないままに逃げるように私室へ戻った。

***

 部屋に戻っても、嵐の音に混じって耳に残り続けたのは、セドリックの言葉だった。

『……お前が俺に無関心なのが、時々……少し堪える』
『俺はもっと、お前に気にしてほしいんだよ』

 カミルは机に並んだ書物を開いたまま、何度もその言葉を思い返していた。
 蝋燭の炎が揺らめき、影を壁に映す。
 いつもなら本を開けば心は静まり、日々の重圧も忘れられるのに、この夜ばかりは文字が頭に入ってこなかった。

「……何を考えているのだ、私は」

 思わず呟き、両手で顔を覆う。
 セドリックの琥珀の瞳に見つめられた瞬間。
 あの真剣さに、胸が強く打ち震えたのを否定できなかった。

 今まで彼を「宰相家のご子息」としか見ていなかったはずだ。
 強引で、馴れ馴れしくて、噂通りの放蕩者だと。
 しかし暖炉の前で零された言葉は──まるで愛の告白のようだった。

(……私に気にしてほしい、なんて)

 その想いが嘘ではないと、なぜか分かってしまった。

 胸に広がる感情は、恐ろしくも甘い。
 もしも自分が彼にとって「特別」になれるのなら……。
 そんな願望を抱いてしまったことに、カミルは愕然とした。

「馬鹿げている」

 声に出すことで否定しようとする。
 自分は禁書庫を預かる司書。守秘義務を背負い、外の世界から切り離された身。
 誰かと心を通わせてしまったら……。

 それに──忘れてはならない過去がある。

 学園時代。
 同じ寮で顔を合わせていた同級生のひとり。
 最初は気さくに声をかけてくれる存在だと思っていた。
 ある夜、無理やり唇を塞がれ、そのまま押し倒された。

 突然のことに恐ろしくて拒めなかった。
 声も出せず、ただ流されるまま、痛みに耐えるしかなかった。

 その後、彼は何事もなかったように周囲に溶け込み、やがて騎士団に入った。
 そして今も王都にいる──。

 その事実を知って以来、カミルは外へ出ることをやめた。
 誰かに近づけば、また同じことが起こるのではないかと恐れ、静かな禁書庫に身を埋めてきた。

「……だから、私は……」

 セドリックを意識してはならない。
 彼の真っ直ぐな視線に惹かれてはならない。
 それは過ちであり、愚かであり、自分を再び傷つけるだけだ。

 そう結論づけるたびに、胸が苦しくなる。
 否定すればするほど、彼の言葉が耳に蘇る。

 ──俺はもっと、お前に気にしてほしいんだよ。

 その声が、耳の奥で何度も繰り返された。

 蝋燭の炎が小さく揺れ、やがて芯が短くなって消えかける。
 暗闇の中、カミルは机に突っ伏し、深い溜め息を吐いた。

 セドリックの顔が浮かぶ。
 暖炉の火に照らされて見せた、寂しげな横顔。
 誰にも見せたことがないであろう素顔を、自分だけが知ってしまったという事実。

「……忘れないと」

 呟いても、心は従わない。
 彼の声も瞳も、確かに自分の中に刻み込まれてしまった。
 このまま心を閉ざしていれば、きっと安全だと頭では理解しているのに、彼を拒める気がしなかった。

 外ではまだ雨が降り続いていた。
 嵐は弱まる気配を見せず、夜の闇をさらに濃くしていく。
 図書館は厚い石壁に守られているのに、今夜ばかりは心許なさを覚えた。

 嵐の夜が去った後、また彼はここを訪れるだろう。
 そして、自分の心をさらに揺らすに違いない。

 眠れぬ夜が、静かな禁書庫に続いていった。
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