禁書庫の管理人は次期宰相様のお気に入り

結衣可

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第5話 揺らぐ心

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 王国図書館は首都の中央に位置し、学者や貴族、騎士団員までもが頻繁に出入りする。
 カミルは基本的に禁書庫に籠もりきりだが、稀に外に出て資料を受け取ったり、蔵書の移動を確認したりすることがある。

 その日も、学術院から届けられた箱を確認するため、図書館の外玄関まで出向いた。
 ほんの数分で済むはずだった。
 しかし、その時──視界の端に、見覚えのある男の姿が映った。

 茶色がかった髪、粗野な立ち振る舞い。
 鎧に刻まれた騎士団の紋章。
 ディラン・ローウェル。

「……っ」

 呼吸が止まり、体が硬直する。
 学園時代に自分を襲った男。
 記憶の奥底に押し込めていた忌まわしい光景が、一瞬で蘇った。

 笑い声。
 乱暴に押さえつけられた夜。
 拒む声を奪われ、ただ痛みに耐えた自分──。

「カミル様?」

 声をかけられ、はっと我に返る。
 届け物を持ってきた従者が不思議そうに見ていた。

「……問題ありません。中に運びましょう」

 努めて平静を装いながらも、足は震えていた。
 背後で笑い声が響くたび、あの男がこちらに気づくのではないかと恐怖で心臓が締め付けられる。

 ──やはり、外に出るべきではなかった。

 それ以来、カミルは以前にも増して図書館に籠るようになった。
 玄関に足を運ぶことさえ避け、必要があれば他の司書に任せるようになった。
 禁書庫にこもり、本と記録に埋もれる生活。
 それが唯一、心を守る術だった。

 だが、その変化を敏感に察した者がいた。

「……最近、俺を避けてないか?」

 禁書庫に現れたセドリックが、不意にそう言ったのは数日後のことだった。

 琥珀の瞳がまっすぐに射抜く。
 カミルは一瞬、言葉を失った。

「なぜ、そのように?」

「前より、俺から距離を取っている気がする」

「気のせいです」

「気のせい、か……ならいい」

 セドリックの口元に苦笑が浮かぶ。
 目の奥には、拭い切れない疑念が宿っていた。

 本当は「気のせい」などではない。
 ディランを見かけた瞬間から、心の均衡は崩れていた。
 しかし──それを告げられるはずがない。

 セドリックは本を開き、しばらく沈黙が続いた。
 静寂が禁書庫を包み、カミルは書棚に視線を戻した。
 セドリックにまで心配をかけてはいけないのに、いつまで経っても手の震えが収まらなかった。
 
 その日の帰り際、セドリックは扉の前で立ち止まり、振り返った。

「……カミル」

「はい」

「本当に、何もないんだな?」

 問いかけは柔らかかった。
 その奥には、確かに心配と苛立ちが入り混じっていた。

「……ええ。何も」

 微笑を作りながら、カミルは言い切った。
 胸を貫く痛みを抱えたまま。

 セドリックはしばらく見つめていたが、やがて小さく息を吐き、扉を閉じた。
 一人残された禁書庫で、カミルは机に両肘をつき、深く頭を抱えた。

 ──また、嘘をついた。

 本当は、彼の顔を見るたびに心が揺れている。
 彼の声に安堵し、彼の真剣な瞳に惹かれている。
 その想いを口にする資格など、自分にはない。

 過去の傷が、いつも胸を縛る。
 外に出られなくなった理由を、自分の過去を彼に知られるわけにはいかない。
 彼に幻滅され、遠ざけられるのが何よりも怖かった。

 誰にも言えない秘密を抱えたまま、ただ静かに本の山に埋もれるしかない。
 それが、カミルに許された唯一の選択肢だった。

 カミルは震える手で蝋燭の火を消した。
 闇の中、ただひとり。
 彼は心を閉ざすことを必死に続けていた。

***

 その日、王国図書館には地方から学者が視察に訪れていた。
 古代文明を専門とする中年の研究者で、禁書庫の蔵書について説明を受けたいと希望してきたのだ。
 禁書庫の立ち入りは許可されなかったが、指示された部屋で一部の安全な記録については持ち出しと説明を許可された。

 カミルは淡々と応じていた。
 研究者は礼儀正しく、専門的な知識も豊富で、会話は自然と学問的な熱を帯びた。
 久しぶりに純粋な学術談義を交わすことができ、カミルの口元にはわずかな微笑が浮かんでいた。

「ほう、あなたは古代文字にも通じているのですね。やはりローレン家の血筋というべきか」

「……私には過分なお言葉です」

 柔らかい声音で答えながらも、心の奥に充実感を覚えていた。
 学問そのものを語れる時間は、彼にとって稀有な安らぎだった。

 ──だが、その場をじっと見つめる視線があった。

 扉の影から現れたのは、セドリック・ヴァレンティスだった。
 琥珀の瞳は冷ややかに光り、普段の余裕ある笑みはそこになかった。

「……随分と楽しそうだな」

 低い声に、研究者がぎょっとして振り返る。
 相手が宰相家の嫡男であると気づくと、慌てて礼をして退室していった。

 残されたのは、カミルとセドリック、二人きり。
 重い沈黙が降りる。

「……何を仰りたいのですか」

 カミルが静かに問うと、セドリックは一歩近づき、苛立ちを隠さぬ声音で告げた。

「誰にでも、そんな顔を見せるのか」

 胸が跳ねた。
 セドリックの声は怒りと嫉妬を含み、これまで以上に真っ直ぐだった。

「……そんな顔とは?」

「笑っていただろう。あの研究者と話している時。俺の前ではそんな風に笑わないのに」

 カミルは返答を失った。
 確かに、学術談義の中で自然に微笑んでいたのだろう。
 それをセドリックが見ていたと知ると、妙に胸がざわめいた。

「誤解です。私は誰とも深く関わるつもりはありません。……あなたとも」

 突き放すように言い切った。
 セドリックの瞳が一瞬揺れ、痛みを帯びる。

「……そうか」

 静かに吐き出された言葉。
 その声音に胸が締め付けられる。

 カミルは視線を逸らし、心を抑え込もうとした。
 守秘義務を背負い、過去に傷を抱えた自分は、誰とも関わるべきではない。
 それを何度も自分に言い聞かせてきた。

 ──なのに。

 セドリックの嫉妬を目の当たりにした時、胸の奥に温かいものが芽生えてしまった。

(……なぜ、嬉しいなんて)

 自分でも理解できない。
 突き放す言葉を選びながら、その裏で密かに期待している自分がいる。
 過去の恐怖と、現在の安らぎ。
 その狭間で、心はぐらぐらと揺れていた。

 セドリックは黙ったまま机に手を置き、じっとカミルを見つめた。
 火照ったような怒りと寂しさが混ざり合った瞳。
 その視線を受け止めるだけで、胸が痛む。

「……俺は帰る」

 短く言い残し、扉へ向かう。
 足音が遠ざかり、重い扉が閉まる音が響いた。

 残された静寂の中、カミルは深く息を吐いた。

「……私は、どうしたらいいんだ」

 突き放したはずなのに、胸の奥ではセドリックの嫉妬が焼きついて離れない。
 喜んではならないのに、胸に温かさを覚えたのも事実だった。

 禁書庫の闇の中、カミルは自らの心の矛盾に怯えながら、ただ本を開いた。
 ページの文字は霞み、視線は何度も同じ行を往復するばかりだった。

 外では夜の雨が静かに降り始めていた。
 嵐ではない、しとしととした雨。
 その音は、カミルの胸に広がる混乱と同じように、いつまでも止むことなく続いていた。
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