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第三話
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どれくらい、そうしていただろうか。
お互いの心臓の音だけが響く静寂の中、俺は栞の髪を撫で続けた。
彼女は俺の胸に顔をうずめ、すぅすぅと安らかな寝息を立て始めている。まるで、長年彷徨い続けた旅人が、ようやく安住の地を見つけたかのように。
(……ただいま、か)
その言葉が、俺の心の中で何度も反響する。
衝動と懐かしさだけで抱いたはずだった。一夜限りの過ちで終わらせるつもりだった。
なのに、彼女のその一言と、腕の中にある無防備な寝顔が、俺の中にあったはずの境界線をいともたやすく溶かしていく。
俺は一体、何を守りたくて、この四年間、蓋をしてきたんだろう。
栞を失った痛みからか。それとも、もう一度誰かを本気で愛して、傷つくのが怖かったからか。
答えなんて出ないまま、俺もまた、彼女の温もりの中で浅い眠りに落ちていった。
次に目を覚ました時、窓の外はすっかり明るくなっていた。
柔らかな朝日が、部屋に差し込んでいる。
隣には、もう栞の姿はなかった。シーツの上にかすかに残る、彼女の匂いと温もりだけが、昨夜の出来事が夢ではなかったと告げている。
どくり、と心臓が嫌な音を立てた。
(まさか、消えたのか?)
何も言わずに? あの「ただいま」は、嘘だったのか?
慌ててベッドから起き上がると、リビングスペースの方からかすかに水の音が聞こえてきた。
そっと覗くと、そこに栞がいた。
俺の、昨日脱ぎ捨てたYシャツを無造作に着て、キッチンのシンクで水を飲んでいる。
ぶかぶかのシャツから伸びる、白く華奢な脚。少し跳ねたままの、濡れたうなじ。
そのあまりにも無防備な姿に、どうしようもなく愛しさが込み上げてくる。昨夜とは違う、穏やかで、ひどく純粋な感情だった。
「……起きたの?」
俺の視線に気づいた栞が、少し恥ずかしそうに振り返る。
その頬は、朝日に透けてほんのりと赤かった。
「……ああ。てっきり、もう帰ったのかと」
「……帰る場所、ないから」
ぽつり、と彼女が呟いた。
その言葉の意味を、俺は測りかねる。
「どういうことだ?」
「……同棲してたの。別れたんだけど、まだ私が部屋を出てなくて。……昨日、荷物まとめて出てきたところだったんだ」
だから、あんな時間に一人で渋谷にいたのか。
スマホを見て曇っていた表情も、俺に「上書きして」とねだった理由も、すべてが一本の線で繋がった。
「……ひどいこと、されたのか」
俺の声が、自分でも驚くほど低くなった。
栞は答えず、ただ悲しそうに微笑んで、首を横に振るだけだった。その仕草が、何よりもの肯定に思えた。
許せない。
どこの誰かも知らない、栞をこんな顔にさせた“あいつ”が、腹の底から許せなかった。
俺は無言で彼女に近づき、その華奢な身体を後ろからそっと抱きしめた。
びくり、と栞の肩が揺れる。
「湊……?」
「……ここにいろよ」
「え……?」
「次の場所が見つかるまででいい。いや……お前がいいなら、ずっとでもいい。だから、もう一人で泣くな」
我ながら、どうかしていると思った。
25歳にもなって、衝動だけでこんなセリフを吐くなんて。
でも、言わずにはいられなかった。この腕の中にいる温もりを、二度と手放したくなかったんだ。
俺の胸に背中を預けたまま、栞はしばらく黙っていた。
やがて、ぽつり、ぽつりと嗚咽が聞こえ始める。
俺のYシャツの胸元が、彼女の涙でじわりと濡れていく。
「……どうして……」
「……」
「どうして、湊は……そんなに、優しいの……?」
優しくなんかない。
ただ、俺がもう一度、お前の隣にいたいだけだ。
四年前、言えなかった言葉。伝えられなかった想い。
それを今度こそ、形にしたかっただけだ。
俺は彼女の身体を自分の方へと反転させ、涙でぐしゃぐしゃになった顔を両手で包み込む。
そして、誓いを立てるように、その唇に自分のそれを重ねた。
昨夜のような、欲にまみれたキスじゃない。ただ、愛しさを伝えるだけの、ひどく優しいキスだった。
唇が離れた後、俺たちはどちらからともなく、ふっと笑い合った。
まるで、長い長い冬が終わり、ようやく春が訪れたみたいに。
「……腹、減ったな」
「……うん。ぺこぺこ」
「コンビニで何か買ってくる。コーヒーでいいか?」
「うん。ブラックで」
それは、恋人同士の、何の変てつもない朝の会話だった。
俺たちの失われた四年間が、そしてこれから始まる未来が、その一瞬に凝縮されているような気がした。
部屋の鍵と財布だけを掴んでドアを開ける。
秋の澄んだ空気が、少し火照った頬に心地よかった。
これは、一夜限りの過ちなんかじゃない。
25歳で迎えた、二度目の青春の始まりだった。
【続く】
お互いの心臓の音だけが響く静寂の中、俺は栞の髪を撫で続けた。
彼女は俺の胸に顔をうずめ、すぅすぅと安らかな寝息を立て始めている。まるで、長年彷徨い続けた旅人が、ようやく安住の地を見つけたかのように。
(……ただいま、か)
その言葉が、俺の心の中で何度も反響する。
衝動と懐かしさだけで抱いたはずだった。一夜限りの過ちで終わらせるつもりだった。
なのに、彼女のその一言と、腕の中にある無防備な寝顔が、俺の中にあったはずの境界線をいともたやすく溶かしていく。
俺は一体、何を守りたくて、この四年間、蓋をしてきたんだろう。
栞を失った痛みからか。それとも、もう一度誰かを本気で愛して、傷つくのが怖かったからか。
答えなんて出ないまま、俺もまた、彼女の温もりの中で浅い眠りに落ちていった。
次に目を覚ました時、窓の外はすっかり明るくなっていた。
柔らかな朝日が、部屋に差し込んでいる。
隣には、もう栞の姿はなかった。シーツの上にかすかに残る、彼女の匂いと温もりだけが、昨夜の出来事が夢ではなかったと告げている。
どくり、と心臓が嫌な音を立てた。
(まさか、消えたのか?)
何も言わずに? あの「ただいま」は、嘘だったのか?
慌ててベッドから起き上がると、リビングスペースの方からかすかに水の音が聞こえてきた。
そっと覗くと、そこに栞がいた。
俺の、昨日脱ぎ捨てたYシャツを無造作に着て、キッチンのシンクで水を飲んでいる。
ぶかぶかのシャツから伸びる、白く華奢な脚。少し跳ねたままの、濡れたうなじ。
そのあまりにも無防備な姿に、どうしようもなく愛しさが込み上げてくる。昨夜とは違う、穏やかで、ひどく純粋な感情だった。
「……起きたの?」
俺の視線に気づいた栞が、少し恥ずかしそうに振り返る。
その頬は、朝日に透けてほんのりと赤かった。
「……ああ。てっきり、もう帰ったのかと」
「……帰る場所、ないから」
ぽつり、と彼女が呟いた。
その言葉の意味を、俺は測りかねる。
「どういうことだ?」
「……同棲してたの。別れたんだけど、まだ私が部屋を出てなくて。……昨日、荷物まとめて出てきたところだったんだ」
だから、あんな時間に一人で渋谷にいたのか。
スマホを見て曇っていた表情も、俺に「上書きして」とねだった理由も、すべてが一本の線で繋がった。
「……ひどいこと、されたのか」
俺の声が、自分でも驚くほど低くなった。
栞は答えず、ただ悲しそうに微笑んで、首を横に振るだけだった。その仕草が、何よりもの肯定に思えた。
許せない。
どこの誰かも知らない、栞をこんな顔にさせた“あいつ”が、腹の底から許せなかった。
俺は無言で彼女に近づき、その華奢な身体を後ろからそっと抱きしめた。
びくり、と栞の肩が揺れる。
「湊……?」
「……ここにいろよ」
「え……?」
「次の場所が見つかるまででいい。いや……お前がいいなら、ずっとでもいい。だから、もう一人で泣くな」
我ながら、どうかしていると思った。
25歳にもなって、衝動だけでこんなセリフを吐くなんて。
でも、言わずにはいられなかった。この腕の中にいる温もりを、二度と手放したくなかったんだ。
俺の胸に背中を預けたまま、栞はしばらく黙っていた。
やがて、ぽつり、ぽつりと嗚咽が聞こえ始める。
俺のYシャツの胸元が、彼女の涙でじわりと濡れていく。
「……どうして……」
「……」
「どうして、湊は……そんなに、優しいの……?」
優しくなんかない。
ただ、俺がもう一度、お前の隣にいたいだけだ。
四年前、言えなかった言葉。伝えられなかった想い。
それを今度こそ、形にしたかっただけだ。
俺は彼女の身体を自分の方へと反転させ、涙でぐしゃぐしゃになった顔を両手で包み込む。
そして、誓いを立てるように、その唇に自分のそれを重ねた。
昨夜のような、欲にまみれたキスじゃない。ただ、愛しさを伝えるだけの、ひどく優しいキスだった。
唇が離れた後、俺たちはどちらからともなく、ふっと笑い合った。
まるで、長い長い冬が終わり、ようやく春が訪れたみたいに。
「……腹、減ったな」
「……うん。ぺこぺこ」
「コンビニで何か買ってくる。コーヒーでいいか?」
「うん。ブラックで」
それは、恋人同士の、何の変てつもない朝の会話だった。
俺たちの失われた四年間が、そしてこれから始まる未来が、その一瞬に凝縮されているような気がした。
部屋の鍵と財布だけを掴んでドアを開ける。
秋の澄んだ空気が、少し火照った頬に心地よかった。
これは、一夜限りの過ちなんかじゃない。
25歳で迎えた、二度目の青春の始まりだった。
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