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第五話
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シャワールームから聞こえてくる、控えめな水の音。
その生活音ひとつが、昨日までの俺の殺風景なワンルームを、まるで別の空間に変えてしまったかのようだった。
俺は落ち着かずに、床に散らばっていた漫画を本棚に押し込んだり、飲みっぱなしだったペットボトルを片付けたりした。栞がこの部屋で過ごす。その事実が、俺に奇妙な緊張と高揚感を与えていた。
(……やばいな、これ)
心の中で、誰にともなく呟く。
一夜限りの火遊びのつもりが、どうしようもないほど、本気になっている。
25歳にもなって、まるで高校生みたいに、好きな子の部屋訪問を前に慌てている自分がおかしくて、少し情けなかった。
やがて、水の音が止まる。
心臓が、どくん、と跳ねた。
ガチャリ、とドアが開き、湯気の向こうから栞が現れた。
俺の、着古したグレーのTシャツと、黒のスウェットパンツ姿で。
ぶかぶかのTシャツは彼女の華奢な肩を強調し、裾からはまっすぐな脚が覗いている。濡れた髪を無造作にタオルで拭う仕草が、ひどく、無防備で。
「……なんか、ごめん。おじさんみたい」
栞が照れくさそうに笑う。
俺は、言葉を失っていた。
綺麗だ、とか、可愛い、とか、そんな陳腐な言葉じゃ足りない。
俺の匂いに包まれた彼女が、そこにいる。その事実だけで、胸が締め付けられるように熱くなった。
「……いや。……すげえ、いい」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
俺の視線に気づいた栞は、顔を真っ赤にして俯いてしまう。
「……ドライヤー、借りるね」
気まずさを誤魔化すように、彼女が言う。
俺は黙って頷き、ローテーブルの前に座布団を二つ並べた。
ブォン、というドライヤーの音を聞きながら、俺はこれから話すべきことを頭の中で整理していた。
髪を乾かし終えた栞が、おずおずと俺の向かいに正座する。
熱い緑茶を淹れてやると、彼女は両手で湯呑みを包み込むように持って、小さく息を吐いた。
「……湊」
「……ん?」
「……本当に、いいの? 私、ここにいて」
その声は、まだ少しだけ不安に揺れていた。
俺は自分の湯呑みを置き、彼女の目をまっすぐに見つめ返した。
「いいに決まってるだろ。俺が、いてほしいんだ」
「……」
「……昨日の夜、言ってた“あいつ”のこと、聞いてもいいか?」
核心に触れると、栞の肩が小さく震えた。
でも、彼女は逃げなかった。湯呑みをテーブルに置くと、膝の上で自分の指をきつく握りしめる。
「……うん」
ぽつり、ぽつりと、彼女は語り始めた。
相手は、会社の先輩だったこと。最初は優しかったけれど、次第に束縛が激しくなり、他の男と話すことすら許されなくなったこと。そして、栞が別れを切り出すと、「お前がいなくなったら死ぬ」と脅すようになったこと。
「……怖かった。私のせいだって、私が我慢すれば丸く収まるんだって、ずっと思ってた。でも、もう限界で……昨日、荷物をまとめて飛び出してきたの。そしたら、湊がいたから……神様みたいに見えた」
指の関節が白くなるほど、強く握りしめられた手。
俺はたまらなくなって、その手を、上から自分の大きな手で包み込んだ。
「……っ!」
「もう、我慢しなくていい」
俺の声は、怒りで震えていた。
栞に対してじゃない。彼女をそんな風に追い詰めた、顔も知らない男に対しての、腹の底からの怒りだった。
「お前は何も悪くない。絶対に」
俺がそう言うと、栞の瞳から、こらえていた涙がぼろぼろと大粒でこぼれ落ちた。
彼女は「ごめん」「ごめんね」と繰り返しながら、子供のようにしゃくり上げる。
俺は黙って彼女の隣に移動し、その震える身体を、壊れ物を抱きしめるように、そっと引き寄せた。
俺の胸に顔をうずめ、栞は声を殺して泣き続けた。
その涙が、俺のTシャツにじわりと染みていく。それは、彼女が一人で抱え込んできた、四年間分の孤独の重さだった。
「……荷物、取りに行かなきゃ」
しばらくして、少し落ち着いた彼女が、くぐもった声で言った。
「……ああ」
「でも、一人じゃ、怖い……」
「当たり前だろ。俺も一緒に行く」
即答だった。
迷いは一切なかった。
この女を、俺が守る。
四年前、守れなかった分まで、今度こそ、絶対に。
俺がそう言うと、栞は俺の胸から顔を上げた。
泣き腫らして赤くなった目で俺を見つめ、そして、安心したように、ふわりと微笑んだ。
「……ありがとう、湊」
その笑顔を守れるなら、俺はなんだってできる。
本気で、そう思った。
俺たちは、まだ「恋人」という名前の関係じゃない。
けれど、この腕の中にある温もりと、胸に宿った覚悟は、どんな肩書きよりも確かで、重いものだった。
【続く】
その生活音ひとつが、昨日までの俺の殺風景なワンルームを、まるで別の空間に変えてしまったかのようだった。
俺は落ち着かずに、床に散らばっていた漫画を本棚に押し込んだり、飲みっぱなしだったペットボトルを片付けたりした。栞がこの部屋で過ごす。その事実が、俺に奇妙な緊張と高揚感を与えていた。
(……やばいな、これ)
心の中で、誰にともなく呟く。
一夜限りの火遊びのつもりが、どうしようもないほど、本気になっている。
25歳にもなって、まるで高校生みたいに、好きな子の部屋訪問を前に慌てている自分がおかしくて、少し情けなかった。
やがて、水の音が止まる。
心臓が、どくん、と跳ねた。
ガチャリ、とドアが開き、湯気の向こうから栞が現れた。
俺の、着古したグレーのTシャツと、黒のスウェットパンツ姿で。
ぶかぶかのTシャツは彼女の華奢な肩を強調し、裾からはまっすぐな脚が覗いている。濡れた髪を無造作にタオルで拭う仕草が、ひどく、無防備で。
「……なんか、ごめん。おじさんみたい」
栞が照れくさそうに笑う。
俺は、言葉を失っていた。
綺麗だ、とか、可愛い、とか、そんな陳腐な言葉じゃ足りない。
俺の匂いに包まれた彼女が、そこにいる。その事実だけで、胸が締め付けられるように熱くなった。
「……いや。……すげえ、いい」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
俺の視線に気づいた栞は、顔を真っ赤にして俯いてしまう。
「……ドライヤー、借りるね」
気まずさを誤魔化すように、彼女が言う。
俺は黙って頷き、ローテーブルの前に座布団を二つ並べた。
ブォン、というドライヤーの音を聞きながら、俺はこれから話すべきことを頭の中で整理していた。
髪を乾かし終えた栞が、おずおずと俺の向かいに正座する。
熱い緑茶を淹れてやると、彼女は両手で湯呑みを包み込むように持って、小さく息を吐いた。
「……湊」
「……ん?」
「……本当に、いいの? 私、ここにいて」
その声は、まだ少しだけ不安に揺れていた。
俺は自分の湯呑みを置き、彼女の目をまっすぐに見つめ返した。
「いいに決まってるだろ。俺が、いてほしいんだ」
「……」
「……昨日の夜、言ってた“あいつ”のこと、聞いてもいいか?」
核心に触れると、栞の肩が小さく震えた。
でも、彼女は逃げなかった。湯呑みをテーブルに置くと、膝の上で自分の指をきつく握りしめる。
「……うん」
ぽつり、ぽつりと、彼女は語り始めた。
相手は、会社の先輩だったこと。最初は優しかったけれど、次第に束縛が激しくなり、他の男と話すことすら許されなくなったこと。そして、栞が別れを切り出すと、「お前がいなくなったら死ぬ」と脅すようになったこと。
「……怖かった。私のせいだって、私が我慢すれば丸く収まるんだって、ずっと思ってた。でも、もう限界で……昨日、荷物をまとめて飛び出してきたの。そしたら、湊がいたから……神様みたいに見えた」
指の関節が白くなるほど、強く握りしめられた手。
俺はたまらなくなって、その手を、上から自分の大きな手で包み込んだ。
「……っ!」
「もう、我慢しなくていい」
俺の声は、怒りで震えていた。
栞に対してじゃない。彼女をそんな風に追い詰めた、顔も知らない男に対しての、腹の底からの怒りだった。
「お前は何も悪くない。絶対に」
俺がそう言うと、栞の瞳から、こらえていた涙がぼろぼろと大粒でこぼれ落ちた。
彼女は「ごめん」「ごめんね」と繰り返しながら、子供のようにしゃくり上げる。
俺は黙って彼女の隣に移動し、その震える身体を、壊れ物を抱きしめるように、そっと引き寄せた。
俺の胸に顔をうずめ、栞は声を殺して泣き続けた。
その涙が、俺のTシャツにじわりと染みていく。それは、彼女が一人で抱え込んできた、四年間分の孤独の重さだった。
「……荷物、取りに行かなきゃ」
しばらくして、少し落ち着いた彼女が、くぐもった声で言った。
「……ああ」
「でも、一人じゃ、怖い……」
「当たり前だろ。俺も一緒に行く」
即答だった。
迷いは一切なかった。
この女を、俺が守る。
四年前、守れなかった分まで、今度こそ、絶対に。
俺がそう言うと、栞は俺の胸から顔を上げた。
泣き腫らして赤くなった目で俺を見つめ、そして、安心したように、ふわりと微笑んだ。
「……ありがとう、湊」
その笑顔を守れるなら、俺はなんだってできる。
本気で、そう思った。
俺たちは、まだ「恋人」という名前の関係じゃない。
けれど、この腕の中にある温もりと、胸に宿った覚悟は、どんな肩書きよりも確かで、重いものだった。
【続く】
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