7 / 9
第七話
しおりを挟む
ソファでぐったりと横たわる男。散乱する薬のシート。
鼻を突く悪臭の中で、栞が「ぁ……」と小さく悲鳴を上げた。その身体が恐怖で凍りついているのが、背中越しに伝わってくる。
俺は栞の肩を強く抱き、冷静になれ、と自分に言い聞かせた。
パニックになれば終わりだ。ここで俺がしっかりしなければ、彼女は本当に壊れてしまう。
「栞、ここにいろ。絶対に動くな」
彼女をドアの前に立たせたまま、俺はゆっくりと男に近づいた。
床に散らばるゴミを踏まないように、慎重に。
ソファの前に膝をつき、男の首筋にそっと指を当てる。
──トクン、トクン。
弱々しいが、確かに脈はあった。胸も、かすかに上下している。
死んではいない。ただ、大量の酒と薬で意識を飛ばしているだけだ。
俺は心の底から安堵し、大きく息を吐いた。
「……湊……?」
不安そうな栞の声に、俺は振り返らずに答える。
「生きてる。ただ眠ってるだけだ」
「……救急車……」
「呼ばない」
俺は、きっぱりと言い切った。
「救急車や警察を呼べば、お前も事情聴取される。こいつの親族にも連絡がいって、話がややこしくなるだけだ。……こいつは放っておけ。自業自得だ」
非情な言葉だと、自分でも思う。
だが、今の俺にとっての最優先事項は、栞をこの地獄から一秒でも早く連れ出すことだった。
「お前の荷物だけ、さっさとまとめるぞ。時間はかけられない。必要なものだけだ」
俺の言葉に、栞は一瞬だけ躊躇した。だが、すぐに瞳に強い光を宿し、小さく、しかしはっきりと頷いた。
「……うん」
彼女はクローゼットに向かい、床に置いてあったスーツケースを開く。
俺はその間、リビングのドアの前に仁王立ちし、ソファの男から片時も目を離さなかった。万が一、こいつが目を覚ましても、絶対に栞には指一本触れさせない。
ガサガサと、栞が服や化粧品を詰める音だけが、静かな部屋に響く。
その時だった。
「……しおり……」
ソファの男が、うわ言のように、栞の名前を呼んだ。
びくり、と栞の肩が跳ねる。
俺は咄嗟に、栞の前に立ちはだかった。
「……行くな……しおり……俺を、ひとりに……しないでくれ……」
まるで子供が母親に縋るような、弱々しく、惨めな声。
それは、彼女をこの部屋に縛り付けていた呪いの言葉そのものだった。
俺は振り返り、栞の顔を見た。彼女は顔を真っ青にして、唇を固く噛み締めている。
「……栞」
俺は、彼女の目を見て、静かに言った。
「もう、お前が背負う必要はない」
その言葉が、最後の引き金になった。
栞は瞳を閉じ、そして、ゆっくりと開いた。
もう、そこに怯えはなかった。
彼女は最後に下着と数枚の書類を詰めると、スーツケースの蓋を閉めた。
そして、部屋の隅に転がっている、粉々に割れた写真立てに一瞥をくれる。おそらく、二人の思い出の写真だったのだろう。
だが、彼女はそれを拾おうとはしなかった。
代わりに、バッグから一本の鍵を取り出すと、テーブルの、ゴミが唯一ないスペースに、そっと置いた。
カチャリ、という小さな金属音が、別れの合図だった。
「……終わったよ、湊」
「……よし、行こう」
俺は彼女のスーツケースを掴み、栞の手を引いて、二度と振り返らずにその部屋を出た。
マンションのエントランスを抜け、外に出た瞬間。
燦々と降り注ぐ太陽の光を浴びて、張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。
「……ぁ……」
栞は、その場に崩れ落ちるように、へたり込んだ。
俺はスーツケースを放り出し、その華奢な身体を抱きとめる。
「……終わった。……もう、大丈夫だ」
俺の腕の中で、彼女は声を殺して泣きじゃくった。
恐怖から解放された、安堵の涙だった。
俺は、ただ黙って、その小さな背中をさすり続けた。
通行人が奇異の目で俺たちを見ていたが、どうでもよかった。
帰り道の電車の中、俺たちは一言も話さなかった。
栞は、疲弊しきった様子で、俺の肩に頭を預けて眠っていた。
俺は彼女の寝顔を見ながら、繋いだ手に、そっと力を込める。
守りきった。
そして、これから、俺がこいつの居場所になるんだ。
俺の部屋のドアを開け、二人で中に入り、鍵をかける。
外の世界から完全に遮断された、二人だけの空間。
「……はぁ……」
同時に、大きなため息が漏れた。
そして、どちらからともなく、顔を見合わせて、ふっと笑い合った。
緊張から解放された身体が、途端に熱を帯び始めるのが分かった。
俺は、吸い寄せられるように栞の唇を求め、彼女もまた、それに応えるように、俺の首に腕を回してきた。
これは、昨夜のセックスとは違う。
過去への決別と、未来への誓いを込めた、魂の交わりが、始まろうとしていた。
【続く】
鼻を突く悪臭の中で、栞が「ぁ……」と小さく悲鳴を上げた。その身体が恐怖で凍りついているのが、背中越しに伝わってくる。
俺は栞の肩を強く抱き、冷静になれ、と自分に言い聞かせた。
パニックになれば終わりだ。ここで俺がしっかりしなければ、彼女は本当に壊れてしまう。
「栞、ここにいろ。絶対に動くな」
彼女をドアの前に立たせたまま、俺はゆっくりと男に近づいた。
床に散らばるゴミを踏まないように、慎重に。
ソファの前に膝をつき、男の首筋にそっと指を当てる。
──トクン、トクン。
弱々しいが、確かに脈はあった。胸も、かすかに上下している。
死んではいない。ただ、大量の酒と薬で意識を飛ばしているだけだ。
俺は心の底から安堵し、大きく息を吐いた。
「……湊……?」
不安そうな栞の声に、俺は振り返らずに答える。
「生きてる。ただ眠ってるだけだ」
「……救急車……」
「呼ばない」
俺は、きっぱりと言い切った。
「救急車や警察を呼べば、お前も事情聴取される。こいつの親族にも連絡がいって、話がややこしくなるだけだ。……こいつは放っておけ。自業自得だ」
非情な言葉だと、自分でも思う。
だが、今の俺にとっての最優先事項は、栞をこの地獄から一秒でも早く連れ出すことだった。
「お前の荷物だけ、さっさとまとめるぞ。時間はかけられない。必要なものだけだ」
俺の言葉に、栞は一瞬だけ躊躇した。だが、すぐに瞳に強い光を宿し、小さく、しかしはっきりと頷いた。
「……うん」
彼女はクローゼットに向かい、床に置いてあったスーツケースを開く。
俺はその間、リビングのドアの前に仁王立ちし、ソファの男から片時も目を離さなかった。万が一、こいつが目を覚ましても、絶対に栞には指一本触れさせない。
ガサガサと、栞が服や化粧品を詰める音だけが、静かな部屋に響く。
その時だった。
「……しおり……」
ソファの男が、うわ言のように、栞の名前を呼んだ。
びくり、と栞の肩が跳ねる。
俺は咄嗟に、栞の前に立ちはだかった。
「……行くな……しおり……俺を、ひとりに……しないでくれ……」
まるで子供が母親に縋るような、弱々しく、惨めな声。
それは、彼女をこの部屋に縛り付けていた呪いの言葉そのものだった。
俺は振り返り、栞の顔を見た。彼女は顔を真っ青にして、唇を固く噛み締めている。
「……栞」
俺は、彼女の目を見て、静かに言った。
「もう、お前が背負う必要はない」
その言葉が、最後の引き金になった。
栞は瞳を閉じ、そして、ゆっくりと開いた。
もう、そこに怯えはなかった。
彼女は最後に下着と数枚の書類を詰めると、スーツケースの蓋を閉めた。
そして、部屋の隅に転がっている、粉々に割れた写真立てに一瞥をくれる。おそらく、二人の思い出の写真だったのだろう。
だが、彼女はそれを拾おうとはしなかった。
代わりに、バッグから一本の鍵を取り出すと、テーブルの、ゴミが唯一ないスペースに、そっと置いた。
カチャリ、という小さな金属音が、別れの合図だった。
「……終わったよ、湊」
「……よし、行こう」
俺は彼女のスーツケースを掴み、栞の手を引いて、二度と振り返らずにその部屋を出た。
マンションのエントランスを抜け、外に出た瞬間。
燦々と降り注ぐ太陽の光を浴びて、張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。
「……ぁ……」
栞は、その場に崩れ落ちるように、へたり込んだ。
俺はスーツケースを放り出し、その華奢な身体を抱きとめる。
「……終わった。……もう、大丈夫だ」
俺の腕の中で、彼女は声を殺して泣きじゃくった。
恐怖から解放された、安堵の涙だった。
俺は、ただ黙って、その小さな背中をさすり続けた。
通行人が奇異の目で俺たちを見ていたが、どうでもよかった。
帰り道の電車の中、俺たちは一言も話さなかった。
栞は、疲弊しきった様子で、俺の肩に頭を預けて眠っていた。
俺は彼女の寝顔を見ながら、繋いだ手に、そっと力を込める。
守りきった。
そして、これから、俺がこいつの居場所になるんだ。
俺の部屋のドアを開け、二人で中に入り、鍵をかける。
外の世界から完全に遮断された、二人だけの空間。
「……はぁ……」
同時に、大きなため息が漏れた。
そして、どちらからともなく、顔を見合わせて、ふっと笑い合った。
緊張から解放された身体が、途端に熱を帯び始めるのが分かった。
俺は、吸い寄せられるように栞の唇を求め、彼女もまた、それに応えるように、俺の首に腕を回してきた。
これは、昨夜のセックスとは違う。
過去への決別と、未来への誓いを込めた、魂の交わりが、始まろうとしていた。
【続く】
0
あなたにおすすめの小説
むっつり金持ち高校生、巨乳美少女たちに囲まれて学園ハーレム
ピコサイクス
青春
顔は普通、性格も地味。
けれど実は金持ちな高校一年生――俺、朝倉健斗。
学校では埋もれキャラのはずなのに、なぜか周りは巨乳美女ばかり!?
大学生の家庭教師、年上メイド、同級生ギャルに清楚系美少女……。
真面目な御曹司を演じつつ、内心はむっつりスケベ。
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる