25歳、終電後の元カノは俺の知らない匂いがした

どえろん

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第七話

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 ソファでぐったりと横たわる男。散乱する薬のシート。
 鼻を突く悪臭の中で、栞が「ぁ……」と小さく悲鳴を上げた。その身体が恐怖で凍りついているのが、背中越しに伝わってくる。

 俺は栞の肩を強く抱き、冷静になれ、と自分に言い聞かせた。
 パニックになれば終わりだ。ここで俺がしっかりしなければ、彼女は本当に壊れてしまう。

「栞、ここにいろ。絶対に動くな」

 彼女をドアの前に立たせたまま、俺はゆっくりと男に近づいた。
 床に散らばるゴミを踏まないように、慎重に。
 ソファの前に膝をつき、男の首筋にそっと指を当てる。

 ──トクン、トクン。

 弱々しいが、確かに脈はあった。胸も、かすかに上下している。
 死んではいない。ただ、大量の酒と薬で意識を飛ばしているだけだ。
 俺は心の底から安堵し、大きく息を吐いた。

「……湊……?」

 不安そうな栞の声に、俺は振り返らずに答える。

「生きてる。ただ眠ってるだけだ」
「……救急車……」
「呼ばない」

 俺は、きっぱりと言い切った。

「救急車や警察を呼べば、お前も事情聴取される。こいつの親族にも連絡がいって、話がややこしくなるだけだ。……こいつは放っておけ。自業自得だ」

 非情な言葉だと、自分でも思う。
 だが、今の俺にとっての最優先事項は、栞をこの地獄から一秒でも早く連れ出すことだった。

「お前の荷物だけ、さっさとまとめるぞ。時間はかけられない。必要なものだけだ」

 俺の言葉に、栞は一瞬だけ躊躇した。だが、すぐに瞳に強い光を宿し、小さく、しかしはっきりと頷いた。
「……うん」

 彼女はクローゼットに向かい、床に置いてあったスーツケースを開く。
 俺はその間、リビングのドアの前に仁王立ちし、ソファの男から片時も目を離さなかった。万が一、こいつが目を覚ましても、絶対に栞には指一本触れさせない。

 ガサガサと、栞が服や化粧品を詰める音だけが、静かな部屋に響く。
 その時だった。

「……しおり……」

 ソファの男が、うわ言のように、栞の名前を呼んだ。

 びくり、と栞の肩が跳ねる。
 俺は咄嗟に、栞の前に立ちはだかった。

「……行くな……しおり……俺を、ひとりに……しないでくれ……」

 まるで子供が母親に縋るような、弱々しく、惨めな声。
 それは、彼女をこの部屋に縛り付けていた呪いの言葉そのものだった。
 俺は振り返り、栞の顔を見た。彼女は顔を真っ青にして、唇を固く噛み締めている。

「……栞」
 俺は、彼女の目を見て、静かに言った。
「もう、お前が背負う必要はない」

 その言葉が、最後の引き金になった。
 栞は瞳を閉じ、そして、ゆっくりと開いた。
 もう、そこに怯えはなかった。

 彼女は最後に下着と数枚の書類を詰めると、スーツケースの蓋を閉めた。
 そして、部屋の隅に転がっている、粉々に割れた写真立てに一瞥をくれる。おそらく、二人の思い出の写真だったのだろう。
 だが、彼女はそれを拾おうとはしなかった。

 代わりに、バッグから一本の鍵を取り出すと、テーブルの、ゴミが唯一ないスペースに、そっと置いた。
 カチャリ、という小さな金属音が、別れの合図だった。

「……終わったよ、湊」
「……よし、行こう」

 俺は彼女のスーツケースを掴み、栞の手を引いて、二度と振り返らずにその部屋を出た。

 マンションのエントランスを抜け、外に出た瞬間。
 燦々と降り注ぐ太陽の光を浴びて、張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。

「……ぁ……」

 栞は、その場に崩れ落ちるように、へたり込んだ。
 俺はスーツケースを放り出し、その華奢な身体を抱きとめる。

「……終わった。……もう、大丈夫だ」

 俺の腕の中で、彼女は声を殺して泣きじゃくった。
 恐怖から解放された、安堵の涙だった。
 俺は、ただ黙って、その小さな背中をさすり続けた。
 通行人が奇異の目で俺たちを見ていたが、どうでもよかった。

 帰り道の電車の中、俺たちは一言も話さなかった。
 栞は、疲弊しきった様子で、俺の肩に頭を預けて眠っていた。
 俺は彼女の寝顔を見ながら、繋いだ手に、そっと力を込める。

 守りきった。
 そして、これから、俺がこいつの居場所になるんだ。

 俺の部屋のドアを開け、二人で中に入り、鍵をかける。
 外の世界から完全に遮断された、二人だけの空間。

「……はぁ……」

 同時に、大きなため息が漏れた。
 そして、どちらからともなく、顔を見合わせて、ふっと笑い合った。

 緊張から解放された身体が、途端に熱を帯び始めるのが分かった。
 俺は、吸い寄せられるように栞の唇を求め、彼女もまた、それに応えるように、俺の首に腕を回してきた。

 これは、昨夜のセックスとは違う。
 過去への決別と、未来への誓いを込めた、魂の交わりが、始まろうとしていた。

【続く】
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