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第二十八章 変わりゆく関係
イケメン教師、神崎校長の妻からの連絡を受け取る
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帰り道、人気のない歩道に足を止めて、小坂はスマホを取り出した。
画面には、神崎の妻からのメッセージ。
《今日は来られる? ちょっと作りすぎちゃって。あなたの好きそうな味、思い出して作ってみたの》
気取らない、でもどこか可愛らしい文面だった。
優しい人だと、思う。最初からずっと。
あの家で何度も夕飯を食べて、味噌汁の味も、盛り付けの癖も、言葉の抑揚も――すっかり覚えてしまった。
でも、あの家にはもう、家族が戻っている。
校長と、奥さんと、息子さん。
それで、いいのだと思う。
小坂は立ち止まったまま、ゆっくりと返信を打った。
《今日はやめておきます。お心遣い、とても嬉しかったです。
たくさんいただいたやさしさ、ちゃんと覚えています。
これからは、ご家族との時間を何より大切にしてくださいね》
読み返し、送信ボタンを押す。
画面が閉じると同時に、小坂はスマホを胸ポケットにしまった。
寂しさは、なかったわけではない。
でもそれ以上に、自分がもう“通過した”という実感があった。
役目を果たしたのだ。
ほんの一時、“家族”のような輪の中に加えてもらったことに、心から感謝している。
もう十分だ。
風が少し吹いて、街路樹の影が舗道に揺れた。
小坂は、足を前に出した。
もう振り返ることはなかった。
---
スマホに届いたメッセージは、短く、そしてどこか小坂の胸をつくような内容だった。
《今日は来られる?
白ワインで蒸した鶏と春野菜のサラダに、もち麦入りのミネストローネ、
それと、いちじくとくるみの白和えもあるの。
炊き込みご飯、あなたが好きだったやつ。……ちょっと作りすぎちゃって》
行間から、あの人の声色が聞こえるようだった。
明るくて、でもほんの少し迷いのある、あの調子。
小坂は微かに笑って、胸の奥でなにかがふっと揺れた。
「ちょっと作りすぎた」は、きっと言い訳だ。
自分がもう来ないことに、あの人は気づいている。
でもそれをはっきり言葉にしないやさしさに、小坂は逆に救われる気がした。
彼女はきっと、今も穏やかな台所に立っている。
神崎校長が食卓に座って、新聞でも読んでいるのかもしれない。
息子が久々に「今日は家で食べるよ」と言って、スニーカーのままリビングに上がってくるかもしれない。
……もしかしたら、大学の友人を連れてくることだってある。
その光景を思い浮かべるだけで、小坂の心は、少しだけ温かくなった。
小坂はスマホを持ち替えて、ゆっくりと返信を打った。
《今日はやめておきます。
いつも気にかけてくださって、ありがとうございます。
あの美味しいごはんたち、本当に、忘れません。
これからは、ご家族とのおだやかな時間を大切にしてくださいね》
メッセージを送り、ポケットにしまう。
風が少し吹いて、頬をなでていった。
寂しさは、たしかにあった。
けれど、そのすぐ隣に、「ちゃんと終われた」という静かな安心もあった。
誰かの台所の灯りを、あたたかいと感じられる自分でいられること。
それだけで、今夜は十分だと思えた。
---
返事を送り終えて、スマホをしまったそのときだった。
胸の奥に、なにかが静かに沈んでいく感覚があった。
何層にも重ねてきた何かが、音もなく、剥がれ落ちていくような。
立ち止まったまま、小坂は上を見た。
春の空はまだ明るいのに、視界がにじんで見えた。
涙だった。
自然に、こぼれていた。
頬を伝う雫を、拭おうともしなかった。
通行人もいない。車の音もしない。
ただ夕方の風のなかで、小坂は、静かに泣いた。
(……あの人のごはん、ほんとうにあったかかったな)
白和えのほんのり甘い香り。
ミネストローネに入っていた、ほろっと崩れるにんじん。
お茶碗に盛られた桜えびと菜の花のご飯――
思い出すたびに、胸がつまって言葉にならなかった。
あの人は、母のようだった。
自分には、知らないままだった“やさしい手”の記憶。
保護者に押し倒されたこともある。
義母に「おまえなんかいらない」と言われたことも。
ずっと、女の人が怖かった。
でも――
あの人の食卓に座っているときだけは、自分が許されているような気がした。
そして、いま。
その人は、もう小坂ではなく、家族のために料理を作っている。
スマホが、かすかに震えた。
彼女からの返信ではなかった。
SNSの通知だった。
そこには、見覚えのあるアカウント――神崎の妻のもの――から、こんな文があった。
《すごいことが起きたの。〇〇(息子の名前)が、“友達、今日連れてきてもいい?”って。
急いでお皿ふたつ追加したけど、たくさん作っててほんとよかった》
その文字を見た瞬間、小坂の胸が、つんと痛んで、すぐに熱を帯びた。
(……よかった)
心の底から、そう思った。
作りすぎた料理は、ちゃんと必要とされた。
あの人の食卓は、ほんとうの“家族の食卓”になったのだ。
それが、こんなに嬉しいのに、
涙は止まらなかった。
小坂はマフラーを引き上げて、顔を隠すようにして歩き出した。
春の夕方、にじんだ光のなかを、ひとりで。
でも、歩けた。
それだけで、十分だった。
---
駅前の木陰で立ち止まり、スマホをもう一度開く。
ふと、あの人のSNSをのぞいてみた。
彼女のプロフィールには、時折手作りの料理や季節の花、風景がさりげなく載っている。
色合いもレイアウトも、すっきりしていて優しかった。
小坂がそのアカウントを知ったのは、数ヶ月前――
「よかったら見てみて。趣味みたいなものだから」と、照れくさそうに彼女が教えてくれたのだった。
今日の投稿には、春色の食卓の写真と共に、こんな短い文が添えられていた。
《今日は初めて、息子が“友達を家に連れてきたい”って。
大急ぎでお皿を追加して、でも……とても、うれしかった》
料理の写真は、白い皿にのった蒸し鶏と、菜の花の炊き込みご飯。
奥に、もち麦のスープ。
写っていないはずの“誰か”の温度まで、画面越しに感じられる。
小坂は指先で画面を閉じようとした、そのときだった。
メッセージの通知が届いた。
――彼女からだった。
《ありがとう。心から。あなたのおかげで、ここまで来られました》
文はそれだけだった。絵文字もスタンプもない言葉。
小坂はしばらく、画面を見つめていた。
どんな返事をしたらいいかわからなかった。
「そんなことないです」と返すのは、きっとちがう。
でも、言葉にならなくても、伝わった気がした。
胸の奥で、長く重たく沈んでいたものが、ようやく浮かび上がっていく。
つらかった過去も、逃げられなかった記憶も――今この瞬間、小さく、確かに上書きされた。
小坂は深く息を吐いて、ポケットにスマホをしまった。
そして、そっと呟いた。
「……こちらこそ、ありがとう」
それだけを、風が連れていった。
画面には、神崎の妻からのメッセージ。
《今日は来られる? ちょっと作りすぎちゃって。あなたの好きそうな味、思い出して作ってみたの》
気取らない、でもどこか可愛らしい文面だった。
優しい人だと、思う。最初からずっと。
あの家で何度も夕飯を食べて、味噌汁の味も、盛り付けの癖も、言葉の抑揚も――すっかり覚えてしまった。
でも、あの家にはもう、家族が戻っている。
校長と、奥さんと、息子さん。
それで、いいのだと思う。
小坂は立ち止まったまま、ゆっくりと返信を打った。
《今日はやめておきます。お心遣い、とても嬉しかったです。
たくさんいただいたやさしさ、ちゃんと覚えています。
これからは、ご家族との時間を何より大切にしてくださいね》
読み返し、送信ボタンを押す。
画面が閉じると同時に、小坂はスマホを胸ポケットにしまった。
寂しさは、なかったわけではない。
でもそれ以上に、自分がもう“通過した”という実感があった。
役目を果たしたのだ。
ほんの一時、“家族”のような輪の中に加えてもらったことに、心から感謝している。
もう十分だ。
風が少し吹いて、街路樹の影が舗道に揺れた。
小坂は、足を前に出した。
もう振り返ることはなかった。
---
スマホに届いたメッセージは、短く、そしてどこか小坂の胸をつくような内容だった。
《今日は来られる?
白ワインで蒸した鶏と春野菜のサラダに、もち麦入りのミネストローネ、
それと、いちじくとくるみの白和えもあるの。
炊き込みご飯、あなたが好きだったやつ。……ちょっと作りすぎちゃって》
行間から、あの人の声色が聞こえるようだった。
明るくて、でもほんの少し迷いのある、あの調子。
小坂は微かに笑って、胸の奥でなにかがふっと揺れた。
「ちょっと作りすぎた」は、きっと言い訳だ。
自分がもう来ないことに、あの人は気づいている。
でもそれをはっきり言葉にしないやさしさに、小坂は逆に救われる気がした。
彼女はきっと、今も穏やかな台所に立っている。
神崎校長が食卓に座って、新聞でも読んでいるのかもしれない。
息子が久々に「今日は家で食べるよ」と言って、スニーカーのままリビングに上がってくるかもしれない。
……もしかしたら、大学の友人を連れてくることだってある。
その光景を思い浮かべるだけで、小坂の心は、少しだけ温かくなった。
小坂はスマホを持ち替えて、ゆっくりと返信を打った。
《今日はやめておきます。
いつも気にかけてくださって、ありがとうございます。
あの美味しいごはんたち、本当に、忘れません。
これからは、ご家族とのおだやかな時間を大切にしてくださいね》
メッセージを送り、ポケットにしまう。
風が少し吹いて、頬をなでていった。
寂しさは、たしかにあった。
けれど、そのすぐ隣に、「ちゃんと終われた」という静かな安心もあった。
誰かの台所の灯りを、あたたかいと感じられる自分でいられること。
それだけで、今夜は十分だと思えた。
---
返事を送り終えて、スマホをしまったそのときだった。
胸の奥に、なにかが静かに沈んでいく感覚があった。
何層にも重ねてきた何かが、音もなく、剥がれ落ちていくような。
立ち止まったまま、小坂は上を見た。
春の空はまだ明るいのに、視界がにじんで見えた。
涙だった。
自然に、こぼれていた。
頬を伝う雫を、拭おうともしなかった。
通行人もいない。車の音もしない。
ただ夕方の風のなかで、小坂は、静かに泣いた。
(……あの人のごはん、ほんとうにあったかかったな)
白和えのほんのり甘い香り。
ミネストローネに入っていた、ほろっと崩れるにんじん。
お茶碗に盛られた桜えびと菜の花のご飯――
思い出すたびに、胸がつまって言葉にならなかった。
あの人は、母のようだった。
自分には、知らないままだった“やさしい手”の記憶。
保護者に押し倒されたこともある。
義母に「おまえなんかいらない」と言われたことも。
ずっと、女の人が怖かった。
でも――
あの人の食卓に座っているときだけは、自分が許されているような気がした。
そして、いま。
その人は、もう小坂ではなく、家族のために料理を作っている。
スマホが、かすかに震えた。
彼女からの返信ではなかった。
SNSの通知だった。
そこには、見覚えのあるアカウント――神崎の妻のもの――から、こんな文があった。
《すごいことが起きたの。〇〇(息子の名前)が、“友達、今日連れてきてもいい?”って。
急いでお皿ふたつ追加したけど、たくさん作っててほんとよかった》
その文字を見た瞬間、小坂の胸が、つんと痛んで、すぐに熱を帯びた。
(……よかった)
心の底から、そう思った。
作りすぎた料理は、ちゃんと必要とされた。
あの人の食卓は、ほんとうの“家族の食卓”になったのだ。
それが、こんなに嬉しいのに、
涙は止まらなかった。
小坂はマフラーを引き上げて、顔を隠すようにして歩き出した。
春の夕方、にじんだ光のなかを、ひとりで。
でも、歩けた。
それだけで、十分だった。
---
駅前の木陰で立ち止まり、スマホをもう一度開く。
ふと、あの人のSNSをのぞいてみた。
彼女のプロフィールには、時折手作りの料理や季節の花、風景がさりげなく載っている。
色合いもレイアウトも、すっきりしていて優しかった。
小坂がそのアカウントを知ったのは、数ヶ月前――
「よかったら見てみて。趣味みたいなものだから」と、照れくさそうに彼女が教えてくれたのだった。
今日の投稿には、春色の食卓の写真と共に、こんな短い文が添えられていた。
《今日は初めて、息子が“友達を家に連れてきたい”って。
大急ぎでお皿を追加して、でも……とても、うれしかった》
料理の写真は、白い皿にのった蒸し鶏と、菜の花の炊き込みご飯。
奥に、もち麦のスープ。
写っていないはずの“誰か”の温度まで、画面越しに感じられる。
小坂は指先で画面を閉じようとした、そのときだった。
メッセージの通知が届いた。
――彼女からだった。
《ありがとう。心から。あなたのおかげで、ここまで来られました》
文はそれだけだった。絵文字もスタンプもない言葉。
小坂はしばらく、画面を見つめていた。
どんな返事をしたらいいかわからなかった。
「そんなことないです」と返すのは、きっとちがう。
でも、言葉にならなくても、伝わった気がした。
胸の奥で、長く重たく沈んでいたものが、ようやく浮かび上がっていく。
つらかった過去も、逃げられなかった記憶も――今この瞬間、小さく、確かに上書きされた。
小坂は深く息を吐いて、ポケットにスマホをしまった。
そして、そっと呟いた。
「……こちらこそ、ありがとう」
それだけを、風が連れていった。
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