盲目的な献身

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死而不亡

4. 白苑会 - 2

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短い電子音が鳴り、施錠が解除される。

ちん慈恩じおんは視線だけで、久世くぜはじめに同様の行為を促した。

同じように指をかざすと、装置は問題なく反応した。

重たい扉が開き、白一色の空間が現れる。
天井まで届く可動式のスチール書架が等間隔に並び、床のレールに沿って整然と配置されていた。
棚には黒い背表紙の製本資料が隙間なく収められている。

窓のない室内を、LEDの光が均一に照らしていた。
壁面のプレートには『持ち出し禁止』の文字。

ひいらぎ伊織いおり。貴方が気にしている資料とは、なんだ?」

背後の壁にもたれ、腕を組んだまま、ちん慈恩じおんが問う。

久世くぜはじめは、即答せず、言葉を選んだ。

「昔、教祖様が作成された沿革の書が、ここに置かれていたんです。
その後、教祖様は記録官に依頼して、毎年更新されていました」

一拍置く。

「あれから色々ありましたから……少し、気になって。
表紙に木蓮の絵が描かれていて、教祖様ご自身が描かれたものだと聞いています」

ちん慈恩じおんは、一瞬だけ目を伏せ、低く答えた。

「それなら、私も見たことがある。
教祖様は多才なお方だった。絵も……芸術的だった」

久世くぜはじめは、内心で言葉を失う。

――記録官の東雲しののめみおは、
「丸めたティッシュみたいだ」と腹を抱えて笑っていた。

自分でも、絵心がないことは理解していた。
信者にモチーフを尋ねられるたび、曖昧な笑みで誤魔化してきた記憶がある。

それを、この男は「芸術的」と評する。

しばしちん慈恩じおんの美的感覚を疑いかけたが、
――立場上、教祖を否定できないだけだろう。
そう考え、思考を収めた。

「だが……残念だな」

ちん慈恩じおんは続ける。

「その沿革の書は、去年の火災で焼失した。
代わりに――こちらだ」

ちん慈恩じおん久世くぜはじめの後ろに立ち、棚へ手を伸ばしかけたところで、ふと動きを止め、半歩下がる。

「……失礼だが、香水をつけているか?」

困惑したように、久世くぜはじめを見る。

「いえ、なにも。
昨日はネットカフェでシャワーを浴びましたが……何か、匂いますか?」

無意識に腕や脇を確かめる。

ちん慈恩じおんは短く息を吐いた。

「臭いわけではない。
ただ、知人の匂いに似ていて、少し気になっただけだ。……資料はこれだ」

そう言って、棚の上段から資料を取り出すのを見て、久世くぜ はじめは胸の奥が静かに沈むのを感じた。
あの沿革の書の木蓮の表紙の内側には、ICチップが仕込まれていた。ICチップは鍵となっており、唯一生体認証以外で保管庫へと入れる術だった。

だから似たものを渡されても何も嬉しくはないのだ。
久世くぜはじめは黙って資料を受け取り、興味の薄れた感覚のまま、淡々とページを繰った。

資料にはやはり火災事件の真相は伏せられていた。
だが、その後の出来事は詳細に書かれている。

火災を機に、当時の教義責任者は脱会。
同時期に財務管理者が逝去。

――いずれも、開祖メンバー。
水面下の事情を知る人物だ。

この二人が不在では、保管庫へ辿り着くのも難しい。

さらに、ニュースをまとめた年表に目が留まる。
教祖の死から四年後を境に、首都近辺で怪奇事件が一定の頻度で発生していた。

「……この怪奇事件は」

久世くぜはじめが口を開くと、ちん慈恩じおんは即座に応じた。

「ああ。最近も神奈川であった。
男性が錯乱状態に陥り、自ら首の骨を折って亡くなっている」

事実のみを、淡々と並べる。

「骨折後もしばらく動けたらしく、そのまま川に飛び込んだ。
警察は熱せん妄として処理しているが、初動では怪奇事件として報道された」

一拍置き、ちん慈恩じおんは嫌味のように付け足す。

「記録官は面倒臭がりでな。
事実が判明しても、なかなか修正しない」

久世くぜはじめの背に、冷たいものが走る。

――心当たりがある。

「……そうだったんですね。
殺人事件でなくて、良かったです」

ちん慈恩じおんは片眉をわずかに上げただけで、それ以上踏み込まなかった。

やがて腕時計に視線を落とし、資料を読み耽る久世くぜはじめに声をかける。

ひいらぎ伊織いおり
この後、食事でもどうだ」



広い食堂は、多くの人で賑わっていた。
低い天井に反響するざわめきは、笑い声と咳払い、食器の触れ合う音が混じり合ったものだ。

身寄りのない子供たち。
背を丸め、箸を持つ手元だけを見つめる老人たち。
痩せこけた女性たちは、食事を前にしてもどこか遠慮がちで、視線を伏せている。

――白苑会が掲げる、保護対象者。

久世くぜはじめは、視線を巡らせながら胸の内で計算した。
――これほどの人数を、どうやって養っているのだろう。

食材費、人件費、施設の維持費。
単純な足し算をするだけでも、気が遠くなる。

かつては、自分が率先して裏で高額取引をまとめ、富裕層から献金を引き出していた。
表の顔と裏の交渉。その両輪が噛み合って、ようやく均衡が保たれていたはずだ。

だが、今も同じやり方が通用するとは思えない。
時代も、人も、教団の規模も変わった。

木目調のテーブルと椅子が整然と並ぶ中で、ちん慈恩じおんは迷いなく二人席を選んだ。
人の流れから半歩外れた、壁際の位置だ。

二人は、それぞれ日替わり定食を頼む。

配膳された盆には、白米、味噌汁、鯖の味噌煮、ほうれん草のおひたし、漬物。
彩りは控えめだが、どれも作り置きではないことが、湯気と香りで分かる。

派手さはない。
だが、必要な栄養と温もりだけを、過不足なく満たす食事だった。

湯気の立つ味噌汁を前に、久世くぜはじめは一瞬だけ目を細める。
鼻腔をくすぐる出汁の匂いに、懐かしさに似た感覚が胸を掠めた。

ちん慈恩じおんは、箸を持つ久世くぜはじめの手元をじっと見ていた。
持ち方、器の押さえ方、口に運ぶ速度。
一つひとつを確かめるような視線だ。

「……どうしましたか?」

気まずく感じた久世くぜはじめは視線を上げ、ちん慈恩じおんに問う。

「いや。礼儀正しいな、と思っただけだ」

ちん慈恩じおんはそう言って、口元だけをわずかに緩めた。
だが、その笑みには親しみよりも、評価と観察の色が濃い。

久世くぜはじめは、苦笑いを浮かべて視線を落とす。
箸を動かしながら、あくまで何気ない様子を装った。

ちん慈恩じおんは、暫くして食事の手を止め、静かに箸を置いた。
陶器が触れ合う微かな音が、食堂の喧騒の中で妙に際立つ。

「率直に聞くが」

声音は穏やかだ。
だが、前置きのない切り出し方に、久世くぜはじめの背筋がわずかに強張る。

「貴方は、本当にひいらぎ伊織いおりか?」

久世くぜはじめは、一瞬だけ動きを止め、咳き込んだ。
慌てたように口元を押さえ、息を整える。

「……すみません」

ちん慈恩じおんは急かさない。
ただ、箸を置いたまま、久世くぜはじめの反応を静かに見据えている。

「以前の貴方なら」

ちん慈恩じおんは、淡々と続けた。

「私が女性信者との会話を止めれば、舌打ちをして、そのまま帰っただろう。
それに今も敬語を使っている。……随分と印象が違うから驚いたんだ」

責める調子ではない。
だが、記憶を正確に切り取った指摘だった。

久世くぜはじめは、少し考えるように視線を伏せてから、静かに口を開いた。

「……正直に言うと」

間を置く。
ちん慈恩じおんは、その沈黙を遮らない。

「先日、泥酔して頭を打ってしまったんです。部分的に記憶が飛んでしまって……
父には心配すると思うので、内緒にしてください」

言葉を選びながら、慎重に続ける。

「病院では、一過性のものだと診断されました」

ちん慈恩じおんの表情は変わらない。
ただ、先ほどまで張り詰めていた視線が、わずかに緩んだように見える。

久世くぜはじめは、それを確かめるように、続けた。

「それに……客観的に考えると、今までの自分は、少し軽率だったなと。
これからは、親孝行もしたいし。節度を持った男になろうと思っています」

ちん慈恩じおんは、しばらく黙って久世くぜはじめを見つめていた。
視線の奥で、何かを量るような沈黙。

やがて、小さく息を吐き、微笑む。

「なるほど」

声音は柔らかい。
だが、踏み込む距離はきちんと保たれている。

「お大事にな。一過性のものであれば、私から教主様に伝えることはない」

そう言ってから、一拍。

「更生しようと考えるのはいいことだ」

ちん慈恩じおんは、箸を取り直しながら、何気ない調子で続けた。

「もしよければ、私の助手にならないか」

久世くぜはじめは、わずかに目を見開いた。

――これは、またとないチャンスだ。

この男は導師だ。
助手になれば、一般信者より遥かに動きやすくなるだろう。

だが、葛藤もあった。
正直に言えば、出会った時から久世くぜはじめはちん慈恩じおんが苦手だった。

感情を表に出さず、仮面を決して外そうとしない。
その在り方が、自分自身とよく似ている気がしたのだ。

「……私で、務まるでしょうか」

ちん慈恩じおんは、その反応を見て、ほんのわずかに目を細めた。

「ああ、ちょうど有能な助手を探していたんだ」

久世くぜはじめが二つ返事で承諾すると、
ちん慈恩じおんは後日また連絡すると言い、席を立った。

久世くぜはじめは一礼し、その背が食堂の喧騒に紛れていくのを見送った。
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