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死而不亡
5. 導師の助手 - 1
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沈慈恩から連絡が届いたのは、それから一週間後だった。
端末の通知を確認した久世はじめは、短く息を吐いた。
表示された文面は簡潔で、要点のみを並べただけのものだった。句読点は最小限、感情の余地は削ぎ落とされている。その調子だけで、送り主の性格が明瞭に伝わってきた。
登録名を見て、久世はじめの指が止まる。
柊伊織の端末では、沈慈恩は「犬野郎」という名で保存されていた。
どうやら柊伊織と沈慈恩は、本気で折り合いが悪かったらしい。
久世はじめは一瞬だけ眉を寄せ、何も言わずに登録名を正規のものへと戻した。
身支度を整え、白苑会へ向かう。
◆
主任導師兼監察官である沈慈恩には、専用の執務室が与えられている。
扉を開けた瞬間、久世はじめは足を止めた。
室内は、整理という概念を失っていた。床には衣類と書類が無秩序に散乱し、机とソファの上には分類されていない紙束が積み重なっている。人が通るための幅だけが、かろうじて確保されていた。
久世はじめの視線が一瞬、沈慈恩の頬に留まる。
内心、彼の頬を叩いてこの部屋の汚さを叱責したくなったが、まぶたを伏せ、すぐに穏やかな表情を作った。
落ちているものを避けながら進み、机の前で立ち止まる。
「沈慈恩導師、おはようございます」
深く頭を下げる。
だが沈慈恩は顔を上げず、書類に視線を落としたまま口を開いた。
「見ての通りだ。この一週間、掃除をする時間がなかった。まずはこの部屋を片付けてほしい。昼は売店でサンドイッチを買ってきてくれ」
淡々とした声音だった。
「承知しました」
床に散らばった書類を拾い上げ、内容ごとに仕分ける。
衣類は畳んで壁際へ寄せ、机上の紙束は日付と案件別に並べ直す。不要なものは脇へまとめられていった。
無言の作業が続く。
空間が整うにつれ、執務室はようやく人が思考するための部屋として機能を取り戻していった。
昼時になると、久世はじめは売店へ向かい、簡素なサンドイッチを二つ購入する。戻ると、机の端に静かに置いた。
「昼食です」
沈慈恩は短く礼を述べ、書類を脇へ寄せて食べ始めた。
「午後からはカウンセリングルームで信者の相談に乗る」
久世はじめは小さくうなずいた。
◆
カウンセリングルームは、簡素で静謐な空間だった。
導師と信者の間には仕切りが設けられ、互いの姿は見えない。布越しに、声だけが行き交う。
信者が安心して心情を吐露できるよう配慮された設計であり、導師たちはここで言葉を受け止める。
久世はじめは席についた沈慈恩の背後に立ち、手を後ろで組んで背筋を伸ばした。
最初に入室したのは、女性信者だった。
声は柔らかく、湿り気を帯びている。息を吸うたび、微かな震えが混じった。
「導師、私は夫のDVから逃れるために白苑会に入りました。ここでは皆さんに本当に良くしてもらっています。でも夜になると、夫が私を見つけ出して、あの家に戻そうとするのではないかと……」
沈慈恩はすぐには答えない。
短い沈黙ののち、静かな声が落とされた。
「あなたの恐怖は正当なものです。無理に打ち消す必要はない」
刃のように研ぎ澄まされた声音だが、拒絶の色はない。
「教義にある静修とは、ただ心を穏やかにすることではありません。『恐怖』という名の依存から、物理的にも精神的にも距離を置くことです。あなたが今ここにいる。その事実こそが、すでに一歩、呪縛から離れた証です」
女性の呼吸が、わずかに整う。
「夜の闇が怖い時は、一人で耐えないでください。我らは共生のためにあります。警備を強化し、安眠できる場所を保証しましょう。独りで戦う段階は、もう終わりました。今は、その怯えさえも受容し、ここにある安全に身を委ねなさい」
女性は感謝を述べ、退出した。
久世はじめは、その説法の組み立てを追いながら、無駄のない選択と言葉の重ね方に、静かに感心していた。
数人の相談を終え、次の信者が入室する。
男性の声だった。
低く、掠れ、長い疲弊が滲んでいる。
「……震災で、妻を亡くしました。毎日、死にたいと考えています。神を信じようとしても……どうして神は、妻を助けてくれなかったのかと」
沈慈恩の動きが止まる。
机に置かれた指先が、わずかに強張った。呼吸が一拍遅れる。
沈黙。
沈慈恩の沈黙が、不自然な長さを帯びていることに、久世はじめは気づいた。
背後に立つ自分に向けられてはいないはずなのに、空気が張りつめる。
「導師……?聞いていますか?」
久世はじめは居た堪れなくなり、自然に言葉を引き取った。
「あなたは今、精善共生のただ中にいます。清き心は孤独に耐えられず、善は触れ合うことで磨かれる。奥様と魂を交わしてきたからこそ、その善は、今もあなたの中に残っている」
仕切りの向こうで、男が息を呑む気配がした。
「神が助けなかったのではありません。白苑会において、神とは調和そのものです。死もまた、生の一部として受け止めるべき現実です。あなたが今苦しいのは、その死を拒み、裁こうとしているからです」
声量も速度も変えず、久世はじめは続ける。
「どうか、彼女の不在をそのまま慈悲の中に置いてください。そして、その愛を自らを壊すために使わず、慈行へと変えてください。あなたの手が誰かに差し伸べられるたび、奥様の生は、そこに宿ります。我らは、共に在るために生まれたのです」
その言葉に、沈慈恩の睫毛がわずかに揺れた。
仕切りの向こうではなく、自分に向けられているかのように、一文一文が胸に落ちてくる。
「……導師様、ありがとうございます」
男の声は、入室時よりも落ち着いていた。
男が去ったあと、沈慈恩は久世はじめを睨んだ。
「……すみません。答えに迷われているように見えたので」
久世はじめはそう言って視線を逸らす。
しばらくして、沈慈恩が口を開いた。
「……いや。素晴らしい説法だった」
その言葉のあと、沈慈恩は何かを思い出したように、わずかに顔を歪めた。
それから、カウンセリングルームでの時間が終わるまで、二人が言葉を交わすことはなかった。
端末の通知を確認した久世はじめは、短く息を吐いた。
表示された文面は簡潔で、要点のみを並べただけのものだった。句読点は最小限、感情の余地は削ぎ落とされている。その調子だけで、送り主の性格が明瞭に伝わってきた。
登録名を見て、久世はじめの指が止まる。
柊伊織の端末では、沈慈恩は「犬野郎」という名で保存されていた。
どうやら柊伊織と沈慈恩は、本気で折り合いが悪かったらしい。
久世はじめは一瞬だけ眉を寄せ、何も言わずに登録名を正規のものへと戻した。
身支度を整え、白苑会へ向かう。
◆
主任導師兼監察官である沈慈恩には、専用の執務室が与えられている。
扉を開けた瞬間、久世はじめは足を止めた。
室内は、整理という概念を失っていた。床には衣類と書類が無秩序に散乱し、机とソファの上には分類されていない紙束が積み重なっている。人が通るための幅だけが、かろうじて確保されていた。
久世はじめの視線が一瞬、沈慈恩の頬に留まる。
内心、彼の頬を叩いてこの部屋の汚さを叱責したくなったが、まぶたを伏せ、すぐに穏やかな表情を作った。
落ちているものを避けながら進み、机の前で立ち止まる。
「沈慈恩導師、おはようございます」
深く頭を下げる。
だが沈慈恩は顔を上げず、書類に視線を落としたまま口を開いた。
「見ての通りだ。この一週間、掃除をする時間がなかった。まずはこの部屋を片付けてほしい。昼は売店でサンドイッチを買ってきてくれ」
淡々とした声音だった。
「承知しました」
床に散らばった書類を拾い上げ、内容ごとに仕分ける。
衣類は畳んで壁際へ寄せ、机上の紙束は日付と案件別に並べ直す。不要なものは脇へまとめられていった。
無言の作業が続く。
空間が整うにつれ、執務室はようやく人が思考するための部屋として機能を取り戻していった。
昼時になると、久世はじめは売店へ向かい、簡素なサンドイッチを二つ購入する。戻ると、机の端に静かに置いた。
「昼食です」
沈慈恩は短く礼を述べ、書類を脇へ寄せて食べ始めた。
「午後からはカウンセリングルームで信者の相談に乗る」
久世はじめは小さくうなずいた。
◆
カウンセリングルームは、簡素で静謐な空間だった。
導師と信者の間には仕切りが設けられ、互いの姿は見えない。布越しに、声だけが行き交う。
信者が安心して心情を吐露できるよう配慮された設計であり、導師たちはここで言葉を受け止める。
久世はじめは席についた沈慈恩の背後に立ち、手を後ろで組んで背筋を伸ばした。
最初に入室したのは、女性信者だった。
声は柔らかく、湿り気を帯びている。息を吸うたび、微かな震えが混じった。
「導師、私は夫のDVから逃れるために白苑会に入りました。ここでは皆さんに本当に良くしてもらっています。でも夜になると、夫が私を見つけ出して、あの家に戻そうとするのではないかと……」
沈慈恩はすぐには答えない。
短い沈黙ののち、静かな声が落とされた。
「あなたの恐怖は正当なものです。無理に打ち消す必要はない」
刃のように研ぎ澄まされた声音だが、拒絶の色はない。
「教義にある静修とは、ただ心を穏やかにすることではありません。『恐怖』という名の依存から、物理的にも精神的にも距離を置くことです。あなたが今ここにいる。その事実こそが、すでに一歩、呪縛から離れた証です」
女性の呼吸が、わずかに整う。
「夜の闇が怖い時は、一人で耐えないでください。我らは共生のためにあります。警備を強化し、安眠できる場所を保証しましょう。独りで戦う段階は、もう終わりました。今は、その怯えさえも受容し、ここにある安全に身を委ねなさい」
女性は感謝を述べ、退出した。
久世はじめは、その説法の組み立てを追いながら、無駄のない選択と言葉の重ね方に、静かに感心していた。
数人の相談を終え、次の信者が入室する。
男性の声だった。
低く、掠れ、長い疲弊が滲んでいる。
「……震災で、妻を亡くしました。毎日、死にたいと考えています。神を信じようとしても……どうして神は、妻を助けてくれなかったのかと」
沈慈恩の動きが止まる。
机に置かれた指先が、わずかに強張った。呼吸が一拍遅れる。
沈黙。
沈慈恩の沈黙が、不自然な長さを帯びていることに、久世はじめは気づいた。
背後に立つ自分に向けられてはいないはずなのに、空気が張りつめる。
「導師……?聞いていますか?」
久世はじめは居た堪れなくなり、自然に言葉を引き取った。
「あなたは今、精善共生のただ中にいます。清き心は孤独に耐えられず、善は触れ合うことで磨かれる。奥様と魂を交わしてきたからこそ、その善は、今もあなたの中に残っている」
仕切りの向こうで、男が息を呑む気配がした。
「神が助けなかったのではありません。白苑会において、神とは調和そのものです。死もまた、生の一部として受け止めるべき現実です。あなたが今苦しいのは、その死を拒み、裁こうとしているからです」
声量も速度も変えず、久世はじめは続ける。
「どうか、彼女の不在をそのまま慈悲の中に置いてください。そして、その愛を自らを壊すために使わず、慈行へと変えてください。あなたの手が誰かに差し伸べられるたび、奥様の生は、そこに宿ります。我らは、共に在るために生まれたのです」
その言葉に、沈慈恩の睫毛がわずかに揺れた。
仕切りの向こうではなく、自分に向けられているかのように、一文一文が胸に落ちてくる。
「……導師様、ありがとうございます」
男の声は、入室時よりも落ち着いていた。
男が去ったあと、沈慈恩は久世はじめを睨んだ。
「……すみません。答えに迷われているように見えたので」
久世はじめはそう言って視線を逸らす。
しばらくして、沈慈恩が口を開いた。
「……いや。素晴らしい説法だった」
その言葉のあと、沈慈恩は何かを思い出したように、わずかに顔を歪めた。
それから、カウンセリングルームでの時間が終わるまで、二人が言葉を交わすことはなかった。
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