6 / 28
死而不亡
6. 導師の助手 - 2
しおりを挟む
その日も 久世 はじめは、沈 慈恩 の執務室で黙々と清掃を続けていた。
乾いた布で棚を拭うたび、整然と並べられた書類の背、机の隅に揃えられた報告書の角が視界に入る。開かれたままの資料には、信者から寄せられた相談記録が簡潔な要約として表示されていた。余分な言葉はなく、だが要点は逃していない。書き手の判断が、そのまま文章の骨格になっている。
ここ数日、助手として傍に控える中で、沈 慈恩 という人物の輪郭が、徐々に立ち上がってきた。
教義への向き合い方は徹底しており、信仰を語るよりも、行動として示すことを選ぶ。祈祷、説法、事務処理――そのどれにも同じ密度で取り組み、手を抜かない。信者への応対も冷静で、距離を保ちながらも弱さから目を逸らさない。慰めは与えず、だが切り捨てもせず、必要な言葉だけを残す。その在り方は、一時的な熱ではなく、長年そうしてきた者の判断だと分かった。
他の導師や信者との会話の端々から、沈 慈恩 の来歴も垣間見える。
中国から帰化したこと、日本語は母語ではないこと。それでも語彙の選択は正確で、文の構造に揺らぎがない。言葉を操るというより、必要な位置に置いている。その痕跡は、努力というより、選択の積み重ねに近かった。
作業が一段落した頃、沈 慈恩 はPC画面から視線を離さぬまま告げた。
「明日、中央支部で定例会がある。講壇に立つ」
久世 はじめは即座に応じ、必要書類の準備に取りかかった。
◆
宗教法人白苑会 中央支部は、東京都中央部、再開発が進んだ湾岸寄りの地区に建てられていた。
十四年前、この一帯は倉庫と空き地が点在するだけの場所だったが、今では整然と区画された道路と、新しい建物が並ぶ。中央支部もまた、その流れの中で建てられた施設だった。
白を基調とした外壁は過度な装飾を排し、宗教施設としては簡素だが、清潔さと堅牢さを感じさせる。入り口に掲げられた白苑会の標章は控えめで、主張しすぎない。
定例会の会場は吹き抜け構造の集会堂だった。天井は高く、光は拡散され、どこにも濃い影を作らない。椅子は規則正しく並び、信者たちは静かに席に着いている。
沈 慈恩 は講壇に立ち、背筋を伸ばして会場を見渡した。
黒の法衣は身体に無駄なく沿い、立ち姿だけで場の空気が引き締まる。
説法は淡々と進んだ。
声量は抑えられているが、言葉は確実に届く。教義をなぞるだけではなく、日々の行いにどう落とし込むかを具体的に示し、曖昧さを残さない。聞く者は自然と背を正し、視線を逸らさなくなる。
久世 はじめは、信者席の最奥、壁際に立ってそれを聞いていた。信者でもあり、助手でもある位置。人の波から距離を取りつつ、全体を見渡せる場所だ。説法の終盤、何人かの信者が無意識に一歩前へ出ているのが見えた。
説法が終わると、信者たちは一斉に深く頭を下げた。
「導師様」と声をかけ、縋ろうとする者もいたが、久世 はじめは静かに手を伸ばし、順に制していく。必要以上の接触は許されていない。
沈 慈恩 は 久世 はじめに短く告げた。
「この後、支部内で会議がある。すぐ終わる。貴方はここで待っていてくれ」
そのまま会議室へ向かう背を見送り、久世 はじめはエントランスホールで待つことにした。
掲示板の告知を順に確認し、行き交う信者の様子を眺め、時計に目をやる。やることのない時間に、身体は自然と壁際へ寄った。
その時、女の信者が控えめに声をかけてきた。
「導師様の助手の方ですよね。
建物の裏で、同徒の方が具合悪そうに蹲っていて……休憩室まで運びたいんです。手を貸していただけませんか」
久世 はじめは一拍置き、うなずいた。女性信者の後に続き、建物の裏手へ回る。
そこにいたのは、年老いた女性信者だった。地面に膝をつき、背を丸めている。
久世 はじめが肩に手を置き、顔を覗き込んだ瞬間、皮膚の表面がざわりと反応した。
口元には泡が滲み、瞳は定まっていない。
距離を取ろうとした、その瞬間、女は跳ね起きるようにして飛びかかってきた。
久世 はじめは即座に腕を掴み、体勢を崩さぬよう踏みとどまる。膠着したまま、女は喉の奥で声にならない音を漏らし続けた。
同行していた女性信者が短い悲鳴を上げる。
「救急車と、警備員を呼んでください!」
その声に、女性信者は何度も首を縦に振り、建物の方へ駆け出していった。
年老いた女性信者は、途切れ途切れに呟く。
「……血を、……れ……」
久世 はじめは息を詰め、力を込めて押し返そうとする。
その瞬間、鋭い痛みが走った。女性の異様に伸びた爪が、ふくらはぎに深く食い込んでいた。
乾いた布で棚を拭うたび、整然と並べられた書類の背、机の隅に揃えられた報告書の角が視界に入る。開かれたままの資料には、信者から寄せられた相談記録が簡潔な要約として表示されていた。余分な言葉はなく、だが要点は逃していない。書き手の判断が、そのまま文章の骨格になっている。
ここ数日、助手として傍に控える中で、沈 慈恩 という人物の輪郭が、徐々に立ち上がってきた。
教義への向き合い方は徹底しており、信仰を語るよりも、行動として示すことを選ぶ。祈祷、説法、事務処理――そのどれにも同じ密度で取り組み、手を抜かない。信者への応対も冷静で、距離を保ちながらも弱さから目を逸らさない。慰めは与えず、だが切り捨てもせず、必要な言葉だけを残す。その在り方は、一時的な熱ではなく、長年そうしてきた者の判断だと分かった。
他の導師や信者との会話の端々から、沈 慈恩 の来歴も垣間見える。
中国から帰化したこと、日本語は母語ではないこと。それでも語彙の選択は正確で、文の構造に揺らぎがない。言葉を操るというより、必要な位置に置いている。その痕跡は、努力というより、選択の積み重ねに近かった。
作業が一段落した頃、沈 慈恩 はPC画面から視線を離さぬまま告げた。
「明日、中央支部で定例会がある。講壇に立つ」
久世 はじめは即座に応じ、必要書類の準備に取りかかった。
◆
宗教法人白苑会 中央支部は、東京都中央部、再開発が進んだ湾岸寄りの地区に建てられていた。
十四年前、この一帯は倉庫と空き地が点在するだけの場所だったが、今では整然と区画された道路と、新しい建物が並ぶ。中央支部もまた、その流れの中で建てられた施設だった。
白を基調とした外壁は過度な装飾を排し、宗教施設としては簡素だが、清潔さと堅牢さを感じさせる。入り口に掲げられた白苑会の標章は控えめで、主張しすぎない。
定例会の会場は吹き抜け構造の集会堂だった。天井は高く、光は拡散され、どこにも濃い影を作らない。椅子は規則正しく並び、信者たちは静かに席に着いている。
沈 慈恩 は講壇に立ち、背筋を伸ばして会場を見渡した。
黒の法衣は身体に無駄なく沿い、立ち姿だけで場の空気が引き締まる。
説法は淡々と進んだ。
声量は抑えられているが、言葉は確実に届く。教義をなぞるだけではなく、日々の行いにどう落とし込むかを具体的に示し、曖昧さを残さない。聞く者は自然と背を正し、視線を逸らさなくなる。
久世 はじめは、信者席の最奥、壁際に立ってそれを聞いていた。信者でもあり、助手でもある位置。人の波から距離を取りつつ、全体を見渡せる場所だ。説法の終盤、何人かの信者が無意識に一歩前へ出ているのが見えた。
説法が終わると、信者たちは一斉に深く頭を下げた。
「導師様」と声をかけ、縋ろうとする者もいたが、久世 はじめは静かに手を伸ばし、順に制していく。必要以上の接触は許されていない。
沈 慈恩 は 久世 はじめに短く告げた。
「この後、支部内で会議がある。すぐ終わる。貴方はここで待っていてくれ」
そのまま会議室へ向かう背を見送り、久世 はじめはエントランスホールで待つことにした。
掲示板の告知を順に確認し、行き交う信者の様子を眺め、時計に目をやる。やることのない時間に、身体は自然と壁際へ寄った。
その時、女の信者が控えめに声をかけてきた。
「導師様の助手の方ですよね。
建物の裏で、同徒の方が具合悪そうに蹲っていて……休憩室まで運びたいんです。手を貸していただけませんか」
久世 はじめは一拍置き、うなずいた。女性信者の後に続き、建物の裏手へ回る。
そこにいたのは、年老いた女性信者だった。地面に膝をつき、背を丸めている。
久世 はじめが肩に手を置き、顔を覗き込んだ瞬間、皮膚の表面がざわりと反応した。
口元には泡が滲み、瞳は定まっていない。
距離を取ろうとした、その瞬間、女は跳ね起きるようにして飛びかかってきた。
久世 はじめは即座に腕を掴み、体勢を崩さぬよう踏みとどまる。膠着したまま、女は喉の奥で声にならない音を漏らし続けた。
同行していた女性信者が短い悲鳴を上げる。
「救急車と、警備員を呼んでください!」
その声に、女性信者は何度も首を縦に振り、建物の方へ駆け出していった。
年老いた女性信者は、途切れ途切れに呟く。
「……血を、……れ……」
久世 はじめは息を詰め、力を込めて押し返そうとする。
その瞬間、鋭い痛みが走った。女性の異様に伸びた爪が、ふくらはぎに深く食い込んでいた。
0
あなたにおすすめの小説
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
従僕に溺愛されて逃げられない
大の字だい
BL
〈従僕攻め×強気受け〉のラブコメ主従BL!
俺様気質で傲慢、まるで王様のような大学生・煌。
その傍らには、当然のようにリンがいる。
荷物を持ち、帰り道を誘導し、誰より自然に世話を焼く姿は、周囲から「犬みたい」と呼ばれるほど。
高校卒業間近に受けた突然の告白を、煌は「犬として立派になれば考える」とはぐらかした。
けれど大学に進学しても、リンは変わらず隣にいる。
当たり前の存在だったはずなのに、最近どうも心臓がおかしい。
居なくなると落ち着かない自分が、どうしても許せない。
さらに現れた上級生の熱烈なアプローチに、リンの嫉妬は抑えきれず――。
主従なのか、恋人なのか。
境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。
従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。
番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か
雪兎
BL
第二性が存在する世界。
Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。
しかし入学初日、彼の前に現れたのは――
幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。
成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。
だが湊だけが知っている。
彼が異常なほど執着深いことを。
「大丈夫、全部管理してあげる」
「君が困らないようにしてるだけだよ」
座席、時間割、交友関係、体調管理。
いつの間にか整えられていく環境。
逃げ場のない距離。
番を拒みたいΩと、手放す気のないα。
これは保護か、それとも束縛か。
閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる