盲目的な献身

耽読者

文字の大きさ
7 / 28
死而不亡

7. 異変

しおりを挟む
鋭い痛みが限界を越え、久世くぜ はじめの視界が白く弾けた。
判断より先に身体が動き、老いた信者の顔面へ蹴りを叩き込む。女の身体はもつれるように後退した。

しばらく、時間が空白になる。

女はふらつきながら立ち上がり、異様なほど伸びた爪を自身の腹部へ突き立てた。布と皮膚が裂ける音が遅れて届く。
泡を吐いていた口に赤が混じり、喉の奥で湿った呼気が鳴った。

女は自ら引きずり出した臓物を両手に掴み、それを落とさぬよう抱えたまま、一歩ずつ距離を詰めてくる。
久世くぜ はじめの足は床に縫い止められたように動かなかった。呼吸が浅くなり、視線だけが女の手元を追う。

「伊織!」

声が割り込む。
振り返ると、ちん 慈恩じおん が青ざめた顔で駆け寄ってきていた。息が整わないまま、久世くぜ はじめを抱き上げ、老信者との距離を一気に引き離す。

女は臓物を抱えたまま、しばらく直立していたが、やがて力が抜けるように崩れ落ちた。

久世くぜ はじめは唇の色を失い、喉を鳴らして唾を飲み込む。身体の震えは止まらない。
ちん 慈恩じおん は何も言わず、腕に力を込めた。

遠くから、サイレンの音が近づいてきた。



救急隊による応急処置が済んだ後、久世くぜ はじめは中央支部内の応接室へ移された。
ほどなくして到着した警察官が事情聴取に入る。

久世くぜ はじめの向かいに座った男は四十代半ば。無造作に垂れた前髪と、帽子からはみ出した短髪は湿り気を帯び、手入れの跡がない。剃り残した無精髭が荒れた輪郭に影を落としていた。

名刺には、捜査第一課そうさいっか御堂みどうまことと書かれている。

「私は 御堂みどう まこと だ。
当時の状況を、分かる範囲で教えてくれ」

質問は簡潔だった。
建物裏へ向かった経緯、老信者の様子、異変に気づいた瞬間。久世くぜ はじめは事実のみを順に答える。声はかすれ、途中で何度か呼吸を整えた。

傍らで ちん 慈恩じおん が黙って見守っている。その視線は、久世くぜ はじめの表情や手の震えを逃さなかった。

「この事件も、熱せん妄や統合失調症にするんですか」

ちん 慈恩じおん が淡々と口を挟む。
御堂みどう まこと は一瞬だけ視線を上げた。

「……君は、前の事件にも近くにいたな。
司法解剖の結果次第だが、状況を見るに、そうなるだろう」

久世くぜ はじめは思わず ちん 慈恩じおん を見た。
資料室で触れられていた「神奈川の事件」。彼は、その現場にいた。

「今回も、前回も、被害者の首元に穿刺痕がありました。
それはご存じですか」

御堂みどう まこと の目が鋭くなる。

「把握している。
これ以上は警察にも守秘義務がある」

短い沈黙が落ちた。
やがて 御堂みどう まこと は息をつき、席を立つ。

「柊さんも、相当な衝撃を受けただろう。
今日は家に帰るといい。処置はしているが、必ず病院にも行くように」

そう言い残し、部屋を出ていった。

ちん 慈恩じおん は 久世くぜ はじめの足元に視線を落とし、静かに言った。

「……家まで送ろう」



 ちん 慈恩じおんの車に乗せられ、ひいらぎ伊織いおりの自宅へと向かう途中、久世くぜはじめは急激に体調を崩した。
視界が揺れ、呼吸が浅くなる。

アパートの前に着き、 ちん 慈恩じおんが後部座席のドアを開けた時、久世くぜ はじめはすでに高熱にうなされ、意識が朦朧としていた。

ちん 慈恩じおん は 久世くぜ はじめを背負い、二階まで階段を上った。
背にかかる息は荒く、体温は異常に高い。

 ちん 慈恩じおんひいらぎ 伊織いおりの家の扉を前にして、このアパートは暗証番号式ロックだと気づく。

「部屋の……暗証番号を」

声をかけるが、久世くぜ はじめの口は形を作るだけで、音にならなかった。瞳も定まらない。

ちん 慈恩じおん はしばらく扉を見つめ、低く息を吐く。
そして踵を返し、階段を降りた。



白苑会はくえんかい 本部の 一時保護室いちじほごしつ は、緊急性の高い者を受け入れるための個室だった。
ちん 慈恩じおん は 久世くぜ はじめをベッドに寝かせ、額に冷却シートを貼る。ベッド横のサイドテーブルには道中購入したスポーツ飲料と解熱剤を並べた。

ひいらぎ 伊織いおり 、解熱剤は飲めますか」

久世くぜ はじめは荒い呼吸の合間に、かすかに頷いた。目尻から、生理的な涙が一粒落ちる。
ちん 慈恩じおん は身体を起こし、薬と飲料を口に含ませる。咳き込みはあったが、やがて呼吸は落ち着いた。

ちん 慈恩じおん は椅子に腰を下ろし、しばらく様子を見ていた。

やがて、久世くぜ はじめが睫毛を震わせて薄く目を開ける。焦点は定まらず、夢と現の境にいるのが見てとれる。

ひいらぎ 伊織いおり が頭を打ち、記憶を失ったと聞かされた時、ちん 慈恩じおん はそれを虚言だと判断していた。軽薄で横柄な態度ばかりが目につく子供ガキで、わざわざ庇う理由もない。助手として傍に置いたのも、日頃の反省を促すための方便に過ぎなかった。
だが、数日を共に過ごすうち、時折、視線の置き方や沈黙の取り方が、十四年前に亡くなった教祖様と重なる瞬間があった。声や顔立ちではない。場の空気を静める、あの間合いである。

その一致を、偶然だと切り捨てる判断は何度も下した。
それでも、今こうして熱に浮かされ、意識の境を彷徨う ひいらぎ 伊織いおり の姿を見下ろしていると、記憶の底に沈めたはずの光景が、形を変えて浮かび上がってくる。

ちん 慈恩じおん は、意味もなく久世くぜ はじめの栗色の癖毛に指を滑らせる。

「……慈恩ツーエン……側に、いるのか……?」

その言葉に、ちん 慈恩じおん の動きが止まった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

キサラギムツキ
BL
長い間アプローチし続け恋人同士になれたのはよかったが…………… 攻め視点から最後受け視点。 残酷な描写があります。気になる方はお気をつけください。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

従僕に溺愛されて逃げられない

大の字だい
BL
〈従僕攻め×強気受け〉のラブコメ主従BL! 俺様気質で傲慢、まるで王様のような大学生・煌。 その傍らには、当然のようにリンがいる。 荷物を持ち、帰り道を誘導し、誰より自然に世話を焼く姿は、周囲から「犬みたい」と呼ばれるほど。 高校卒業間近に受けた突然の告白を、煌は「犬として立派になれば考える」とはぐらかした。 けれど大学に進学しても、リンは変わらず隣にいる。 当たり前の存在だったはずなのに、最近どうも心臓がおかしい。 居なくなると落ち着かない自分が、どうしても許せない。 さらに現れた上級生の熱烈なアプローチに、リンの嫉妬は抑えきれず――。 主従なのか、恋人なのか。 境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。 従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か

雪兎
BL
第二性が存在する世界。 Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。 しかし入学初日、彼の前に現れたのは―― 幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。 成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。 だが湊だけが知っている。 彼が異常なほど執着深いことを。 「大丈夫、全部管理してあげる」 「君が困らないようにしてるだけだよ」 座席、時間割、交友関係、体調管理。 いつの間にか整えられていく環境。 逃げ場のない距離。 番を拒みたいΩと、手放す気のないα。 これは保護か、それとも束縛か。 閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

処理中です...