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死而不亡
7. 異変
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鋭い痛みが限界を越え、久世 はじめの視界が白く弾けた。
判断より先に身体が動き、老いた信者の顔面へ蹴りを叩き込む。女の身体はもつれるように後退した。
しばらく、時間が空白になる。
女はふらつきながら立ち上がり、異様なほど伸びた爪を自身の腹部へ突き立てた。布と皮膚が裂ける音が遅れて届く。
泡を吐いていた口に赤が混じり、喉の奥で湿った呼気が鳴った。
女は自ら引きずり出した臓物を両手に掴み、それを落とさぬよう抱えたまま、一歩ずつ距離を詰めてくる。
久世 はじめの足は床に縫い止められたように動かなかった。呼吸が浅くなり、視線だけが女の手元を追う。
「伊織!」
声が割り込む。
振り返ると、沈 慈恩 が青ざめた顔で駆け寄ってきていた。息が整わないまま、久世 はじめを抱き上げ、老信者との距離を一気に引き離す。
女は臓物を抱えたまま、しばらく直立していたが、やがて力が抜けるように崩れ落ちた。
久世 はじめは唇の色を失い、喉を鳴らして唾を飲み込む。身体の震えは止まらない。
沈 慈恩 は何も言わず、腕に力を込めた。
遠くから、サイレンの音が近づいてきた。
◆
救急隊による応急処置が済んだ後、久世 はじめは中央支部内の応接室へ移された。
ほどなくして到着した警察官が事情聴取に入る。
久世 はじめの向かいに座った男は四十代半ば。無造作に垂れた前髪と、帽子からはみ出した短髪は湿り気を帯び、手入れの跡がない。剃り残した無精髭が荒れた輪郭に影を落としていた。
名刺には、捜査第一課・御堂誠と書かれている。
「私は 御堂 誠 だ。
当時の状況を、分かる範囲で教えてくれ」
質問は簡潔だった。
建物裏へ向かった経緯、老信者の様子、異変に気づいた瞬間。久世 はじめは事実のみを順に答える。声はかすれ、途中で何度か呼吸を整えた。
傍らで 沈 慈恩 が黙って見守っている。その視線は、久世 はじめの表情や手の震えを逃さなかった。
「この事件も、熱せん妄や統合失調症にするんですか」
沈 慈恩 が淡々と口を挟む。
御堂 誠 は一瞬だけ視線を上げた。
「……君は、前の事件にも近くにいたな。
司法解剖の結果次第だが、状況を見るに、そうなるだろう」
久世 はじめは思わず 沈 慈恩 を見た。
資料室で触れられていた「神奈川の事件」。彼は、その現場にいた。
「今回も、前回も、被害者の首元に穿刺痕がありました。
それはご存じですか」
御堂 誠 の目が鋭くなる。
「把握している。
これ以上は警察にも守秘義務がある」
短い沈黙が落ちた。
やがて 御堂 誠 は息をつき、席を立つ。
「柊さんも、相当な衝撃を受けただろう。
今日は家に帰るといい。処置はしているが、必ず病院にも行くように」
そう言い残し、部屋を出ていった。
沈 慈恩 は 久世 はじめの足元に視線を落とし、静かに言った。
「……家まで送ろう」
◆
沈 慈恩の車に乗せられ、柊伊織の自宅へと向かう途中、久世はじめは急激に体調を崩した。
視界が揺れ、呼吸が浅くなる。
アパートの前に着き、 沈 慈恩が後部座席のドアを開けた時、久世 はじめはすでに高熱にうなされ、意識が朦朧としていた。
沈 慈恩 は 久世 はじめを背負い、二階まで階段を上った。
背にかかる息は荒く、体温は異常に高い。
沈 慈恩は柊 伊織の家の扉を前にして、このアパートは暗証番号式ロックだと気づく。
「部屋の……暗証番号を」
声をかけるが、久世 はじめの口は形を作るだけで、音にならなかった。瞳も定まらない。
沈 慈恩 はしばらく扉を見つめ、低く息を吐く。
そして踵を返し、階段を降りた。
◆
白苑会 本部の 一時保護室 は、緊急性の高い者を受け入れるための個室だった。
沈 慈恩 は 久世 はじめをベッドに寝かせ、額に冷却シートを貼る。ベッド横のサイドテーブルには道中購入したスポーツ飲料と解熱剤を並べた。
「柊 伊織 、解熱剤は飲めますか」
久世 はじめは荒い呼吸の合間に、かすかに頷いた。目尻から、生理的な涙が一粒落ちる。
沈 慈恩 は身体を起こし、薬と飲料を口に含ませる。咳き込みはあったが、やがて呼吸は落ち着いた。
沈 慈恩 は椅子に腰を下ろし、しばらく様子を見ていた。
やがて、久世 はじめが睫毛を震わせて薄く目を開ける。焦点は定まらず、夢と現の境にいるのが見てとれる。
柊 伊織 が頭を打ち、記憶を失ったと聞かされた時、沈 慈恩 はそれを虚言だと判断していた。軽薄で横柄な態度ばかりが目につく子供で、わざわざ庇う理由もない。助手として傍に置いたのも、日頃の反省を促すための方便に過ぎなかった。
だが、数日を共に過ごすうち、時折、視線の置き方や沈黙の取り方が、十四年前に亡くなった教祖様と重なる瞬間があった。声や顔立ちではない。場の空気を静める、あの間合いである。
その一致を、偶然だと切り捨てる判断は何度も下した。
それでも、今こうして熱に浮かされ、意識の境を彷徨う 柊 伊織 の姿を見下ろしていると、記憶の底に沈めたはずの光景が、形を変えて浮かび上がってくる。
沈 慈恩 は、意味もなく久世 はじめの栗色の癖毛に指を滑らせる。
「……慈恩……側に、いるのか……?」
その言葉に、沈 慈恩 の動きが止まった。
判断より先に身体が動き、老いた信者の顔面へ蹴りを叩き込む。女の身体はもつれるように後退した。
しばらく、時間が空白になる。
女はふらつきながら立ち上がり、異様なほど伸びた爪を自身の腹部へ突き立てた。布と皮膚が裂ける音が遅れて届く。
泡を吐いていた口に赤が混じり、喉の奥で湿った呼気が鳴った。
女は自ら引きずり出した臓物を両手に掴み、それを落とさぬよう抱えたまま、一歩ずつ距離を詰めてくる。
久世 はじめの足は床に縫い止められたように動かなかった。呼吸が浅くなり、視線だけが女の手元を追う。
「伊織!」
声が割り込む。
振り返ると、沈 慈恩 が青ざめた顔で駆け寄ってきていた。息が整わないまま、久世 はじめを抱き上げ、老信者との距離を一気に引き離す。
女は臓物を抱えたまま、しばらく直立していたが、やがて力が抜けるように崩れ落ちた。
久世 はじめは唇の色を失い、喉を鳴らして唾を飲み込む。身体の震えは止まらない。
沈 慈恩 は何も言わず、腕に力を込めた。
遠くから、サイレンの音が近づいてきた。
◆
救急隊による応急処置が済んだ後、久世 はじめは中央支部内の応接室へ移された。
ほどなくして到着した警察官が事情聴取に入る。
久世 はじめの向かいに座った男は四十代半ば。無造作に垂れた前髪と、帽子からはみ出した短髪は湿り気を帯び、手入れの跡がない。剃り残した無精髭が荒れた輪郭に影を落としていた。
名刺には、捜査第一課・御堂誠と書かれている。
「私は 御堂 誠 だ。
当時の状況を、分かる範囲で教えてくれ」
質問は簡潔だった。
建物裏へ向かった経緯、老信者の様子、異変に気づいた瞬間。久世 はじめは事実のみを順に答える。声はかすれ、途中で何度か呼吸を整えた。
傍らで 沈 慈恩 が黙って見守っている。その視線は、久世 はじめの表情や手の震えを逃さなかった。
「この事件も、熱せん妄や統合失調症にするんですか」
沈 慈恩 が淡々と口を挟む。
御堂 誠 は一瞬だけ視線を上げた。
「……君は、前の事件にも近くにいたな。
司法解剖の結果次第だが、状況を見るに、そうなるだろう」
久世 はじめは思わず 沈 慈恩 を見た。
資料室で触れられていた「神奈川の事件」。彼は、その現場にいた。
「今回も、前回も、被害者の首元に穿刺痕がありました。
それはご存じですか」
御堂 誠 の目が鋭くなる。
「把握している。
これ以上は警察にも守秘義務がある」
短い沈黙が落ちた。
やがて 御堂 誠 は息をつき、席を立つ。
「柊さんも、相当な衝撃を受けただろう。
今日は家に帰るといい。処置はしているが、必ず病院にも行くように」
そう言い残し、部屋を出ていった。
沈 慈恩 は 久世 はじめの足元に視線を落とし、静かに言った。
「……家まで送ろう」
◆
沈 慈恩の車に乗せられ、柊伊織の自宅へと向かう途中、久世はじめは急激に体調を崩した。
視界が揺れ、呼吸が浅くなる。
アパートの前に着き、 沈 慈恩が後部座席のドアを開けた時、久世 はじめはすでに高熱にうなされ、意識が朦朧としていた。
沈 慈恩 は 久世 はじめを背負い、二階まで階段を上った。
背にかかる息は荒く、体温は異常に高い。
沈 慈恩は柊 伊織の家の扉を前にして、このアパートは暗証番号式ロックだと気づく。
「部屋の……暗証番号を」
声をかけるが、久世 はじめの口は形を作るだけで、音にならなかった。瞳も定まらない。
沈 慈恩 はしばらく扉を見つめ、低く息を吐く。
そして踵を返し、階段を降りた。
◆
白苑会 本部の 一時保護室 は、緊急性の高い者を受け入れるための個室だった。
沈 慈恩 は 久世 はじめをベッドに寝かせ、額に冷却シートを貼る。ベッド横のサイドテーブルには道中購入したスポーツ飲料と解熱剤を並べた。
「柊 伊織 、解熱剤は飲めますか」
久世 はじめは荒い呼吸の合間に、かすかに頷いた。目尻から、生理的な涙が一粒落ちる。
沈 慈恩 は身体を起こし、薬と飲料を口に含ませる。咳き込みはあったが、やがて呼吸は落ち着いた。
沈 慈恩 は椅子に腰を下ろし、しばらく様子を見ていた。
やがて、久世 はじめが睫毛を震わせて薄く目を開ける。焦点は定まらず、夢と現の境にいるのが見てとれる。
柊 伊織 が頭を打ち、記憶を失ったと聞かされた時、沈 慈恩 はそれを虚言だと判断していた。軽薄で横柄な態度ばかりが目につく子供で、わざわざ庇う理由もない。助手として傍に置いたのも、日頃の反省を促すための方便に過ぎなかった。
だが、数日を共に過ごすうち、時折、視線の置き方や沈黙の取り方が、十四年前に亡くなった教祖様と重なる瞬間があった。声や顔立ちではない。場の空気を静める、あの間合いである。
その一致を、偶然だと切り捨てる判断は何度も下した。
それでも、今こうして熱に浮かされ、意識の境を彷徨う 柊 伊織 の姿を見下ろしていると、記憶の底に沈めたはずの光景が、形を変えて浮かび上がってくる。
沈 慈恩 は、意味もなく久世 はじめの栗色の癖毛に指を滑らせる。
「……慈恩……側に、いるのか……?」
その言葉に、沈 慈恩 の動きが止まった。
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