盲目的な献身

耽読者

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宿業と執念

11. 精神病院へ - 1

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東京駅、九番線ホーム。
午後十時を過ぎた構内には、家路を急ぐ人波のざわめきが澱のように溜まり、空気は重く滞っていた。その喧騒を裂くように、クリームと赤褐色の巨躯――寝台特急「サンライズ出雲」が、音を殺して滑り込んでくる。

ちん慈恩じおんの歩みには、いつも通り迷いがない。
その背を、久世くぜはじめは、半歩遅れた位置から追った。視線は自然と低くなり、導師の肩甲骨の動きだけを見ていた。

案内された個室は、最小限の機能だけが収められた狭い空間だった。
幅七十五センチの寝台が、左右の壁に沿って据えられ、腰を下ろせば互いの膝が触れる距離にある。

ちん慈恩じおんは簡潔に、窓側の左の寝台で寝るように促す。
久世くぜはじめは指示に従い、腰を下ろした。

「……随分と、風情のある移動手段を選んだな」

ちん慈恩じおんが、薄い寝具に腰を下ろしながら呟いた。
久世くぜはじめは答えなかった。窓の外を流れていく夜のビル群を、まるで瞑目するように見つめる。
この列車を手配したのは東雲しののめみおだった。彼女はこうした移動を好む。
そして、自分の好みを他人に押し付ける性格でもある。

列車が動き出し、微かな揺れが身体に伝わる。
二人はそれぞれ寝台に横たわり、背を向けて壁を見た。

「どうして、貴方は記録官と同盟を組んだのですか」

久世くぜはじめは、壁に向かって問いを投げた。

東雲しののめみおが真相を追うのは理解できる。同じ児童養護施設で育った者同士だ。久世くぜはじめが同じ立場なら、同様の選択をしただろう。
だが、ちん慈恩じおんは違う。二人の間に、直接的な接点はなかったはずだった。

「名古屋湾沖大震災の時、教祖様は被災者に無償で衣食住を与えた。私も、その一人だ」

ちん慈恩じおんの声は低く、一定だった。

「教祖様は、泥濘を歩いていた私にとって、唯一の光だった」

久世くぜはじめは、その言葉を静かに受け止めた。
確かに、あの震災の折、久世くぜはじめは被災地を巡っていた。支援をきっかけに入信した者は多く、外国人も少なくなかった記憶がある。
ちん慈恩じおんは教義に厚い男だ。信仰の対象の真相を知り、その無念を晴らしたいと考えるのは、自然な流れだろう。

胸の奥が、沈んでいくのを感じた
この男は、真実を知ったとき、長年支えてきたものが崩れる。その重さに耐える覚悟があるのか。

久世くぜはじめは寝返りを打ち、壁際に寄せられたちん慈恩じおんの背を見つめる。

ふと、記憶の底から、ひとりの少年が浮かんだ。
同じ震災で、路地裏で見つけた子供だ。少年の左側の瞼は腫れと血で固く閉ざされていた。
瓦礫の隙間にうずくまり、泥にまみれた手でボロボロの毛布を握りしめていたその姿は凍える雨に打たれて震える仔犬のようだった。

両親を震災で失い、居場所をなくした少年を、見過ごすことはできなかった。
久世くぜはじめはその少年を連れ帰り、側に置いた。

……あの少年は今どこにいるのだろうか。

「十四年前の事件に、私も違和感を抱いていた。信者であるなら、真実を知りたいと思うのは当然だ」

ちん慈恩じおんはそれきり口を閉ざした。

久世くぜはじめは、この揺れの中で眠りに落ちることは難しいと判断した。
静かに身を起こし、細い通路を進む。先にある共用ラウンジには、誰の姿もなかった。椅子に腰を下ろし、窓の外を流れる闇を眺める。

しばらくして、スーツ姿の男が現れた。
彼もまた、眠れなかったのだろう。

久世くぜはじめは、思わず視線を留めた。

――高上たかがみ慧嗣としつぐ

前世での友人だった。
鶯茶色の髪は七三に整えられ、額に一房だけ遊ばせた毛先が落ちている。年齢を重ねたはずの顔立ちは驚くほど変わっておらず、記憶の中にあった輪郭が、そのまま現在へと連なっているようだった。

「こんばんは」

高上たかがみ慧嗣としつぐは穏やかな声音で挨拶をしてきた。
久世くぜはじめは会釈する。

「君も眠れないのですか?」

「……はい」

久世くぜはじめは表情を崩さぬよう意識し、小さく頷いた。
なんて偶然なのだろう。

彼とは大学時代、インカレのゼミで出会った。
久世くぜはじめは東都人文大学とうとじんぶんだいがく人間科学部心理学科に在籍し、「向精神薬が行動心理に与える影響」をテーマにしたゼミに参加していた。その際、聖和医科薬科大学せいわいかやっかだいがく薬学研究科の学生と交流する機会があり、意気投合したのが高上たかがみ慧嗣としつぐだった。

彼の家が敬虔なキリシタンであったため、白苑会開祖の話を持ちかけた際には断られたが、久世くぜはじめが水面下で取引していた恩寵供与 おんちょうきょうよについては、幾度となく助言を受けている。

高上たかがみ慧嗣としつぐは暫く取り留めのない話をしてきた。
どうやら彼は先ほどまでお酒を飲んでいて気分がいいようだった。

「……君って、もしかして、ひいらぎ恒一郎こういちろうの息子だったりしませんか?」

「父をご存知なのですか?」

「ええ。写真を見せてもらったことがあります。貴方は母親似ですね」

「……そうですか」

「ちなみに、どちらへ?」

「鳥取です。友人と観光に」

久世くぜはじめは会話の流れで嘘をついた。

「鳥取ですか。駅のお蕎麦屋さん、おすすめですよ。
私は瀬戸なので、早朝の岡山駅で切り離しですね」

高上たかがみ慧嗣としつぐはあくびをし、伸びをした。

「まさか、こんな偶然があるとは……伊織いおりくん、いい旅行になるといいですね。お父さんによろしく」

そう言い残し、彼はラウンジを後にした。

しばらくして、久世くぜはじめにも眠気が訪れ、部屋へ戻ることにした。

室内では、ちん慈恩じおんがすでに眠りについていた。
背が、規則正しく上下している。

久世くぜはじめも寝台に横になり、天井を見つめる。やがて意識は沈み、闇に溶けた。




翌朝。
遮光カーテンの隙間から、鈍色の光が差し込んだ。窓の外には、日本海の白波が荒々しく広がっている。

砂丘を呑み込まんとするその波濤を見つめながら、久世くぜはじめは、胸の奥に重さが溜まるのを感じた。




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