12 / 28
宿業と執念
12. 精神病院へ - 2
しおりを挟む
米子駅から西へ伸びる幹線道路を抜け、山間部へ入ってからさらに一時間半。
沈慈恩が運転するレンタカーは、低い丘陵に囲まれた敷地の前で速度を落とした。
鳥取県立 因幡精神医療センター は、古い公立病院の系譜を引く施設だった。
外壁は灰白色に塗り直されているものの、増築を重ねた建物の輪郭は不揃いで、渡り廊下が蜘蛛の巣のように各棟を繋いでいる。敷地を囲う柵は高く、門扉には施錠管理の痕跡が残っていた。精神科単科病院としては規模が大きく、地域の受け皿として機能してきたことが外観からも読み取れる。
正面玄関を抜けると、消毒薬と古紙の匂いが混じった空気が鼻を突いた。
受付カウンターの奥では、事務員と看護師が事務的な声で応対を続けている。
沈慈恩が名乗り、目的を簡潔に伝える。
「真壁透子さんについて確認したい」
看護師は一瞬だけ端末に視線を落とし、すぐに首を振った。
「申し訳ありません。真壁透子さんは、すでに当院にはいらっしゃいません」
「転院先を教えていただけますか」
「それはお答えできません。個人情報保護の観点から、第三者への開示はできない決まりです」
沈慈恩は引き下がらなかった。
関係者であること、調査の必要性、過去の通院履歴――淡々と条件を重ねていく。しかし看護師の返答は変わらない。声色は丁寧だが、壁のように動かない。
その応酬の最中、久世はじめ は受付の背後に広がる廊下に視線を留めていた。
蛍光灯の下、少し離れた場所に、中年の女性が立っている。
痩せた体躯。くたびれたカーディガンの裾を、指先で何度も引き伸ばしては整え直している。
視線だけが、異様なほど静止していた。
こちらを――正確には、受付の前に立つ沈慈恩を見ている。
久世はじめは、沈慈恩に声をかけることなく、静かに廊下へ足を向けた。
近づくにつれ、女性の挙動がよりはっきりと見える。
床に落ちた糸くずを踏まないように足を揃え、三歩進んでは一歩戻る。
左手で右手首を押さえ、一定の角度で撫で続ける。その動作が少しでも乱れると、最初からやり直す。
強迫性障害の典型的な行動様式だった。
「……お話、しても大丈夫ですか」
久世はじめが声をかけると、女性は一拍遅れて顔を上げた。
瞳は落ち着いているが、焦点が定まりきっていない。
「大丈夫。ここは、開放病棟だから」
言い切るようにそう答え、女性は自分から談話室の方へ歩き出した。
ガラス張りの一角に、丸テーブルと簡素な椅子が並んでいる。見舞い客も利用する、完全に開かれた空間だった。
向かい合って座ると、女性はカーディガンの袖口を三度整え、ようやく名を名乗った。
「伊藤郁美です」
久世はじめは、正面から視線を外さずに問いかける。
「真壁透子さんを、知っているんですか」
伊藤郁美は、小さく頷いた。
「透子ちゃんは……二年前まで、ずっと私と同じ部屋だったの」
言葉の切れ目で、喉が鳴る。
その音を気にしたのか、伊藤郁美は唇を強く結び、指先を膝の上で揃え直した。
「閉鎖病棟。四人部屋。透子ちゃんとは何年も一緒の部屋だったの」
久世はじめは相槌を打たない。ただ、続きを促す沈黙を保つ。
「転院したのは、急だったわ。先生たちが慌ててた。看護師は透子ちゃんによかったね、病気が治るよって言ってた」
伊藤郁美は、指を折りながら記憶を探る。
「ええと……監督局……難しい名前の」
監督局……
恐らく特定医療資源監督局附属中央総合病院だ。
久世はじめは心当たりがあった。
伊藤郁美は淡々と続ける。
「それで透子ちゃんとお別れしたの」
伊藤郁美は、そこで言葉を止めた。
指先が無意識に、自分の手首を強く押さえ込んでいる。
「――透子ちゃんは血が好きだったの」
久世はじめは、それ以上を問わなかった。
必要な情報は、すでに得ている。
談話室を出ると、受付の前では沈慈恩がまだ看護師と向き合っていた。
久世はじめが短く視線を送ると、沈慈恩はそれを受け取り、会話を切り上げる。
二人はそのまま、因幡精神医療センターを後にした。
レンタカーが医療センターの敷地を離れると、沈慈恩はすぐに幹線道路へ合流した。
山陰の空は低く、雲の層が重なっている。
「収穫はあったか」
ハンドルを握ったまま、沈慈恩が問いかける。
久世はじめ は、窓外の流れる木立から視線を切り、要点だけを渡した。
「真壁透子は二年前に転院していました。
行き先は特定医療資源監督局附属中央総合病院。
閉鎖病棟から、“特別な治療”として移送されたようです」
沈慈恩の指が、ハンドルの縁で一瞬止まった。
「……東京か」
「そうなります」
陸路で戻るには時間がかかりすぎる。沈慈恩はナビを操作し、進路を鳥取空港へ切り替えた。
「最短で飛ぶ。戻ったら、すぐ中央監督病院を当たる」
久世はじめは頷いた。
市街地を抜け、山間の交通量が極端に減った道に入った頃だった。
後方から、急激に距離を詰めてくるヘッドライトがある。
沈慈恩がルームミラーを確認した瞬間――
衝撃。
鈍い音とともに、車体が大きく揺れた。
後部からの追突だった。
沈慈恩は即座にブレーキを踏み、路肩へ車を寄せる。
久世はじめはシートに手をつき、衝撃を吸収した。引火臭はないが、エンジン音が不安定に跳ねている。
後ろの車も、同じように停まった。
「……事故じゃない」
沈慈恩の声は低かった。
久世はじめも同じ結論に達している。
二人は同時にドアを開けた。
車内に留まり、燃料系統に異常が出れば、一瞬で終わる。
舗装が甘く、車では入り込めない脇道へ走る。
雑木林の中へ続く、獣道に近い道だった。
背後で、ドアの閉まる音がひとつ。
追突してきた車の運転手も、降りてきている。
足音は速くない。
しかし、一定の間隔で、正確に追ってくる。
沈慈恩が進路を変え、斜面を下る。
足場は悪いが、追跡には向かない。そう判断した。
しばらく走り、気配が途切れた。
撒いたかに見えた、その瞬間――
乾いた破裂音が、空気を裂いた。
猟銃。
音の方向が、即座に理解できる距離だった。
次の瞬間、衝撃が久世はじめの身体を打った。
肩。
左肩が後ろへ引かれ、体勢が崩れる。
熱と圧迫が遅れて伝わり、布地が裂ける感触があった。
沈慈恩が即座に振り返り、久世はじめの身体を支える。
視線が、撃たれた箇所へ落ちた。
血が、流れている。
背後では、草を踏み分ける足音が、再び近づいていた。
沈慈恩が運転するレンタカーは、低い丘陵に囲まれた敷地の前で速度を落とした。
鳥取県立 因幡精神医療センター は、古い公立病院の系譜を引く施設だった。
外壁は灰白色に塗り直されているものの、増築を重ねた建物の輪郭は不揃いで、渡り廊下が蜘蛛の巣のように各棟を繋いでいる。敷地を囲う柵は高く、門扉には施錠管理の痕跡が残っていた。精神科単科病院としては規模が大きく、地域の受け皿として機能してきたことが外観からも読み取れる。
正面玄関を抜けると、消毒薬と古紙の匂いが混じった空気が鼻を突いた。
受付カウンターの奥では、事務員と看護師が事務的な声で応対を続けている。
沈慈恩が名乗り、目的を簡潔に伝える。
「真壁透子さんについて確認したい」
看護師は一瞬だけ端末に視線を落とし、すぐに首を振った。
「申し訳ありません。真壁透子さんは、すでに当院にはいらっしゃいません」
「転院先を教えていただけますか」
「それはお答えできません。個人情報保護の観点から、第三者への開示はできない決まりです」
沈慈恩は引き下がらなかった。
関係者であること、調査の必要性、過去の通院履歴――淡々と条件を重ねていく。しかし看護師の返答は変わらない。声色は丁寧だが、壁のように動かない。
その応酬の最中、久世はじめ は受付の背後に広がる廊下に視線を留めていた。
蛍光灯の下、少し離れた場所に、中年の女性が立っている。
痩せた体躯。くたびれたカーディガンの裾を、指先で何度も引き伸ばしては整え直している。
視線だけが、異様なほど静止していた。
こちらを――正確には、受付の前に立つ沈慈恩を見ている。
久世はじめは、沈慈恩に声をかけることなく、静かに廊下へ足を向けた。
近づくにつれ、女性の挙動がよりはっきりと見える。
床に落ちた糸くずを踏まないように足を揃え、三歩進んでは一歩戻る。
左手で右手首を押さえ、一定の角度で撫で続ける。その動作が少しでも乱れると、最初からやり直す。
強迫性障害の典型的な行動様式だった。
「……お話、しても大丈夫ですか」
久世はじめが声をかけると、女性は一拍遅れて顔を上げた。
瞳は落ち着いているが、焦点が定まりきっていない。
「大丈夫。ここは、開放病棟だから」
言い切るようにそう答え、女性は自分から談話室の方へ歩き出した。
ガラス張りの一角に、丸テーブルと簡素な椅子が並んでいる。見舞い客も利用する、完全に開かれた空間だった。
向かい合って座ると、女性はカーディガンの袖口を三度整え、ようやく名を名乗った。
「伊藤郁美です」
久世はじめは、正面から視線を外さずに問いかける。
「真壁透子さんを、知っているんですか」
伊藤郁美は、小さく頷いた。
「透子ちゃんは……二年前まで、ずっと私と同じ部屋だったの」
言葉の切れ目で、喉が鳴る。
その音を気にしたのか、伊藤郁美は唇を強く結び、指先を膝の上で揃え直した。
「閉鎖病棟。四人部屋。透子ちゃんとは何年も一緒の部屋だったの」
久世はじめは相槌を打たない。ただ、続きを促す沈黙を保つ。
「転院したのは、急だったわ。先生たちが慌ててた。看護師は透子ちゃんによかったね、病気が治るよって言ってた」
伊藤郁美は、指を折りながら記憶を探る。
「ええと……監督局……難しい名前の」
監督局……
恐らく特定医療資源監督局附属中央総合病院だ。
久世はじめは心当たりがあった。
伊藤郁美は淡々と続ける。
「それで透子ちゃんとお別れしたの」
伊藤郁美は、そこで言葉を止めた。
指先が無意識に、自分の手首を強く押さえ込んでいる。
「――透子ちゃんは血が好きだったの」
久世はじめは、それ以上を問わなかった。
必要な情報は、すでに得ている。
談話室を出ると、受付の前では沈慈恩がまだ看護師と向き合っていた。
久世はじめが短く視線を送ると、沈慈恩はそれを受け取り、会話を切り上げる。
二人はそのまま、因幡精神医療センターを後にした。
レンタカーが医療センターの敷地を離れると、沈慈恩はすぐに幹線道路へ合流した。
山陰の空は低く、雲の層が重なっている。
「収穫はあったか」
ハンドルを握ったまま、沈慈恩が問いかける。
久世はじめ は、窓外の流れる木立から視線を切り、要点だけを渡した。
「真壁透子は二年前に転院していました。
行き先は特定医療資源監督局附属中央総合病院。
閉鎖病棟から、“特別な治療”として移送されたようです」
沈慈恩の指が、ハンドルの縁で一瞬止まった。
「……東京か」
「そうなります」
陸路で戻るには時間がかかりすぎる。沈慈恩はナビを操作し、進路を鳥取空港へ切り替えた。
「最短で飛ぶ。戻ったら、すぐ中央監督病院を当たる」
久世はじめは頷いた。
市街地を抜け、山間の交通量が極端に減った道に入った頃だった。
後方から、急激に距離を詰めてくるヘッドライトがある。
沈慈恩がルームミラーを確認した瞬間――
衝撃。
鈍い音とともに、車体が大きく揺れた。
後部からの追突だった。
沈慈恩は即座にブレーキを踏み、路肩へ車を寄せる。
久世はじめはシートに手をつき、衝撃を吸収した。引火臭はないが、エンジン音が不安定に跳ねている。
後ろの車も、同じように停まった。
「……事故じゃない」
沈慈恩の声は低かった。
久世はじめも同じ結論に達している。
二人は同時にドアを開けた。
車内に留まり、燃料系統に異常が出れば、一瞬で終わる。
舗装が甘く、車では入り込めない脇道へ走る。
雑木林の中へ続く、獣道に近い道だった。
背後で、ドアの閉まる音がひとつ。
追突してきた車の運転手も、降りてきている。
足音は速くない。
しかし、一定の間隔で、正確に追ってくる。
沈慈恩が進路を変え、斜面を下る。
足場は悪いが、追跡には向かない。そう判断した。
しばらく走り、気配が途切れた。
撒いたかに見えた、その瞬間――
乾いた破裂音が、空気を裂いた。
猟銃。
音の方向が、即座に理解できる距離だった。
次の瞬間、衝撃が久世はじめの身体を打った。
肩。
左肩が後ろへ引かれ、体勢が崩れる。
熱と圧迫が遅れて伝わり、布地が裂ける感触があった。
沈慈恩が即座に振り返り、久世はじめの身体を支える。
視線が、撃たれた箇所へ落ちた。
血が、流れている。
背後では、草を踏み分ける足音が、再び近づいていた。
0
あなたにおすすめの小説
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
従僕に溺愛されて逃げられない
大の字だい
BL
〈従僕攻め×強気受け〉のラブコメ主従BL!
俺様気質で傲慢、まるで王様のような大学生・煌。
その傍らには、当然のようにリンがいる。
荷物を持ち、帰り道を誘導し、誰より自然に世話を焼く姿は、周囲から「犬みたい」と呼ばれるほど。
高校卒業間近に受けた突然の告白を、煌は「犬として立派になれば考える」とはぐらかした。
けれど大学に進学しても、リンは変わらず隣にいる。
当たり前の存在だったはずなのに、最近どうも心臓がおかしい。
居なくなると落ち着かない自分が、どうしても許せない。
さらに現れた上級生の熱烈なアプローチに、リンの嫉妬は抑えきれず――。
主従なのか、恋人なのか。
境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。
従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。
番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か
雪兎
BL
第二性が存在する世界。
Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。
しかし入学初日、彼の前に現れたのは――
幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。
成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。
だが湊だけが知っている。
彼が異常なほど執着深いことを。
「大丈夫、全部管理してあげる」
「君が困らないようにしてるだけだよ」
座席、時間割、交友関係、体調管理。
いつの間にか整えられていく環境。
逃げ場のない距離。
番を拒みたいΩと、手放す気のないα。
これは保護か、それとも束縛か。
閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる