盲目的な献身

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宿業と執念

12. 精神病院へ - 2

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米子駅から西へ伸びる幹線道路を抜け、山間部へ入ってからさらに一時間半。
ちん慈恩じおんが運転するレンタカーは、低い丘陵に囲まれた敷地の前で速度を落とした。

鳥取県立 因幡いなば精神医療センター は、古い公立病院の系譜を引く施設だった。
外壁は灰白色に塗り直されているものの、増築を重ねた建物の輪郭は不揃いで、渡り廊下が蜘蛛の巣のように各棟を繋いでいる。敷地を囲う柵は高く、門扉には施錠管理の痕跡が残っていた。精神科単科病院としては規模が大きく、地域の受け皿として機能してきたことが外観からも読み取れる。

正面玄関を抜けると、消毒薬と古紙の匂いが混じった空気が鼻を突いた。
受付カウンターの奥では、事務員と看護師が事務的な声で応対を続けている。

ちん慈恩じおんが名乗り、目的を簡潔に伝える。

真壁まかべ透子とうこさんについて確認したい」

看護師は一瞬だけ端末に視線を落とし、すぐに首を振った。

「申し訳ありません。真壁まかべ透子とうこさんは、すでに当院にはいらっしゃいません」

「転院先を教えていただけますか」

「それはお答えできません。個人情報保護の観点から、第三者への開示はできない決まりです」

ちん慈恩じおんは引き下がらなかった。
関係者であること、調査の必要性、過去の通院履歴――淡々と条件を重ねていく。しかし看護師の返答は変わらない。声色は丁寧だが、壁のように動かない。

その応酬の最中、久世くぜはじめ は受付の背後に広がる廊下に視線を留めていた。
蛍光灯の下、少し離れた場所に、中年の女性が立っている。

痩せた体躯。くたびれたカーディガンの裾を、指先で何度も引き伸ばしては整え直している。
視線だけが、異様なほど静止していた。

こちらを――正確には、受付の前に立つちん慈恩じおんを見ている。

久世くぜはじめは、ちん慈恩じおんに声をかけることなく、静かに廊下へ足を向けた。

近づくにつれ、女性の挙動がよりはっきりと見える。
床に落ちた糸くずを踏まないように足を揃え、三歩進んでは一歩戻る。
左手で右手首を押さえ、一定の角度で撫で続ける。その動作が少しでも乱れると、最初からやり直す。

強迫性障害の典型的な行動様式だった。

「……お話、しても大丈夫ですか」

久世くぜはじめが声をかけると、女性は一拍遅れて顔を上げた。
瞳は落ち着いているが、焦点が定まりきっていない。

「大丈夫。ここは、開放病棟だから」

言い切るようにそう答え、女性は自分から談話室の方へ歩き出した。
ガラス張りの一角に、丸テーブルと簡素な椅子が並んでいる。見舞い客も利用する、完全に開かれた空間だった。

向かい合って座ると、女性はカーディガンの袖口を三度整え、ようやく名を名乗った。

伊藤いとう郁美いくみです」

久世くぜはじめは、正面から視線を外さずに問いかける。

真壁まかべ透子とうこさんを、知っているんですか」

伊藤いとう郁美いくみは、小さく頷いた。

「透子ちゃんは……二年前まで、ずっと私と同じ部屋だったの」

言葉の切れ目で、喉が鳴る。
その音を気にしたのか、伊藤いとう郁美いくみは唇を強く結び、指先を膝の上で揃え直した。

「閉鎖病棟。四人部屋。透子ちゃんとは何年も一緒の部屋だったの」

久世くぜはじめは相槌を打たない。ただ、続きを促す沈黙を保つ。

「転院したのは、急だったわ。先生たちが慌ててた。看護師は透子ちゃんによかったね、病気が治るよって言ってた」

伊藤いとう郁美いくみは、指を折りながら記憶を探る。

「ええと……監督局……難しい名前の」

監督局……
恐らく特定医療資源監督局附属中央総合病院とくていいりょうしげんかんとくきょくふぞくちゅうおうそうごうびょういんだ。
久世くぜはじめは心当たりがあった。
伊藤いとう郁美いくみは淡々と続ける。

「それで透子ちゃんとお別れしたの」

伊藤いとう郁美いくみは、そこで言葉を止めた。
指先が無意識に、自分の手首を強く押さえ込んでいる。

「――透子ちゃんは血が好きだったの」

久世くぜはじめは、それ以上を問わなかった。
必要な情報は、すでに得ている。

談話室を出ると、受付の前ではちん慈恩じおんがまだ看護師と向き合っていた。
久世くぜはじめが短く視線を送ると、ちん慈恩じおんはそれを受け取り、会話を切り上げる。

二人はそのまま、因幡精神医療センターを後にした。

レンタカーが医療センターの敷地を離れると、ちん慈恩じおんはすぐに幹線道路へ合流した。
山陰の空は低く、雲の層が重なっている。

「収穫はあったか」

ハンドルを握ったまま、ちん慈恩じおんが問いかける。
久世くぜはじめ は、窓外の流れる木立から視線を切り、要点だけを渡した。

真壁まかべ透子とうこは二年前に転院していました。
行き先は特定医療資源監督局附属中央総合病院。
閉鎖病棟から、“特別な治療”として移送されたようです」

ちん慈恩じおんの指が、ハンドルの縁で一瞬止まった。

「……東京か」

「そうなります」

陸路で戻るには時間がかかりすぎる。ちん慈恩じおんはナビを操作し、進路を鳥取空港とっとりくうこうへ切り替えた。

「最短で飛ぶ。戻ったら、すぐ中央監督病院を当たる」

久世くぜはじめは頷いた。

市街地を抜け、山間の交通量が極端に減った道に入った頃だった。
後方から、急激に距離を詰めてくるヘッドライトがある。

ちん慈恩じおんがルームミラーを確認した瞬間――

衝撃。

鈍い音とともに、車体が大きく揺れた。
後部からの追突だった。

ちん慈恩じおんは即座にブレーキを踏み、路肩へ車を寄せる。
久世くぜはじめはシートに手をつき、衝撃を吸収した。引火臭はないが、エンジン音が不安定に跳ねている。

後ろの車も、同じように停まった。

「……事故じゃない」

ちん慈恩じおんの声は低かった。
久世くぜはじめも同じ結論に達している。

二人は同時にドアを開けた。
車内に留まり、燃料系統に異常が出れば、一瞬で終わる。

舗装が甘く、車では入り込めない脇道へ走る。
雑木林の中へ続く、獣道に近い道だった。

背後で、ドアの閉まる音がひとつ。
追突してきた車の運転手も、降りてきている。

足音は速くない。
しかし、一定の間隔で、正確に追ってくる。

ちん慈恩じおんが進路を変え、斜面を下る。
足場は悪いが、追跡には向かない。そう判断した。

しばらく走り、気配が途切れた。
撒いたかに見えた、その瞬間――

乾いた破裂音が、空気を裂いた。

猟銃。

音の方向が、即座に理解できる距離だった。
次の瞬間、衝撃が久世くぜはじめの身体を打った。

肩。

左肩が後ろへ引かれ、体勢が崩れる。
熱と圧迫が遅れて伝わり、布地が裂ける感触があった。

ちん慈恩じおんが即座に振り返り、久世くぜはじめの身体を支える。
視線が、撃たれた箇所へ落ちた。

血が、流れている。

背後では、草を踏み分ける足音が、再び近づいていた。
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