改訂版 愛のエキスと聖女さま

にしのみつてる

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第1章

愛のエキスが足りていない

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夕食を終えたあと、相方がぽつりとつぶやいた。

 妻のことを「相方」と呼ぶのは少々ぶっきらぼうな言い方かもしれない。けれど、俺と彼女――つまり妻は、これから自分たちの身に起こるかもしれない出来事について、何一つ知らされてはいなかった。

「愛の成分《エキス》が足りてないのよねぇ~」

「いきなり“愛の成分”って……何なんだ? 保湿成分のことか?」

「違うのよ! エキスよ、愛のエキス!! ウフフ♡♡♡」

 俺は最後の『ウフフ♡♡♡』だけが妙に耳に残った。彼女の年相応の笑みに、なぜか背筋がむず痒くなり、思わず顔が引きつった。

 俺たち夫婦は、高度経済成長期に生まれた、還暦を過ぎた初老夫婦だ。二人の子どもたちはすでに独立し、今はジジ・ババのふたり暮らし。相方の体調の変化をきっかけに、そういう営みは自然と遠ざかっていた。関係が崩れたわけではないが、元に戻すには少し時間が経ちすぎた。

 残念ながら、ここから「濃厚な夜の展開」が始まるわけではない。代わりに俺は、近所のドラッグストアの化粧品売り場へと連れて行かれることになった。レジで高級美容液の代金を支払ったのは言うまでもない。さらに店員の勧めに乗せられ、美容クリームとフェイシャルトリートメントマスクも追加購入し、俺の財布からはあっという間に諭吉2枚が去っていった。

 そういえば、いつからだったろうか。相方の体調が変わり始めた頃から、我が家では「その手の話」は自然と話題に上らなくなっていた。気がつけばもう二十年以上、静かな夜が続いている。

 俺はそっぽを向いてしまった自分の身体をなだめるように、一人静かに床に就いた。相方は別の部屋でいびきをかいて眠っている。今さら「別れよう」なんて切り出す気力も勇気もなく、ただ淡々と日々をやり過ごすだけの毎日だった。

 「愛」なんてものは、とっくの昔に手放したと思っていた。冷えきった夫婦関係に、誰かの温かい言葉も、優しい慰めも必要なかった。誰も語らないような静かな関係に、「恋バナ」なんて成立するわけがない。

 だが、何もかもをマイナス思考で捉えていたそのとき、ふと、こんな思いが脳裏をよぎった。

「生まれ変われるなら、“帝王”になるのも悪くないかもな……」

 なぜそんな言葉が浮かんだのか、自分でもよく分からなかった。ただ、どこかで「聖女さまにビシバシされたい」という妙な願望を抱いていたのは事実だ。しおれた気持ちをさすってみても、何の感情も湧かなかった。

 「“アレ”を忘れてしまうようでは、俺の人生もそろそろ終わりかもな……」  
 そう呟いて、目を閉じ意識を手放した。


**『オジサンは聖女さまなのよ』**

「なぜオジサンが聖女さまなのか?」  
読者諸兄がそう疑問に思うのは、ごく自然なことだろう。

その理由は――歳を重ねてもなお、心のどこかに住みついている純真無垢な少年ガキが、聖女という幻想だけを追い続けているからだ。  
それは、現実の女性とは違う。触れられそうで触れられない、優しさと哀しみをまとった理想像。  
初老のジジイが抱く“聖女さま”とは、例えば、少年時代に蒸気機関車で旅をする時に、隣の席にいてほしかった誰か。  
窓の外に広がる風景を静かに見つめながら、何も言わずに隣にいてくれる存在。  
その手には、いつも温かい紅茶と、少しだけ甘いチョコレートが握られている。

現実の生活では、そんな人は現れない。  
本音を打ち明ける相手もなく、心の奥にしまい込んだままの想いは、誰にも知られることなく、静かに夜の底へ沈んでいく。  
それでも、心の片隅ではずっと待っている。  
誰かが、あの頃の自分を見つけてくれることを。  
誰かが、「あなたはまだ、少年のままでいい」と言ってくれることを。

そうして、今日もまた、誰にも語られることのない“聖女さま”への祈りが、静かに胸の奥で灯り続けている。

続く──

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冒頭部を書き直しました。
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