24 / 68
凌と銀次
しおりを挟む
銀次に追い払われるようにして送り出され、凌は通りを挟んだファーストフードの店へ急いだ。
響と銀次はやけに話が弾んでいるようで、凌が肩越しに振り返ってみても二人は額を寄せ合ったまま、彼の方には見向きもしない。
銀次が余計なことを言っていなければいいと思いつつ、ろくにメニューを見もせずに注文し、品を受け取ると踵を返して彼らの元に向かう。
いつもよりも速足で通りを渡る凌だったが、その時目に入ってきた光景に、眉間に皺を寄せた。銀次が響の耳元に顔を寄せ、何か言っている。
近過ぎる。
凌は唇を引き結び、彼らの様子を見やった。
と、凌の視線を感じ取ったかのように、銀次が彼女から身体を離して彼に目を向ける。睨み付けてやると、彼がニヤリと笑うのが見て取れた。
その笑いに更にムッとして、凌は足を速める。
目の前にハンバーガーやらポテトやらの入った袋を突き出してやっても、銀次の笑みは口元に貼り付いたままだ。
「余計な事は言ってないだろうな?」
「余計な事って?」
袋を受け取りながら、銀次はそう返してきた。まるで彼をひっかけようとしているかのようなその空とぼけた口調に、凌はイラッとする。
ニヤニヤ笑いの銀次と、グッと目を細めた凌。
睨み合いに雪崩れ込みそうになった二人の間に、響が取り成すように割って入った。
「あ、わたしお腹が空きました。早く食べたいんですけど」
そう言って屈託なく笑った彼女を、凌はジッと見つめる。その様子はいつもと変わりなく、何か思うところがあるようには見えなかった。小さく息をつき、気持ちを入れ替えた凌は手にしていたもう一つの袋を彼女に差し出す。
「ありがとうございます」
両手でそれを受け取った響は、少し身体をずらして彼に座るように促した。凌は頷き、そこに腰を下ろす。
「リョウさんはこっちですよね」
袋を開けて中を覗いた響は、ためらいなく三個あるバーガーの内の二個を彼に差し出した。どちらもいつも彼が食べているもので、無意識のうちに選んでいたものだ。
残った一つを手に取って、包み紙を剥きながら響がフフッと小さく笑う。
「何だ?」
眉を潜めて彼女を見ると、やけに嬉しそうな笑顔が返ってきた。
「だって、これ、わたしの好きなのですから」
響はそう言ったが、彼女とは何度か同じ店に行っているのだ。別に確認したわけではないが、何を好んでいるのかは判っていた。
だが、何がそんなに嬉しいのか。
好みのものを食べられる、と言っても、所詮はバーガーだ。そんなに喜ばなくても、と怪訝な顔をする凌に、響の向こう側から声がかかる。
「いやぁ、お互いに好きなものは熟知してるわけ? 仲良いねぇ。おじさん、いない方がいいかなぁ?」
内心ではさっさと失せろと付け加えたかったが、そんなことを言えば響は凌に非難の目を向けるだろう。
したり顔で見ている銀次に、凌は肩を竦めて返した。
「別に、普段見てれば判ることだろ」
「いやいや、どうかなぁ。僕とも何回か一緒に同じもん食ってるじゃない。僕、別にこれ好きじゃないよ?」
食べかけのバーガーをちらつかせ、銀次はにや付きながらそう言った。彼に買ってきたのは、ただのハンバーガーだ。
「そりゃ悪かったな」
だったら自分で買いに行け、と言いたいところをこらえて、凌はむっつりと銀次にそう答える。より一層深まったニヤニヤ笑いが、何だか腹立たしい。
「いえいえ、どういたしまして。無意識ってのがまた妬けるなぁ」
好きじゃないというバーガーを頬張って、銀次は素知らぬふうに独りごちた。
と、男二人に挟まれ、その遣り取りを耳にしながらせっせとバーガーやらポテトやらを口に運んでいた響が、不意に時計を見て声を上げる。
「あ、わたしそろそろ行かないと。バイトの時間が……」
「おや、残念。もっとお話したかったけどな」
銀次のぼやきは凌の気持ちを代弁している。せっかく一緒にいたというのに、響とはろくに言葉を交わせなかった。
もっとも、たいていの場合、会話と言うよりも彼女の話を一方的に聞くだけだったが、声を聞いているだけでも良いのだ。楽しそうなその声を聞いているだけでも、凌の気分はふわりと浮き立つような気がしてくる。
それなのに、今の彼の耳に残っているのは、銀次の声ばかりだ。
「じゃあ、ごちそうさまでした」
慌ただしく響が立ち上がり、ペコリと銀次に頭を下げる。そうして凌に向き直ると、微かに首をかしげた。
「わたしのバイト、九時には終わりますけど……」
今日はコンビニではなく、ファミリーレストランのウェイトレスの筈だ。
「ああ、じゃあ、迎えに行く」
「はい」
彼女はニコリと笑って頷くと、身を翻して人混みの中に消えて行った。時々人にぶつかられてよろめいているのが見えて、咄嗟に後を追いかけたくなるのを凌は何とか思いとどまった。
「可愛い子だなぁ」
響の背を見送った銀次のその台詞には凌も同感だったが、何となく素直に頷けない。彼女が残していったポテトを漁りながら、彼の台詞を聞き流した。
しばらくは沈黙が続く。
平日の昼間に男二人が並んで座ってハンバーガーをパクついているという図は奇妙だろうが、食べ終わっている銀次は動こうとしない。
黙々と袋の中身を平らげていく凌に、人の波を眺めていた銀次が視線はそのままに問いを投げてきた。
「で、僕に何か言いたいことあるんじゃないの?」
唐突な言葉に凌は隣に目をやると、銀次はのんびりとした風情で正面を向いたままで続けた。
「今日会ったのは偶然でも、僕に何か話したいことがあるんだろ?」
それは、図星だった。確かに凌は考えていることがあって、銀次に連絡を取ろうかと思っていたのだ。
とは言え、まだ凌自身もまだ迷っている事柄で、話せと言われてもすんなりとは出てこない。
押し黙ったままの凌を急かすことなく、銀次はのんびりと人が行き過ぎるのを眺めている。凌はバーガーの最後の一欠けらを口の中に放り込み、袋をくしゃくしゃと丸めた。
何と言っていいのか、判らない。
取り敢えず、頭に浮かんだ台詞をそのまま口に出した。
「俺は……『普通』になりたいんだ」
普通に――響の隣にいて、「これでいいのだろうか」という疑問を抱かずに過ごせるようになりたい。
凌の知る限り、銀次が唯一の『まとも』な大人だった。彼のようになれれば、響の傍に、居てもいいような気がする。
「『普通』、ねぇ」
腿の上に頬杖をついて、銀次が呟く。
また、しばらくの沈黙。
ややして、彼は再び口を開いた。
「仕事でもしてみるか?」
「仕事?」
「そ。仕事に就いて、まっとうな労働の対価として金を稼いで、それで大事な人を養うってわけ。――彼女は、今のお前の暮らしを受け入れてはいないんだろう? 人を殴って金を手に入れるって暮らしを」
凌は押し黙った。
銀次の言うとおりだった。
響は、凌が人を殴ることも、人から殴られることも、良しとはしていない。凌の殆ど全てのことを受け入れてくれているが、その点に関してだけは、いつも食って掛かってくる。
時には、涙すら浮かべて。
だが、果たして自分にできることなどあるのだろうか。
凌はヒトの集団に混じって生活したことが無い。
常に独りで生きてきたのだ。
今更、他人の指示を仰ぎ、他人と協調して物事を成すということができる自信がなかった。
凌の迷いを感じ取ったかのように、銀次が苦笑する。
「まあ、その気になったら言ってくれ。伝手はいくつかあるからよ」
そう言うと彼は腕時計に目を走らせて、よっこらしょと立ち上がった。
「僕もぼちぼち行かないとね」
ヒラヒラと片手を振って、歩き出す。が、数歩行ってからふと立ち止まり、振り返った。彼らしくもなく、わずかな迷いを含んだ眼差しを凌に向ける。
「何だ?」
あまり見たことのない銀次の表情に眉を潜めた凌に、彼は少しの逡巡の後、口を開いた。
「あの子の両親って、どこに住んでいるんだ?」
「あの子――響のか?」
「ああ」
「あいつの親は、両方早くに死んだらしい。母親はあいつが五歳の時で、父親は九歳の時だと言っていた」
「九歳――あの子は今十八か十九かってとこだよな?」
凌の返事を聞いた銀次の顔が曇る。いつも飄々としている彼のらしくない表情に、凌は首をかしげつつ頷いた。
「ああ」
「そうか……」
「それが何か?」
「ああ、いや……そんなに早くに両親を亡くすなんて、可哀相だな」
響の不幸を悼んでいるのか――それだけではないような気がしたが、銀次の目は伏せられ、その中にあるものが隠されてしまう。
響の事で何か知っているのだろうかとも凌は思ったが、彼女のような平凡な少女が警察沙汰と関わっている筈もないだろう。
銀次が目を逸らしていたのはほんの数瞬で、凌が考えをまとめるよりも先にまた視線を彼にヒタリと据えてきた。その眼差しは、凌が戸惑うほどに真剣な色を帯びている。
「大事にしてやれよ?」
言われるまでもない。
凌はそう答えたかったが、彼を見つめる銀次の目付きの鋭さに、その言葉を呑み込んだ。
「ああ……そうしたいんだ」
凌の返事に、銀次の顔がフッと和らぐ。そうして温かみを増した眼差しで、彼は笑って言った。
「お前ならできるさ」
短く、だがきっぱりと銀次が断言する。
「僕もそろそろ行かないとな……さっきの事、考えてみろよ? その気になったら言ってくれ」
じゃ、と片手を上げると彼は今度こそ踵を返して去って行く。響とは違って、スイスイと縫うようにして人混みを抜け、あっという間にその姿は見えなくなった。
独りになっても、凌はそこに座ったまましばらく人の流れを眺めていた。
次から次へと行き過ぎていく人の波。
彼等は皆、大事な相手と共に過ごすことに、何のためらいも覚えていないのだろうか。
凌は響のことを大事に想っているし、放したくないと思う。
それは嘘偽りのない気持ちだ。
だが、彼女の傍にいるのが自分でいいのだろうかという迷いが時折頭の中をかすめることもまた、事実だった。
響の幸せを願うけれど、絶対の自信はもてない。かといって、彼女を他人に委ねることもできない。
ならば、彼が変わらなければならないのだ。
凌は自分の掌を見つめた。響のものより遥かに大きなそれを。
その手で彼女に触れるだけで、凌の胸は名状しがたい想いで満たされる。多分、それは、幸福というものなのだろう。
ただいるだけで響が彼に与えてくれるものを同じ程に――それ以上にして返してやりたい。
その為にできることがあるのなら、しよう。
その決意と同じ強さで、凌は拳を握り込んだ。
響と銀次はやけに話が弾んでいるようで、凌が肩越しに振り返ってみても二人は額を寄せ合ったまま、彼の方には見向きもしない。
銀次が余計なことを言っていなければいいと思いつつ、ろくにメニューを見もせずに注文し、品を受け取ると踵を返して彼らの元に向かう。
いつもよりも速足で通りを渡る凌だったが、その時目に入ってきた光景に、眉間に皺を寄せた。銀次が響の耳元に顔を寄せ、何か言っている。
近過ぎる。
凌は唇を引き結び、彼らの様子を見やった。
と、凌の視線を感じ取ったかのように、銀次が彼女から身体を離して彼に目を向ける。睨み付けてやると、彼がニヤリと笑うのが見て取れた。
その笑いに更にムッとして、凌は足を速める。
目の前にハンバーガーやらポテトやらの入った袋を突き出してやっても、銀次の笑みは口元に貼り付いたままだ。
「余計な事は言ってないだろうな?」
「余計な事って?」
袋を受け取りながら、銀次はそう返してきた。まるで彼をひっかけようとしているかのようなその空とぼけた口調に、凌はイラッとする。
ニヤニヤ笑いの銀次と、グッと目を細めた凌。
睨み合いに雪崩れ込みそうになった二人の間に、響が取り成すように割って入った。
「あ、わたしお腹が空きました。早く食べたいんですけど」
そう言って屈託なく笑った彼女を、凌はジッと見つめる。その様子はいつもと変わりなく、何か思うところがあるようには見えなかった。小さく息をつき、気持ちを入れ替えた凌は手にしていたもう一つの袋を彼女に差し出す。
「ありがとうございます」
両手でそれを受け取った響は、少し身体をずらして彼に座るように促した。凌は頷き、そこに腰を下ろす。
「リョウさんはこっちですよね」
袋を開けて中を覗いた響は、ためらいなく三個あるバーガーの内の二個を彼に差し出した。どちらもいつも彼が食べているもので、無意識のうちに選んでいたものだ。
残った一つを手に取って、包み紙を剥きながら響がフフッと小さく笑う。
「何だ?」
眉を潜めて彼女を見ると、やけに嬉しそうな笑顔が返ってきた。
「だって、これ、わたしの好きなのですから」
響はそう言ったが、彼女とは何度か同じ店に行っているのだ。別に確認したわけではないが、何を好んでいるのかは判っていた。
だが、何がそんなに嬉しいのか。
好みのものを食べられる、と言っても、所詮はバーガーだ。そんなに喜ばなくても、と怪訝な顔をする凌に、響の向こう側から声がかかる。
「いやぁ、お互いに好きなものは熟知してるわけ? 仲良いねぇ。おじさん、いない方がいいかなぁ?」
内心ではさっさと失せろと付け加えたかったが、そんなことを言えば響は凌に非難の目を向けるだろう。
したり顔で見ている銀次に、凌は肩を竦めて返した。
「別に、普段見てれば判ることだろ」
「いやいや、どうかなぁ。僕とも何回か一緒に同じもん食ってるじゃない。僕、別にこれ好きじゃないよ?」
食べかけのバーガーをちらつかせ、銀次はにや付きながらそう言った。彼に買ってきたのは、ただのハンバーガーだ。
「そりゃ悪かったな」
だったら自分で買いに行け、と言いたいところをこらえて、凌はむっつりと銀次にそう答える。より一層深まったニヤニヤ笑いが、何だか腹立たしい。
「いえいえ、どういたしまして。無意識ってのがまた妬けるなぁ」
好きじゃないというバーガーを頬張って、銀次は素知らぬふうに独りごちた。
と、男二人に挟まれ、その遣り取りを耳にしながらせっせとバーガーやらポテトやらを口に運んでいた響が、不意に時計を見て声を上げる。
「あ、わたしそろそろ行かないと。バイトの時間が……」
「おや、残念。もっとお話したかったけどな」
銀次のぼやきは凌の気持ちを代弁している。せっかく一緒にいたというのに、響とはろくに言葉を交わせなかった。
もっとも、たいていの場合、会話と言うよりも彼女の話を一方的に聞くだけだったが、声を聞いているだけでも良いのだ。楽しそうなその声を聞いているだけでも、凌の気分はふわりと浮き立つような気がしてくる。
それなのに、今の彼の耳に残っているのは、銀次の声ばかりだ。
「じゃあ、ごちそうさまでした」
慌ただしく響が立ち上がり、ペコリと銀次に頭を下げる。そうして凌に向き直ると、微かに首をかしげた。
「わたしのバイト、九時には終わりますけど……」
今日はコンビニではなく、ファミリーレストランのウェイトレスの筈だ。
「ああ、じゃあ、迎えに行く」
「はい」
彼女はニコリと笑って頷くと、身を翻して人混みの中に消えて行った。時々人にぶつかられてよろめいているのが見えて、咄嗟に後を追いかけたくなるのを凌は何とか思いとどまった。
「可愛い子だなぁ」
響の背を見送った銀次のその台詞には凌も同感だったが、何となく素直に頷けない。彼女が残していったポテトを漁りながら、彼の台詞を聞き流した。
しばらくは沈黙が続く。
平日の昼間に男二人が並んで座ってハンバーガーをパクついているという図は奇妙だろうが、食べ終わっている銀次は動こうとしない。
黙々と袋の中身を平らげていく凌に、人の波を眺めていた銀次が視線はそのままに問いを投げてきた。
「で、僕に何か言いたいことあるんじゃないの?」
唐突な言葉に凌は隣に目をやると、銀次はのんびりとした風情で正面を向いたままで続けた。
「今日会ったのは偶然でも、僕に何か話したいことがあるんだろ?」
それは、図星だった。確かに凌は考えていることがあって、銀次に連絡を取ろうかと思っていたのだ。
とは言え、まだ凌自身もまだ迷っている事柄で、話せと言われてもすんなりとは出てこない。
押し黙ったままの凌を急かすことなく、銀次はのんびりと人が行き過ぎるのを眺めている。凌はバーガーの最後の一欠けらを口の中に放り込み、袋をくしゃくしゃと丸めた。
何と言っていいのか、判らない。
取り敢えず、頭に浮かんだ台詞をそのまま口に出した。
「俺は……『普通』になりたいんだ」
普通に――響の隣にいて、「これでいいのだろうか」という疑問を抱かずに過ごせるようになりたい。
凌の知る限り、銀次が唯一の『まとも』な大人だった。彼のようになれれば、響の傍に、居てもいいような気がする。
「『普通』、ねぇ」
腿の上に頬杖をついて、銀次が呟く。
また、しばらくの沈黙。
ややして、彼は再び口を開いた。
「仕事でもしてみるか?」
「仕事?」
「そ。仕事に就いて、まっとうな労働の対価として金を稼いで、それで大事な人を養うってわけ。――彼女は、今のお前の暮らしを受け入れてはいないんだろう? 人を殴って金を手に入れるって暮らしを」
凌は押し黙った。
銀次の言うとおりだった。
響は、凌が人を殴ることも、人から殴られることも、良しとはしていない。凌の殆ど全てのことを受け入れてくれているが、その点に関してだけは、いつも食って掛かってくる。
時には、涙すら浮かべて。
だが、果たして自分にできることなどあるのだろうか。
凌はヒトの集団に混じって生活したことが無い。
常に独りで生きてきたのだ。
今更、他人の指示を仰ぎ、他人と協調して物事を成すということができる自信がなかった。
凌の迷いを感じ取ったかのように、銀次が苦笑する。
「まあ、その気になったら言ってくれ。伝手はいくつかあるからよ」
そう言うと彼は腕時計に目を走らせて、よっこらしょと立ち上がった。
「僕もぼちぼち行かないとね」
ヒラヒラと片手を振って、歩き出す。が、数歩行ってからふと立ち止まり、振り返った。彼らしくもなく、わずかな迷いを含んだ眼差しを凌に向ける。
「何だ?」
あまり見たことのない銀次の表情に眉を潜めた凌に、彼は少しの逡巡の後、口を開いた。
「あの子の両親って、どこに住んでいるんだ?」
「あの子――響のか?」
「ああ」
「あいつの親は、両方早くに死んだらしい。母親はあいつが五歳の時で、父親は九歳の時だと言っていた」
「九歳――あの子は今十八か十九かってとこだよな?」
凌の返事を聞いた銀次の顔が曇る。いつも飄々としている彼のらしくない表情に、凌は首をかしげつつ頷いた。
「ああ」
「そうか……」
「それが何か?」
「ああ、いや……そんなに早くに両親を亡くすなんて、可哀相だな」
響の不幸を悼んでいるのか――それだけではないような気がしたが、銀次の目は伏せられ、その中にあるものが隠されてしまう。
響の事で何か知っているのだろうかとも凌は思ったが、彼女のような平凡な少女が警察沙汰と関わっている筈もないだろう。
銀次が目を逸らしていたのはほんの数瞬で、凌が考えをまとめるよりも先にまた視線を彼にヒタリと据えてきた。その眼差しは、凌が戸惑うほどに真剣な色を帯びている。
「大事にしてやれよ?」
言われるまでもない。
凌はそう答えたかったが、彼を見つめる銀次の目付きの鋭さに、その言葉を呑み込んだ。
「ああ……そうしたいんだ」
凌の返事に、銀次の顔がフッと和らぐ。そうして温かみを増した眼差しで、彼は笑って言った。
「お前ならできるさ」
短く、だがきっぱりと銀次が断言する。
「僕もそろそろ行かないとな……さっきの事、考えてみろよ? その気になったら言ってくれ」
じゃ、と片手を上げると彼は今度こそ踵を返して去って行く。響とは違って、スイスイと縫うようにして人混みを抜け、あっという間にその姿は見えなくなった。
独りになっても、凌はそこに座ったまましばらく人の流れを眺めていた。
次から次へと行き過ぎていく人の波。
彼等は皆、大事な相手と共に過ごすことに、何のためらいも覚えていないのだろうか。
凌は響のことを大事に想っているし、放したくないと思う。
それは嘘偽りのない気持ちだ。
だが、彼女の傍にいるのが自分でいいのだろうかという迷いが時折頭の中をかすめることもまた、事実だった。
響の幸せを願うけれど、絶対の自信はもてない。かといって、彼女を他人に委ねることもできない。
ならば、彼が変わらなければならないのだ。
凌は自分の掌を見つめた。響のものより遥かに大きなそれを。
その手で彼女に触れるだけで、凌の胸は名状しがたい想いで満たされる。多分、それは、幸福というものなのだろう。
ただいるだけで響が彼に与えてくれるものを同じ程に――それ以上にして返してやりたい。
その為にできることがあるのなら、しよう。
その決意と同じ強さで、凌は拳を握り込んだ。
0
あなたにおすすめの小説
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。
その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。
そこで待っていたのは、最悪の出来事――
けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。
夫は愛人と共に好きに生きればいい。
今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。
でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。
妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。
過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中
あなたがいなくなった後 〜シングルマザーになった途端、義弟から愛され始めました〜
瀬崎由美
恋愛
石橋優香は夫大輝との子供を出産したばかりの二十七歳の専業主婦。三歳歳上の大輝とは大学時代のサークルの先輩後輩で、卒業後に再会したのがキッカケで付き合い始めて結婚した。
まだ生後一か月の息子を手探りで育てて、寝不足の日々。朝、いつもと同じように仕事へと送り出した夫は職場での事故で帰らぬ人となる。乳児を抱えシングルマザーとなってしまった優香のことを支えてくれたのは、夫の弟である宏樹だった。二歳年上で公認会計士である宏樹は優香に変わって葬儀やその他を取り仕切ってくれ、事あるごとに家の様子を見にきて、二人のことを気に掛けてくれていた。
息子の為にと自立を考えた優香は、働きに出ることを考える。それを知った宏樹は自分の経営する会計事務所に勤めることを勧めてくれる。陽太が保育園に入れることができる月齢になって義弟のオフィスで働き始めてしばらく、宏樹の不在時に彼の元カノだと名乗る女性が訪れて来、宏樹へと復縁を迫ってくる。宏樹から断られて逆切れした元カノによって、彼が優香のことをずっと想い続けていたことを暴露されてしまう。
あっさりと認めた宏樹は、「今は兄貴の代役でもいい」そういって、優香の傍にいたいと願った。
夫とは真逆のタイプの宏樹だったが、優しく支えてくれるところは同じで……
夫のことを想い続けるも、義弟のことも完全には拒絶することができない優香。
結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~
馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」
入社した会社の社長に
息子と結婚するように言われて
「ま、なぶくん……」
指示された家で出迎えてくれたのは
ずっとずっと好きだった初恋相手だった。
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
ちょっぴり照れ屋な新人保険師
鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno-
×
俺様なイケメン副社長
遊佐 学 -Manabu Yusa-
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
「これからよろくね、ちとせ」
ずっと人生を諦めてたちとせにとって
これは好きな人と幸せになれる
大大大チャンス到来!
「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」
この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。
「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」
自分の立場しか考えてなくて
いつだってそこに愛はないんだと
覚悟して臨んだ結婚生活
「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」
「あいつと仲良くするのはやめろ」
「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」
好きじゃないって言うくせに
いつだって、強引で、惑わせてくる。
「かわいい、ちとせ」
溺れる日はすぐそこかもしれない
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
俺様なイケメン副社長と
そんな彼がずっとすきなウブな女の子
愛が本物になる日は……
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる