獅子隊長と押しかけ仔猫

トウリン

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獅子隊長の懸念と苦悩

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 ケイティとティモシーがロンディウムを発ってから、十五日が過ぎた。予定では、今日が彼女たちが帰る日だ。
 駅馬車がコールスウェルに到着した日、ティモシーがその旨を手紙で知らせてくれた。その手紙の届いた日数から計算すると、往路は予定通りに行けた筈。復路もそうであれば、今日、二人は帰ってくる筈なのだ。
 筈、なのだが――

 ブラッドは、深々と眉間に溝を刻んだ。そして、胸の中で呟く。
(彼女は帰ってくるのか?)
 それは、ケイティがここを発ってから、ひと時たりとも彼の頭の中で褪せることなく渦巻き続けていた懸念だ。

 両親とのわだかまりを解きに行き、それを成せたなら、果たしてケイティはここに帰ってきてくれるのだろうか。

(もしかしたら、戻らないかもしれないな)
 そう思った瞬間、ブラッドの肩がズシリと重くなった。その考えは、筋力をつける訓練のための砂袋よりも重々しく、彼に圧し掛かってくる。

 もちろん、ケイティにとっては親元に帰れるならばそれに勝ることはない。
 あれほど大事にしている家族なのだ。
 できたら帰りたいに違いない。
 もしもケイティが実家に留まることを望んだのなら、諸手を上げてそれを喜んでやるべきだし、そうしてやりたいと、ブラッドも思う。

 にも拘らず、モヤモヤと重い気持ちになってしまうのは何なのか。

(多分これは、彼女の身を案じる気持ちを反映したものだ)
 きっと、そうに違いない。別に、ケイティの不在に彼が耐えられないとか、そういうものではなくて。
 あくまでも、ケイティの安全を危惧している故、だ。なにしろ、実際、彼女の身に危険が迫っているのだから。

 デリック・スパークの件は、目下最大の懸念事項だが、ケイティの出発が急だったことは、その点に関しては吉と出た。下手に居場所が固定しているよりも、移動中の方が奴らには捉えられにくいはずだ。
 問題はその後だ。ケイティが旅路にあることよりも、彼女が故郷に留まることを選択した時のことを考えると、ブラッドは妙に落ち着かない気分になった。

 その理由は、ここから遠く離れた場所にいられると、彼女の身の安全を確保できないからだろう。

 もしもケイティがここに戻らなければ、彼女を守ることは格段に難しくなる。
 焦燥とも不安ともつかない気持ちに襲われるのは、きっとそのせいだ。

(別に、彼女がここを離れるからじゃない)
 ――ブラッドはそれを胸の中で呟きに留めていたつもりだったが、怪訝そうに振り返ったルーカスの問いかけで、口から外に漏れていたことに気付かされる。

「今、何か?」
「何?」
「今、何かおっしゃったでしょう」
 ブラッドはムッと唇を引き結び、ルーカスを睨み付けた。
「何でもない。気にするな」
 だが、敏い副官はブラッドの心中などお見通しのようだ。
「ティモシー達が戻るの、予定では今日でしたっけ?」
 涼しい顔でそう言うと、わざとらしく柱の時計に目を遣った。
「ああ、運行表通りなら、もうロンディウムには着いていますね、駅馬車。この時間ならもうそろそろ姿を見せてもいい頃合いですが」
 ルーカスは隠そうとしているかもしれないが隠しきれていない――いや、多分、隠すつもりなどない――笑みを滲ませた眼差しをブラッドに向けてくる。
 ブラッドはギリリと奥歯を噛み締めルーカスをねめつけたが、どこ吹く風という風情だ。と、窓際に立っていた彼が何かに気付いたようにその眼を外に向けた。
「あ、噂をすればなんとやら、ですね。二人とも帰ってきましたよ――と、隊長?」
 呼び留めるルーカスの声は背中で受けて、気付いた時には、ブラッドはもう執務室の外へと踏み出していた。

 ブラッドは大股に廊下を進み、玄関広間へと向かう。

 彼が二階から一階へと階段を下りきるのと、玄関の扉が開いたのとは、ほぼ同時のことだった。
 立ち止まり、そちらを見たブラッドの目に、鮮やかな真紅の巻き毛が飛び込んでくる。新緑の瞳と視線が絡んだと思ったら、ケイティが満面の笑みになった。まさに、輝く笑顔というやつだ。

「ケイ――」
 思わず彼女の名前を呟きかけたブラッドに、ケイティは猛然と突進してきた。と、その勢いのまま彼の胸に飛び込んでくる。

 ケイティが全力でぶつかってきたところで、ブラッドにとっては綿毛を投げつけられたくらいにしか感じない。だが、柔らかな衝撃を感じた瞬間、彼はピシリと固まった。そして、微動だにできなくなったブラッドに、彼女がその腕を回す。
 ケイティの体格では、ブラッドのぶ厚い胸の両脇に指先が届くのがやっとだ。けれども彼女は、その腕を精一杯伸ばして、彼にしがみついてくる。

 なので。

(ちょっと待て、何だこれは)

 接触面積が半端ない。

 からかい半分でケイティが距離を詰めてくることはあっても、こんなに無防備に触れてくることは今までなかった。

 密着してくる彼女の身体の予想外の柔らかさに、ブラッドの思考が一時中断した。
 それを再開させたのは、ケイティの声だ。
「あたし、ちゃんと仲直りしてきました」
 ブラッドの胸、というかみぞおちの辺りに顔を押し付けたまま、彼女が言った。
 短いけれども万感の思いが込められていることが伝わってくるその言葉で、彼は我に返る。
 ブラッドの身体の脇を掴んでいるその手も、腹の辺りに響いてくるその声も、はっきり言ってこそばゆい。ブラッドは背筋を疼かせるそれをこらえながら、ケイティに抱きつかれたときに反射的に宙に上げてしまった両手の下ろしどころを探した。

 ただ下ろしてしまっては、彼女のことを拒んでいるように取られはしないか。
 だが、そうは言っても、その小さな背に回すわけにもいかない。
 瞬き数回ほどの間に迷った挙句、ブラッドはそれをケイティの華奢な肩の上にのせた。

 彼女に触れる時の感覚は、まだ乳離れしていないような仔猫を抱き上げるときのものに似ている。
 あまりにか細くてもろそうで、うっかり力を入れられない。
 ブラッドは卵を持つ時よりも繊細な力加減を試みる。卵ならば持ち慣れているが、ケイティはそうでないから、要領が掴めないのだ。

 と、今にも手がつりそうになっているブラッドにはまったく気付いたふうもなく、ケイティは首だけ反らせて屈託のない眼差しで彼を見上げてきた。
「ちゃんと皆と話してきて、ようやく、気付けたんです。あたし、独りよがりでした」
「独りよがり?」
「はい。両親だけじゃなくて、弟や妹たちのことも、傷付けてて……ううん、心配させて、かな。上の弟なんか、いつもの倍以上もしゃべってくれました。妹だって、怒ってるふりしてたけど、心配してくれてたんだなって」
「それは、当たり前だ」
 愛しい相手のことを心配しないはずがない。ブラッドだって、幼い妹のことは何から何まで案じていた。
 つらくはないか、悲しくはないか、ひもじくはないか――そんなことばかりを考え、とにかくあの子の幸せだけを、ほんの少しでもそれを得られるようにと、心を砕いていたものだった。

 ブラッドの返事をどう受け取ったのか、ケイティが深々と頷いた。
「やっぱり、話すって大事ですよね!」
 そう言って、満面に晴れやかな笑みをたたえる。
「これで、大手を振ってここで働けます」
 心底からの彼女の晴れやかな笑みに、ブラッドの胸が詰まる。

「……そうか」

 彼は、ボソリとそれだけ答えるのがやっとだった。

 ケイティは、これからも、ここにいてくれるのか。
 ――今の彼女の言葉からすると、そうなのだろう。
 だが、ブラッドの頭はまだその朗報を吸収しきれていない。

(互いの思い違いが解消されたなら、彼女はいつでも家に帰れるのか)
 家族とのことがあったから、ケイティはブラッドのもとを訪れ、そして留まっていた。その障壁が霧消したのであるならば、いつでも、彼女は本来望んでいる場所に帰ることができるのだ。
 それがケイティの長年の望みであり、彼女にとって正しいあり方ではないのかという思いが、ブラッドの口から問いかけとなってポロリとこぼれる。
「君は、帰らないのか?」

 刹那、ケイティがブラッドの胸に腕を突っ張るようにして身を離した。
 急に温もりが失われ、彼は妙な空虚さに襲われる。

 ブラッドを見上げてくるケイティの顔からは、先ほどの笑みは消え失せていた。代わりに、何かを恐れるような眼差しを彼に向けてくる。

(どうして、そんな顔になるんだ?)
 家に帰れるということはケイティにとっては朗報のはずだというのに、今の彼女の様子は、まるで邪険に足蹴にされた仔猫のようではないか。
 ケイティのその視線に罪悪感めいたものを抱くブラッドに、彼女は小さな歯で唇を噛み、そして言う。
「あたしがここにいない方がいいですか?」
 その問いに、一瞬、ブラッドの頭の中から思考というものがスポンと抜けた。

「そんなはずがないだろう!」
 すぐさま我に返って放ったブラッドのその返事に、強張っていたケイティの顔がほどける。
 彼女の満面にパァッと笑顔が戻り、ブラッドは声を出さずに呻いた。

(くそぅ)

 どうして、こんなに愛らしいのか。
 頭では、ブラッドの方から手放して親元に帰してやるのが正しいことだと判っていても、到底実現できそうにない。

 我が身の狭量さを罵るブラッドの胸中など斟酌せず、ケイティがハタと表情を改める。

「あ、そう言えば忘れてました」
 何を、とブラッドが問う前に、ケイティはぐずぐずに彼の心をとろかしてくれる笑顔になる。
 そうして、言った。

「ただいま帰りました。改めて、これからもよろしくお願いします」

 これから。

(これからも、ここにいるのか)
 ――ケイティは、これからも、この腕の中にいてくれるのか。

 彼女に正しい道を選ばせろと声高に叫ぶ理性を、安堵の念が押しやっていく。
 常にブラッドを律してきた良識や思慮分別、そういったものが、ほろほろと崩れ落ちていきそうだ。
 細い肩に手を置いているだけでは物足りず、この温かく柔らかな存在を抱き締めずにはいられなくなったが、ブラッドは心の中で自分の頬を殴りつけ、正気を引っ立てる。

 ケイティがしがみ付いてくるのならまだしも、ブラッドが彼女を抱き締めるなど、もってのほかだ。
 絶対に、そんなことがあってはならない――『彼が』そうしたくてであれば、なおさらだ。

(ケイティは、保護対象だ)
 それをけっして忘れてはいけない。
 特に、彼女を狙うものが現れた今は、それをしかと肝に銘じなければ。
 
「おかえり。これからも、よろしく頼む」
 なけなしの理性をかき集め、小さな咳払いの後に応えたブラッドに、ケイティは心底から嬉しそうに、そう、さながら花が咲くように、笑った。

 刹那。

 彼女を、守る。
 デリック・スパークからだけではない。
 この先ケイティに降りかかる、ありとあらゆるものから、彼女を守ってやりたい。

 ケイティの笑顔を目にした瞬間、そんな衝動がぶわりと胸の奥から噴き出してきた。
(これは、義務感だ)

 守らなければではなく、守りたい。
 そこにある微妙な差異は見て見ぬふりをし、この強い思いは警邏隊としての義務感から来るものなのだと、ブラッドは己に言い聞かせた。それ以外の想いから動くことは、ウィリスサイド警邏隊隊長として、不適切なことなのだと。

 奥歯を食いしばった彼を副官が呆れたような眼差しで見ていることに、ブラッドは微塵も気付いていなかった。
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