放蕩貴族と銀の天使

トウリン

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第二部:天上を舞う天使は雲の中を惑いそして墜ちる。

過去を探しに③

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 ふわふわと、深い水の底から浮き上がっていくような感覚。
 それに伴い目蓋を貫いて目を射てくる眩しさに、アンジェリカは眉根を寄せた。
 彼女は温かな何かにすっぽりと包み込まれている。どうしてか、不思議なほどにその感触には安心できた。

 さらに深く身を委ねようと身じろぎをしたアンジェリカに、ためらいがちな呼びかけが。
「アンジェリカ? 気が付いた?」

 優しい、声だ。

(誰……?)

 記憶を手繰って声の主を探した彼女の耳に、また、同じ声が囁きかける。
「アンジェリカ?」

(ああ、そうだ。この人は――)
「……ブライアン?」
 呟きながら目を開けると、鼻先が触れ合いそうな距離に新緑の瞳があった。どうやら、彼の膝の上に座るような形で抱え込まれているらしい。
 まだ微妙にぼんやりとしている頭で、アンジェリカは、彼の腕の中はやけに居心地が良いなと思う。

「アンジェリカ?」
 見るともなしにブライアンに視線を注いでいたアンジェリカは、名前を呼ばれて目を瞬かせた。彼はずいぶんと心配そうな顔をしている。

「どうかした?」
 眉をひそめてそう訊ねたアンジェリカに、彼は一瞬目を丸くしてから、ホッとしたように頬を緩めた。
「どうかしたって、それは僕たちの台詞だよ。大丈夫? 少しの間だけだけど、あなたは気を失っていたんだ」
「私が?」
 アンジェリカは眉間にしわを寄せた。

 そう言われると、記憶が溢れた直後に急に目の前が真っ暗になって、その後を覚えていない。つまりそれは唐突に意識を失ったということで、にも拘らず、今、どこにも痛みがないということは、地面に激突するのを誰かが防いでくれたということだ。

 その誰かが誰なのかと言えば、あの場にいたのはブライアンだけなわけで。

「……ありがとう」
 抱き留めてくれたことに礼を言ったアンジェリカは、その時、自分が彼の服を固く握り締めていたことに気が付いた。

 いつからそうしていたのか。
 まるで命綱にでも縋り付いているかのようなその手は、彼女の意思とは解離している。

「すまない」
 狼狽じみた衝動に突かれるようにしてパッとブライアンの服を放して立ち上がろうとしたアンジェリカは、腰を浮かした途端にまためまいに襲われた。フラ付いた彼女の腰を、すかさずブライアンが両手で支えてくれる。
「アンジェリカ、無理しないで――」
 そこで彼女はほとんどひったくられるような勢いで後ろからすくい上げられた。

「アンジェリカ、気分は? どこか痛むところはないかい?」
 彼女を抱き上げ気遣いを溢れさせた眼差しを注いでいるのは、いつの間にか崖の上から下りてきていた兄だ――アンジェリカを見る直前にブライアンに向けた眼はまるで人一人殺した後というようなものに見えたのは、きっと彼女の気のせいだろう。見れば、兄の向こう側にはヘニングもいる。

 アンジェリカは心配で居ても立っても居られないという風情のガブリエルをなだめようと、彼の肩をポンポンと叩いた。
「兄さま、大丈夫ですから下ろしてください」
「本当に?」
 目を眇めたガブリエルは半信半疑だ。アンジェリカは彼にうなずき身をよじる。
「本当に、もう何ともありません」
 ガブリエルは更にジッとアンジェリカを見つめてから、いかにも渋々とといった風情で身を屈め、そっと彼女を地面に下してくれる。

 アンジェリカはガブリエルの腕に手をかけたまま辺りを見渡した。そうして兄から離れて崖下に戻り、そこでもう一度グルリと視線を巡らせる。

「ここから、あちらの方に歩いて行ったのだと思います。多分、母に連れられて」
 そう告げて、一つの方向を見つめて真っ直ぐに指差した。
「思い出したのか?」
 そう訊ねたのは、ヘニングだ。彼は地面を見下ろし、崖を見上げて、アンジェリカを見る。
「確かに、馬車が落ちていたのはこの辺りだ。父上は、馬車の残骸の下から見つかった。母上はあちらの方で……」
 ヘニングはそちらの方へと目を向けたけれども、語尾を濁したその台詞と一緒では、アンジェリカから目を逸らしたようにも見えた。

「母が、何か?」
「ああ、いや――」
 言い淀むヘニングを、アンジェリカは無言で見つめる。彼は小さく息をつき、気が進まなそうに言葉を継いだ。
「その、明らかに、馬車から落ちただけではない損傷があって……だから、君も――」
 再び、ヘニングの台詞は尻すぼみになった。アンジェリカは首をかしげる。
「馬車からではない――誰かに襲われた、と?」
「いや、そうではなくて」

(――ああ)

 アンジェリカはヘニングが言おうとしないことを――言えないことを察し、補う。
「私も獣に襲われた、と?」
 ヘニングは一瞬グッと顎を引き、そして無言でうなずいた。
 確かに、子どもの彼女であれば、何の痕跡もなく獣にどこかに運ばれてしまったのだとしてもおかしくない。
「あの馬車の様子では到底無事とは思えなかった。母上も、引きずられていった痕跡があったし」
 そこで彼は奥歯を噛み締める。
「もっと、探せば良かった」
 ヘニングの呟きに満ちているのは慚愧の念だ。

 アンジェリカは彼の目を覗き込む。
「ですが、あなたに見つけられてハイヤーハムに戻っていたら、私たちを追いかけていた者に捕らえられていたか――あるいは、殺されていたかもしれません。だから、むしろ見つからなかった方が良かったのだと思います」
「アンジェリカ、でも、君はこんなところで独り置き去りになったんだ。多分、怪我もしていただろう」
「痛みはありましたが、大きな怪我はありませんでした。怪我があったとしても、打ち身程度だったのだと思います」
「だが――」
 更に言い募ろうとしたヘニングの声を遮ったのは、ガブリエルだ。

「確かに、アンジェリカは唯一の目撃者だからな。実際見ていたかどうかなど、奴らには関係ない。その可能性がある限り、きっと狙われていたはずだ」
「そもそも、私がご両親を呼んだからお二人が亡くなることになってしまったんだ。我々で問題を解決できていれば、お二人が命を落とすことはなかったはずだ。我々の力不足が、ご両親の死を招いたんだ」
 両手を固く握ったヘニングが、低い声で唸るように言った。
 多分、それは、長く彼の中にあった自責の念なのだろう。
 そんな必要はないのに、とアンジェリカは思ったけれども、実際に口に出すことはできなかった。きっと、そう言ったところで、ヘニングの心を軽くすることはできないだろうから。
 代わりにアンジェリカは手を伸ばし、そっと彼の腕に触れた。

「アンジェリカ……」
 ヘニングが陰った眼差しを彼女に向ける。
 目と目が合っても、アンジェリカはそこからどんな言葉をかけたら良いのか判らなかった。そんな彼女を支えるように、ガブリエルの声が響く。
「父と母は職務を果たしただけですよ」
 アンジェリカとヘニングが同時に振り替えると、彼は肩をすくめて続けた。
「彼らは彼らが為すべきことをしただけです。貴石のことは国の管理下にあるわけですから、そちらが何も言ってこなくても、いずれは誰かが派遣されてきましたよ。事が終わった後に起きたことは、彼らの責任です。あなたが負うものは何一つありません」
「だが――……いや」
 言いかけ、ヘニングは小さくかぶりを振る。そして弱く微笑んだ。

「ありがとう」
 ほんの少し、彼の眼差しの陰が薄くなったように見えるのは、アンジェリカがそう願っているからだろうか。彼の後悔が無くなることはないのだろうけれど、少しでも軽くなってくれればいいと、彼女は思う。
 それに、アンジェリカがどう願おうが、いずれにせよ、ヘニングの中にあるものをどうにかできるのは彼だけだ。

(今は、自分のことを)
 ヘニングから目を逸らし、アンジェリカは頭を切り替え記憶に残る道筋を辿った。
 崖下は土くればかりだけれども、少し行けば樹が茂っている。冬のせいで緑は乏しいものの、葉が生い茂る時期にはかなりうっそうとしていそうだ。

 アンジェリカはもう一度周囲を見回し、心中でうなずく。
(確かに、あちらの方だ)

 十年間の沈黙を経てよみがえった記憶は驚くほどに鮮明で、アンジェリカは確信を持って歩き出した。

 ゆっくりと、一歩一歩を確かめるように進むアンジェリカに、男たちが続く。
 あの時は子どもの足だからずいぶんと離れたところまで歩かされたような気がしただけかと思っていたけれど、実際に、かなりの距離があるようだ。

 林に入って更にしばらく足を進めて、ふとアンジェリカは立ち止まった。
 目の前にあるのは、葉が落ちた灌木の茂み。
 彼女は、じっとそれを見つめた。

 そして、呟く。

「多分、ここ」

 確かに、この奥に押し込まれた。
 アンジェリカをここまで連れてきた人は、今、彼女が立っている場所にひざまずいて、食い入るように彼女を見つめていた。

「母さま」
 硬い地面に膝を突き、アンジェリカは母がそうしたように茂みを覗き込む。

 そこに、幼いころの自分がいた。

 アンジェリカは身をよじって振り返る。そうして、彼女を見守る人たちに告げた。

「私はここに隠されました」
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