らいおんはうさぎにおぼれる

トウリン

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第二部:らいおんはうさぎにこがれる

時は過去から未来へ流れるもの:過去からの足音

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 二月も残すところあと三日となった。
 元々冬は晴れた日が多い土地で、今日も青空が高く澄み渡っている。今年は暖冬だったこともあって、もう春といってもいいほどの陽気だ。
 校舎から出た司は、無意識に眉をしかめる。日差しが眩しかったというのもあるが、それだけではない。
 花を害した男は、もう世に放たれているはずだ。だが、空から聞かされていたその日からひと月以上が過ぎても、未だ彼女の周りに気になる動きはない。
 もうひと月、と言うべきか、あるいは、まだひと月、と言うべきか。

 空は、巳之口という男が再び花の前に姿を現すと思っている。いや、確信していると言ってもいいだろう。
 司もあの事件について可能な限り調べてみたが、どの記事もあっさりしたもので、巳之口久治という人物について知るすべはなかった。調べてみるうち、この手のセンセーショナルな事件はブログや掲示板サイトで話題になることが多いのだと知ったが、その中で、不思議なほどに花の事件を取り扱った記事は見付けられなかったのだ。
(あいつのことを諦めたわけじゃないよな)
 巳之口のことが解らないだけに、その男がどれほど花に執着しているのかも、今一つ判らない。だが、見た目とは裏腹に常々冷静な空があれほど強い口調で言ったのだ。簡単に「大丈夫だ」と思うべきではない。
 しかし、何もない日が一日、また一日と過ぎていくうちに、司の中で、二度と現れないで欲しいという希望が、二度と現れないのではないかという推測に変わりつつあった。

 ――そんな甘い考えを、何ものかに見透かされたのかもしれない。

「あ、獅子王!」
 花が待つ天文部の部室へと向かおうとしていた獅子王は、呼び留められて足を止める。振り返ると、声をかけてきたのは同じ工学部の一年生だった。
「なんだ?」
「お前さ、教育学部のちっさい女の子と仲が良かったよな? ほら、フワフワした髪の」
「宇佐美か? ああ」
 頷いた司に、相手は微かに眉をひそめる。
「あの子がさ、変なおっさんと話してたんだよな」
「何?」
「別に、揉めてるようには見えなかったんだけど、教授って感じでもなかったから、何か気になってさ」
 彼の台詞が頭に納まるにつれて、血の気が引いていく。
 危うく彼の胸倉に伸びかけた手を、司はグッと握り締めた。
「どこで見た?」
「食堂の近く」
「ありがとう」
 例の言葉もそこそこに、答えを訊くと同時に司は踵を返し、走り出した。

『変なおっさん』
 巳之口久治は二十八歳――「おっさん」という年齢ではないはずだが、刑務所暮らしで老けたのかもしれない。
 駆ける司の形相と勢いに、道行く人々がサッとよけていく。そんな中、三分と経たずに食堂に辿り着き、彼は周囲を見渡した。が、残念ながら、花の姿はない。
(どこに行った?)
 動こうにも、当てがない。
 金古や乾にも連絡を取って捜させようかと取り出したスマホが、そのタイミングで振動した。画面を見るとメールが届いたという通知がある。
 もしやと思い開いた中身は花からのもので、司の口から思わず安堵の吐息が漏れる。
 文面は、とても短い。

『こうえんにいます』

 全てかな文字の短い文章に、変換するだけの余裕もなかったのだろうかと司は猛烈な不安に駆られた。
 彼女が言う『公園』は、南門を出た先にあるもののことだろう。あそこなら人目も多いし、花といる者が誰であれ、妙な真似はできないはずだ。
 だが、だからといって、一秒たりとも彼女を得体のしれない奴と二人きりにはさせておきたくない。
 司は再び走り出す。

 記録的なスピードで辿り着いた公園は、さほど広さはないものの、入り口から隅々まで一望できるほど狭いわけでもない。
(いるとしたら、広場か?)
 当たりをつけたその場所へと急ぐと、果たして、花はそこに居た。司の方に背を向け、くたびれた感じの中年男と相対している。見たことがない男だが、三十路前の巳之口でないのは確かだろう。
 男は、何やら花に熱弁を振るっているようだ。
 詰め寄る男から、花が一歩後ずさる。と、それを引き留めようとしてか、彼が彼女に手を伸ばした。
 花の細い腕が男のゴツイ手に無造作に掴まれるのを目にした瞬間、司の頭に一気に血が昇る。猪突の勢いでそこに向かい、男が気付くより早くその腕を捩じり上げた。

「ぅわッ!?」
「獅子王くん!」
 男の悲鳴と安堵に満ちた花の声が、被る。
「大丈夫か? 何かされたか?」
 もしも花にほんの少しでも怯えた様子があったなら、司はためらいなく男を殴り飛ばしていただろう。だが、彼女はふわりと微笑みかぶりを振る。
「ううん、何も。獅子王くんが来てくれたから」
 その声と眼差しからは、彼が来ることを信じて疑っていないことがありありと伝わってくる。
「そうか」
 ホッとため息をこぼしつつ、司は突き飛ばすようにして男を放し、花から遠ざけた。
 男は尻餅をついたままみっともなく後ずさり、充分な距離を取ってから立ち上がる。

「何だよ、あんた!?」
「あんたこそ、誰だ?」
 引きつった男の声とは真逆で、司の声は低く重い。だが、けっして冷静なわけではなかった。むしろ、怒りで煮えたぎっているからこその、その声だ。
 男は一つ二つ目をしばたたかせ、ようやく、司がみなぎらせているものに気が付いたらしい。こびへつらう薄笑いを浮かべる。
「や、あたしゃジャーナリストでね」
「名前は?」
「く、久住――久住雄一くずみゆういち
 名前を言ったら食い殺されるとでも思っているかのように口ごもりながら、男が答えた。
「で、久住さん、あんた、こいつに何の用ですか」
「お宅にそれを話す義理は――」
「何の、用ですか」
 約三十センチの身長差から見下ろすと、久住は蛇に睨まれた蛙さながらにグッと生唾を呑み込んだ。
 司はなおも彼を睥睨する。

 ――やがてこぼれた久住の台詞は、『ジャーナリスト』という彼の肩書を聞いた瞬間から、司が危惧していたものだった。
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