らいおんはうさぎにおぼれる

トウリン

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第二部:らいおんはうさぎにこがれる

過去が人を作り人は未来を創る:風雲急を告げる

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 工学部の校舎から出た司は日差しの眩しさに眉をしかめつつ、腕時計に目を走らせた。ここ数日、殆ど夏と言っていいような日が続いている。今日もやけに暑くて、ジャケットを着ていると汗ばんでくるくらいだった。
 最後の講義が少しばかり早く終わった上に、今日は珍しくバイトもない日だ。図書館に寄ってレポートの資料でも探そうかと司は思ったが、結局、真っ直ぐ部室を目指すことにする。

 新年度が始まって、二週間が過ぎた。もうじき始まるゴールデンウィークには、また、天文サークル恒例の流星群観測合宿が控えている。
 入学式の翌日、空は飯沢との約束通り三名の女子を引き連れて部室に現れたのだが、その日の晩に開かれた第一次歓迎会で彼があまりに『姉しか目に入ってません』というところを見せてしまったせいか、彼女たちはそれきりパッタリ来なくなってしまった。結局、今のところ、サークルのメンバーは空が増えただけの、変わり映えしないものとなっている。

 司はすがめた目で雲一つなく晴れ渡った青空を見上げた。彼の心中はその空と同じように爽快だ、とは言い難い。ここ数ヶ月、彼の中には常に一抹の暗雲がわだかまっている。

(あいつの出所からもう二ヶ月は経ったよな)
 司は胸の内で呟き、奥歯を食いしばった。

 あいつ――花を拉致監禁した巳之口久治みのくち ひさはるが刑期を終えたのは、一月半ばのことだ。本来十年だったところが八年に縮まったのだと聞いている。花への仕打ちを考えれば、八百年でも足りないと、司は思う。あの男が犯した罪の重さに比べてあまりに罰は軽く、このことについて考えるたび、司の中にはモヤモヤとしたものが渦巻いた。
 そんな司の胸中はともかくとして、その報せがもたらされてからも日々は至って平和に流れており、今に至るまで、司や空が案じていた事態も起こっていない。

 司的には万死に値する巳之口が入れられていたのは、医療刑務所だった。責任能力はあると判断されたものの、裁判の時のあまりに常軌を逸した態度で単なる刑罰ではなくカウンセリングなどの心理療法も必要だとされたからだ。

(その治療が効いたのか?)

 あの男は、幼い少女に抱いた執着が異常なものだったと認識できたのだろうか。
 懸念は、杞憂に終わってくれるのだろうか。

(それならいいんだけどな)
 司は内心で独り言ち、ため息を一つこぼしてから歩き出した。

 もしも巳之口が姿を見せるようなことがあれば喜んで叩きのめしてやりたいところだが、久住という記者が現れた時の花の動揺を思うと、あの事件に関わることは、一切、彼女の傍に寄せたくないとも思う。それは空とて同様で、戦う力を身につけ、常に花の周囲を警戒しつつも、何も起こらずに済むことを心底願っているのがありありと伝わってきた。
 どっちつかずの状況は確かにストレスだが、花の為には、このまま何事もなく終わって欲しいと司は心から思う。
 本当に、心の底から。

 まだ新年度になって間もないキャンパスにはどこか浮ついた空気があって、平和そのものだ。そんな中を司は深々と眉間に溝を刻んで歩いていたが、じきにサークル棟が見えてきた。
 この渋面を花が目にすれば、きっと気に病むだろう。
 司は眉間をこすり、意識して表情を和らげる。

 外階段を上がり、二階にある天文サークルの部室の扉を開けると、中にいたのは一人だけだった。卒業したにもかかわらず、自宅よりも執筆が進むからと部員以上にこの部屋に入り浸っている飯沢歩美だ。今もノートパソコンを前にしている。
 飯沢はパソコンの画面から戸口に眼を移し、そこに立つのが司であることに気付くと眉を上げた。
「あれ、来たんだ」
 さも意外そうな口ぶりに、司は眉をひそめる。彼はそれほどの幽霊部員ではないはずだ。いや、花に合わせているから出席率はかなり高いと思うのだが。
 訝しげな司の表情に気付いたようで、飯沢が笑う。
「ああ、ごめん。だって、今日は宇佐美さん休みでしょ?」
「え?」
 寝耳に水で、司は思わず声を上げた。と、飯沢もキョトンと首をかしげる。
「あれ? 校門の前で車に乗るところ見たよ? だから、ああ、部活は来ないんだなって思ったんだけど。聞いてない?」

 聞いて、いない。

 司はスマホを取り出し確認してみたが、通知は何もない。
「遠目であんまり良く見えなかったけど、なんか具合悪そうだったから、急遽誰かに迎えに来てもらったんじゃないの?」
 そんな飯沢の推測を耳から耳へと聞き流しながら、司は花に電話をかけてみた。が、出ない。十回ほどの呼び出し音の後、留守番電話に切り替わってしまった。

 何だか、嫌な予感がする。

 彼は次に空の番号にかけてみた。
 今度はコール三回で応答がある。
「獅子王さん、何の用です? 僕、もうすぐ部室に行きますよ?」
 そう言った空からは、確かに歩いている気配がする。
「宇佐美が誰か迎えを呼んだとか聞いているか?」
「え? いえ?」
 怪訝そうなその声に、司の背を嫌な汗が伝った。肉親である空が聞いていないのであれば、金古や乾は尚更何も知らないのだろう。
 黙り込んだ司に、回線の向こうから少し硬くなった声が届く。
「獅子王さん、何なんです?」
 司は空へ返事をする前に、飯沢に目を向けた。
「すいません、俺も帰ります」
「あ、やっぱ具合悪いとか?」
「そんなところです」
 言葉を濁して答え、司は踵を返した。
「獅子王さん、いったい――」
「会って話す」
 スマホの空にそう返し、ひとまず通話を終える。それを握り締めたまま、司はサークル棟の外階段を二段飛ばしで駆け下りた。ちょうど下りきったところで空が到着する。

「獅子王さん、さっきのは何だったんですか? 姉に何か?」
 駆け寄ってきた空の顔は強張っており、いつもの柔和さはない。
「やられたかもしれない」
「え?」
「宇佐美が電話に出ない。飯沢さんが、校門で車に乗るところを――乗せられるところを見たらしい。お前が何も聞いていないなら、宇佐美の意思じゃないんじゃないか?」
 司の台詞を聞き終えるより先に、空がスマホを操作する。
「おい、何を――」
「GPSです。姉の居場所が判るようにしているんで」
「は?」
「姉の同意は得てますよ。これ……家に向かっているんじゃないですね」
 呆気に取られていた司だったが、空の台詞で彼の手の中のスマホを覗き込む。確かに、駅とも花の家とも方向が違う。
「じゃあ、どこなんだ?」
 もしも体調を崩して病院に行こうとしているのならば市街地を目指すはずだが、それとも違う。むしろ反対方向だ。どんどん、郊外に向かっている。

 どこに向かっているにしろ、取り敢えず、タクシーか何かで追いかけなければ。

 司がそう思って顔を上げた時、空が小さく毒づいた。
「くそ。あいつだ」
「何?」
「多分、行こうとしている場所も判ります」
「おい――」
「僕のバイクで、追いかけましょう」
 言うなり、空は司の返事を待たずに走り出した。
 駐輪場はサークル棟からさほど遠くない場所にあり、自転車に交って数台のオートバイが置かれている。空はそのうちの一台に歩み寄った。四百㏄のネイキッドだ。十六歳になると同時に免許を取ったらしいが、空手以上に空にはそぐっていない。

「バイク、乗ったことあります?」
 予備のヘルメットを渡しながら訊いてきた空に、司はそれを受け取り頷く。
「ああ」
 岩隈晃《いわくま あきら》が乗っていて、司も何度かタンデムを経験したことがある。
 ヘルメットを被った司に、空は、今度は彼のスマホを差し出した。それは長いストラップが付いていて、彼は首から提げるように促す。
「行き先のあたりはついているんですけど、これを見ていて違っていそうだったら教えてください。かなり飛ばしますから、しっかり掴まっていてくださいよ」
 司がその台詞に応える前に、バイクのエンジンが唸りを上げた。
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