らいおんはうさぎにおぼれる

トウリン

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第二部:らいおんはうさぎにこがれる

過去が人を作り人は未来を創る:過去との決別

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「ああ――」
 空に応えかけ、司はハッと息を呑んだ。
 腕の中の花が、ガタガタと震えている。すぐさま見下ろした彼女の顔面は、蒼白だった。
 司が動いたことで花の視線が彼から外れ、彼女は自分が今どこにいるのかに気付いてしまったのだ。
「ッ」
 ギリリと奥歯を食いしばり、司は再び花の頭を自分の胸に押し付け彼女の視界を遮った。二度とつらい思いをさせない筈だったのにともどかしい思いをこらえながら、包み込むように花を抱き締める。
「すぐ、外に連れていくから」
 低い声で告げ、花を抱いたまま立ち上がろうとした。が、返ってきた小さな声に、動きを止める。
「待って」
 声だけで、腕の中の花は身じろぎ一つしていなかったから、一瞬、気のせいかと思った。だが、彼女の声を司が聞き違えるはずがない。
 腕を緩めて花の動きを待ったが、彼女は司の胸に額を押し当てたままだ。
 司はもう一度花を抱き締める。今度はそっと、触れるほどの力で。

 どれほどそうしていたか判らない。

 司の腕の中で次第に花の震えが鎮まっていき、やがて完全に消える。そうして彼女は小さな吐息をこぼし、ゆっくりと顔を上げた。まだ頬は白いが、花は小さな両手を司の胸に当て、身体を離す。
「ありがとう、もう大丈夫だよ」
「宇佐美……」
 とてもじゃないが、司の目には彼女が『大丈夫』であるようには映らなかった。

 と、そこで。

「花ちゃん!」
 司でも空でもない者の声で名を呼ばれ、花がビクンと肩をはねさせる。司の背に隠されているから、彼女のそんな反応は、声の主には見えなかったはずだ。
「花ちゃん、僕だよ、久治だよ」
 もう一度声がして、今度はそれに何か硬いものが床にぶつかる音と低い呻き声が続く。
 花の顔からはまた血の気が引いており、広げられていた手はきつく司の身頃を握り締めていた。

 場所も状況も、彼女にとって最悪だ。

「ここから出よう」
 歩いて行くのが無理なら、抱いて連れて行ってもいい。
 司の台詞に、しかし、花はかぶりを振る。
「ううん、まだ、待って」
 そう告げ、花は司の腕の中から抜け出した。立ち上がった彼女に付き添うように、司も腰を上げる。
 花は一瞬ギュッと司の袖を掴んでから、空に押さえつけられたままの巳之口に向けて、数歩進んだ。彼が目いっぱい腕を伸ばしても届かないくらいの距離を残して、足を止める。
 自分の前に立った花を、巳之口は目いっぱい顔を上げて見上げてきた。
「花ちゃん……久しぶり。元気そうだね。薬で気分が悪くなったりしていないかい?」
 親しげで、優しげな、声だった。
 肩を強張らせた花は、無言だ。そんな彼女に、巳之口はおもねる口調で反吐を吐きそうになる台詞を重ねる。
「どうしたの? 顔色が悪いけど、やっぱり薬のせいかな。少なめにしておいたのだけど……ああ、そうか、もしかして、裁判の時のこと? 僕が怒ってると思ってる? 大丈夫、怒ってなんかいないよ。君が僕たちの愛を裏切ったことは許してあげる。あの時はまだ君は子どもだったから、皆の前であんなふうに吊し上げられて怖くなっちゃったんだよね。ひどいよね、あんなの。僕らの愛への冒涜だよ。ああ、大丈夫、本当に君には怒ってないから、またここで一緒に――」

「黙れ!」

 司の一喝に、へらへらと笑いながら愚にもつかないことを垂れ流していた巳之口がビクリと固まる。
 もう、これ以上聞くに堪えなかった。
 独りよがりな妄言を浴びせられても花は押し黙ったままだが、きっと、何も言わないのではなく、何も言えないのだ。
 この男は、八年前と何ら変わってはいないではないか。
 花に対して酷いことをしたのだという認識が、まるでない。どこまでも自分本位の見方しかできていない。

「もういい、こんな奴、相手にするな」
 彼女の両耳を塞いでさっさとここから連れ出してしまいたい。
 そんな思いに駆られて司は花と巳之口の間に割って入ろうとしたが、その動きは腕に触れてきた彼女の手によって止められる。見下ろすと、花は司の目を真っ直ぐに見返し、小さく首を振った。そうして、また、巳之口に向き直る。途端にパッと彼の顔が明るくなった。
「花ちゃん。そいつに言ってやってよ。僕らの邪魔をするなって。僕らがどんなに愛し合っているかって――」

「愛してません」

「え?」
 簡潔で明瞭な花の一言に、巳之口はポカンと口を開けて彼女を見た。
 花は背筋を伸ばして巳之口を見下ろしながら、一言一言を噛み締めるように、もう一度告げる。

「わたしは、あなたのことを、愛してなんかいませんでした。ほんの少しも」
「嘘だ! あんなに愛し合っていたじゃないか! そいつらのせいかい? そいつらにそう言えって言われたんだね!?」
 巳之口は花の背後に立つ司を憤慨しきりという目で睨み付け、ジタバタともがいて空の拘束から逃れようとした。が、その足掻きも、続く花の言葉でピタリと止まる。
「わたしにとって、あれはただの理不尽な暴力でした」
「何で!? どうしてそんなことを言うんだい!? 僕はこんなに君を愛しているのに! 君だって、ここで幸せだったじゃないか!」
 どこまでも己の視野を押し付けるだけの台詞に、花の肩が強張る。
 司はそれ以上黙っていることができなかった。

「愛してると言うなら、どうしてこいつの顔をちゃんと見ないんだ!?」
 花の背に添い糾弾の声を上げた司に、巳之口の眼が移る。
「何を――」
「今、こいつはどんな顔をしてお前を見ている? 笑っているか? あの時も、こいつは、ここで笑っていたのか? こいつが心から笑っているところを、お前は一度でも見たことがあるのか?」
 立て続けに問いを投げかけられ、巳之口はパクパクと口を開閉する。
「でも、君は……君は、会えば必ず僕に笑いかけてくれて……だから僕は……」
「それは、お前に拉致られる前の話だ。違うか?」
 司に指摘され黙り込んだ巳之口に追い打ちをかけるように空が言う。
「あの頃の姉は、誰にでも無防備に笑って挨拶してましたよ。ちょっと心配になるほど、警戒心がなくてね」
 空はグイと巳之口の身体を捻って彼の顔を覗き込み、憎々しげに告げる。
「それを、あんたが奪ったんだ。あんたのせいで、姉は笑うことができなくなったんだよ。それを、八年かけてようやく取り戻せたんだ」
 そのまま、男の首をねじ切りそうな声と眼差しだった。いや、この場にいるのが彼ら二人きりであったなら、とうに実行していたかもしれない。
 司にそう思わせるに充分な光が、今の空の目の中にはあった。不穏で危険な、光が。

 そんな弟に、花が静かに呼びかける。

「空くん」
 空は動かない。
「空くん」
 再びの花の呼びかけに、たっぷり三つ数える間巳之口を睨み付けてから、空が彼女に眼を移す。
 姉と同じ甘い顔立ちが、今は硬く強張っている。そんな彼に、花は柔らかな笑みを投げた。
「ありがとう。でも、いいんだよ。わたしが、ちゃんと言うから」
 そう説いて、また、巳之口を見下ろす。

「わたしはあなたのことを特別に想ったことなんて一度もありませんでした。あなたに攫われて、ここに閉じ込められていたことは、恐怖でしかなかったです」
「嘘だ! 何を言っているんだ!? 僕たちは愛し合っていたんだ。君は僕と一緒にいたかったんだ。これからも僕と一緒にいたいんだ。なのにどうして――そうだ、大人たちにそう洗脳されたんだろう?」
 パッと顔を輝かせて空に圧し掛かられたまま花ににじり寄ろうとした巳之口を、凛と通る声が制す。

「いいえ」

 花は両手を胸の前できつく握り合わせ、巳之口を見据えた。
「いいえ。わたしはあの一ヶ月間、逃げ出したくてたまらなかった。家に帰ることしか、わたしが大事に想う人たちのところに帰ることしか、考えてなかった。その大事な人の中に、あなたはいなかった。一ヶ月一緒に過ごしても、あなたはわたしの大事な人にはならなかった。ほんの少しも、そうは思えなかった」
 抑えた声で淡々と告げた花は、束の間唇を噛み締めた。
 ややして再び口を開く。
「あの頃、はっきりとそう伝えられたら良かったんだと思う。そうすべきだったんだと思う。でも、十歳のわたしは子どもで、怯えていて、あなたから遠ざかることしか考えられなかったから。あなたを責めたり拒んだりする言葉を口にするだけの時間ですら、あなたの傍にいたくないと思っていたから、何も言えなかったんです」

 拒否する言葉をかけることでさえ、拒否する。
 これほど徹底的な拒絶はないだろう。
 そこまで拒まれていたのだということが、ようやく巳之口の頭に浸透し始めたらしい。空に逆らっていた力が失せ、額を押し付けるようにして床に伏す。

 顔が見えなくなった巳之口の後頭部を花はしばらく見つめていたが、不意に、ふらりとよろめいた。司はサッと手を伸ばし、細い肩を支える。

「ありがとう」

 肩越しに振り返って淡い笑みを浮かべた花を、司は無言で抱き上げた。
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