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ある日の朝食◇サイドA
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普通、『朝食』というものは、朝に食べるものだと思うのです。まだお日さまもそれほど高くなくて、小鳥がチュンチュンと餌をついばんでいて――そういう時間に。
でも、このお屋敷に置いていただくようになってから、旦那さまがそんな時間に朝のお食事を召し上がるところは、見たことがありません。
寒い時期になればいっそう起きられるのが遅くて遅くて、下手をすると、朝昼ごはんになってしまうこともしばしばです。
ずっと前、わたしが旦那さま付きのメイドとして働き始めたばかりの頃。
大人がこんなにダラダラしててもいいのですか、とお訊きしたことがあります。
旦那さまの過ごされるお時間が、その頃わたしの周りにいた大人たちとは、あまりに、違っていらっしゃったので。
その時、旦那さまは、すごくまじめな顔でおっしゃいました。
「いいかい、エイミー。貴族の『仕事』というのは、お金を得る為のものではないのだよ。夜会で他の者との交流を深めていざという時に備えて絆を強めたりとか、貧しい人々の為に無償の貢献を行うとか、そういうものなんだ」
つまり、夜遅く――というより朝早くまで舞踏会から帰ってこなかったり、昼下がりにご婦人方と一緒に寄付を募る為のパーティーにお出かけなさったりするのは、『貴族だからこそ』のお仕事らしいのです。
旦那さまは、夜の集まりに出られると、夏であれば空がそろそろ白み始めるような頃にならないとお帰りになりません。
寝るのが遅いから起きるのも遅くなってしまうのですが、それが偉い人たちのお仕事の為だというなら仕方がないのかもしれません。
ちなみに、お屋敷の中を取り仕切ったりとか、商人の方とお話をしたりとか、領地のことを色々確認したりとか、わたしからしたら『これぞ仕事』と思えるようなことは、ハウススチュワードのジェシーさんがなさっています。
ジェシーさんはわたしのお父さんくらいの年で、とっても偉い人です。いつもキチッとしていて、旦那さまよりも偉い人のように見えてしまうくらいです。
少しばかり怖そうでもありますが、わたしはジェシーさんのことがとても好きです。
今日も、旦那さまのところへ朝ごはんなんだか昼ごはんなんだか判らないお食事を運んでいくと、ジェシーさんが旦那さまに何か書類をお見せしていました。
「おはよう、エイミー」
「おはようございます、ジェシーさん」
「食事だね。では、こちらは片付けるとしようか」
言いながら、ジェシーさんは広げていた書類をサッとひとまとめにしてくださいました。
「ありがとうございます」
トレイを机に下ろしてお辞儀をすると、ジェシーさんは少し笑ってくださいました。ジェシーさんの笑顔はあんまり見ることができないので、見られた日は、何となく得した気分になります。
わたしは旦那さまの前にお食事を並べてから、紅茶を淹れに入りました。
時刻的には限りなくお昼に近いですが、一応朝食の筈なので、ミルクティです。渋いくらいに濃いめな紅茶で、しっかり目を覚ましてもらわないと。
ポットにお湯を注ぎ、頭の中で、いつもの速さで数を数えます。
蒸らし時間がとても大事なので、慎重に、慎重に。
そんなふうに紅茶を淹れていたわたしは、ふと視線を感じました。
旦那さまです。
旦那さまがジッと見ていらっしゃるのは……わたしの、手元?
何か失敗でもしてしまったのでしょうか?
特に、いつもと違ったことはしていないはずなのですが。
と、眉間に薄らしわを刻んだ旦那さまが、トントン、と指先でテーブルを叩かれました。
「エイミー、ちょっと手を見せてごらん」
「何ですか?」
「いいから」
何なのだろうと思いながら、わたしは旦那さまが差し出している手のひらに、自分の手をのせました。旦那さまは、わたしの指先を持って何度もひっくり返してしげしげと見つめています。
「――汚れていませんよ?」
確かに、わたしがすることの中にはお掃除もありますが、旦那さまのお世話をする前には、ちゃんと手を洗っています。
ちゃんと、キレイな筈なのですが。
「え? ああ、いや、痛そうだな、と思ってね」
そう言いながら、旦那さまはもう片方の手の指先で、わたしの指の関節にできてしまったひび割れに、そっと触れられました。
冷たい水に触るようになると、どうしても手が荒れてしまいます。旦那さまはわたしたち使用人の事にもよく気を配ってらっしゃって、良いオイルを配ってくださっているのですが、今回の手荒れはちょっとこじらせてしまいました。
わたしの指の関節は赤く腫れて、ところどころパックリ割れています。
普段、旦那さまのお目に入る手は、きっとたおやかで、瑕一つ、シミ一つないような、お美しいものなのでしょう。
「すみません、見苦しいですね。手袋をしてきます」
謝りながら手を引こうとしたのですが、旦那さまは放してくれません。
それまでは指先を摘まむようにして持たれていたのですが、もっとしっかりと握り込まれてしまいました。
旦那さまは親指でひび割れを撫でながら、わたしの目を覗きこんできます。
「でも、手袋をしたところで、治るわけではないだろう?」
そうですが。
「見えなくはなりますよ?」
わたしの答えに、何でか、旦那さまは渋い顔になりました。
……何か、いけないことを言ったのでしょうか?
「そうじゃなくて、だな……」
そう言ったきり、旦那さまはわたしの手を握ったまま、黙り込んでしまいました。
しばらくそのまま待ってみたのですが、数をゆっくり三十まで数えてみても、手を開いてくれません。
そっと引き抜こうとしたら、よりいっそう、旦那さまの手に力がこもりました。
――旦那さまは、何をなさりたいのでしょう。
時々、とても理解不能です。
困ったわたしがジェシーさんを見上げると、旦那さまとは方向性は違いますが、やっぱり何だか変な顔をしていました。
「ジェシーさん?」
目で何とかしてください、とお願いすると、ようやく気付いてくださったジェシーさんは、咳払いを一つしてから、旦那さまに声をかけてくださいました。
「セディ様。彼女には他に仕事がありますから」
「ん? ああ、すまない」
ハッと気づいたように、旦那さまが手を放します。旦那さまの手が温かかったから、急に、指先がひんやりとした気がしました。
何故か何となくもったいなかったような気になってしまいましたけど、ジェシーさんがおっしゃる通り、わたしには他にもたくさんお仕事があります。
わたしが仕事をこなせなかったら、その分他のハウスメイドの皆さんに負担が行ってしまいますから、あまりのんびりはしていられないのです。
「では、ご用がありましたらお呼びください。食器は後で下げに来ます」
「頼んだよ」
手を振る旦那さまに頭を下げて、何なんだろうな、と思いながらもわたしはお部屋を後にしました。
次は、書斎のお掃除です。旦那さまがお使いになる前に、終わらせておかないといけませんから。
でも、このお屋敷に置いていただくようになってから、旦那さまがそんな時間に朝のお食事を召し上がるところは、見たことがありません。
寒い時期になればいっそう起きられるのが遅くて遅くて、下手をすると、朝昼ごはんになってしまうこともしばしばです。
ずっと前、わたしが旦那さま付きのメイドとして働き始めたばかりの頃。
大人がこんなにダラダラしててもいいのですか、とお訊きしたことがあります。
旦那さまの過ごされるお時間が、その頃わたしの周りにいた大人たちとは、あまりに、違っていらっしゃったので。
その時、旦那さまは、すごくまじめな顔でおっしゃいました。
「いいかい、エイミー。貴族の『仕事』というのは、お金を得る為のものではないのだよ。夜会で他の者との交流を深めていざという時に備えて絆を強めたりとか、貧しい人々の為に無償の貢献を行うとか、そういうものなんだ」
つまり、夜遅く――というより朝早くまで舞踏会から帰ってこなかったり、昼下がりにご婦人方と一緒に寄付を募る為のパーティーにお出かけなさったりするのは、『貴族だからこそ』のお仕事らしいのです。
旦那さまは、夜の集まりに出られると、夏であれば空がそろそろ白み始めるような頃にならないとお帰りになりません。
寝るのが遅いから起きるのも遅くなってしまうのですが、それが偉い人たちのお仕事の為だというなら仕方がないのかもしれません。
ちなみに、お屋敷の中を取り仕切ったりとか、商人の方とお話をしたりとか、領地のことを色々確認したりとか、わたしからしたら『これぞ仕事』と思えるようなことは、ハウススチュワードのジェシーさんがなさっています。
ジェシーさんはわたしのお父さんくらいの年で、とっても偉い人です。いつもキチッとしていて、旦那さまよりも偉い人のように見えてしまうくらいです。
少しばかり怖そうでもありますが、わたしはジェシーさんのことがとても好きです。
今日も、旦那さまのところへ朝ごはんなんだか昼ごはんなんだか判らないお食事を運んでいくと、ジェシーさんが旦那さまに何か書類をお見せしていました。
「おはよう、エイミー」
「おはようございます、ジェシーさん」
「食事だね。では、こちらは片付けるとしようか」
言いながら、ジェシーさんは広げていた書類をサッとひとまとめにしてくださいました。
「ありがとうございます」
トレイを机に下ろしてお辞儀をすると、ジェシーさんは少し笑ってくださいました。ジェシーさんの笑顔はあんまり見ることができないので、見られた日は、何となく得した気分になります。
わたしは旦那さまの前にお食事を並べてから、紅茶を淹れに入りました。
時刻的には限りなくお昼に近いですが、一応朝食の筈なので、ミルクティです。渋いくらいに濃いめな紅茶で、しっかり目を覚ましてもらわないと。
ポットにお湯を注ぎ、頭の中で、いつもの速さで数を数えます。
蒸らし時間がとても大事なので、慎重に、慎重に。
そんなふうに紅茶を淹れていたわたしは、ふと視線を感じました。
旦那さまです。
旦那さまがジッと見ていらっしゃるのは……わたしの、手元?
何か失敗でもしてしまったのでしょうか?
特に、いつもと違ったことはしていないはずなのですが。
と、眉間に薄らしわを刻んだ旦那さまが、トントン、と指先でテーブルを叩かれました。
「エイミー、ちょっと手を見せてごらん」
「何ですか?」
「いいから」
何なのだろうと思いながら、わたしは旦那さまが差し出している手のひらに、自分の手をのせました。旦那さまは、わたしの指先を持って何度もひっくり返してしげしげと見つめています。
「――汚れていませんよ?」
確かに、わたしがすることの中にはお掃除もありますが、旦那さまのお世話をする前には、ちゃんと手を洗っています。
ちゃんと、キレイな筈なのですが。
「え? ああ、いや、痛そうだな、と思ってね」
そう言いながら、旦那さまはもう片方の手の指先で、わたしの指の関節にできてしまったひび割れに、そっと触れられました。
冷たい水に触るようになると、どうしても手が荒れてしまいます。旦那さまはわたしたち使用人の事にもよく気を配ってらっしゃって、良いオイルを配ってくださっているのですが、今回の手荒れはちょっとこじらせてしまいました。
わたしの指の関節は赤く腫れて、ところどころパックリ割れています。
普段、旦那さまのお目に入る手は、きっとたおやかで、瑕一つ、シミ一つないような、お美しいものなのでしょう。
「すみません、見苦しいですね。手袋をしてきます」
謝りながら手を引こうとしたのですが、旦那さまは放してくれません。
それまでは指先を摘まむようにして持たれていたのですが、もっとしっかりと握り込まれてしまいました。
旦那さまは親指でひび割れを撫でながら、わたしの目を覗きこんできます。
「でも、手袋をしたところで、治るわけではないだろう?」
そうですが。
「見えなくはなりますよ?」
わたしの答えに、何でか、旦那さまは渋い顔になりました。
……何か、いけないことを言ったのでしょうか?
「そうじゃなくて、だな……」
そう言ったきり、旦那さまはわたしの手を握ったまま、黙り込んでしまいました。
しばらくそのまま待ってみたのですが、数をゆっくり三十まで数えてみても、手を開いてくれません。
そっと引き抜こうとしたら、よりいっそう、旦那さまの手に力がこもりました。
――旦那さまは、何をなさりたいのでしょう。
時々、とても理解不能です。
困ったわたしがジェシーさんを見上げると、旦那さまとは方向性は違いますが、やっぱり何だか変な顔をしていました。
「ジェシーさん?」
目で何とかしてください、とお願いすると、ようやく気付いてくださったジェシーさんは、咳払いを一つしてから、旦那さまに声をかけてくださいました。
「セディ様。彼女には他に仕事がありますから」
「ん? ああ、すまない」
ハッと気づいたように、旦那さまが手を放します。旦那さまの手が温かかったから、急に、指先がひんやりとした気がしました。
何故か何となくもったいなかったような気になってしまいましたけど、ジェシーさんがおっしゃる通り、わたしには他にもたくさんお仕事があります。
わたしが仕事をこなせなかったら、その分他のハウスメイドの皆さんに負担が行ってしまいますから、あまりのんびりはしていられないのです。
「では、ご用がありましたらお呼びください。食器は後で下げに来ます」
「頼んだよ」
手を振る旦那さまに頭を下げて、何なんだろうな、と思いながらもわたしはお部屋を後にしました。
次は、書斎のお掃除です。旦那さまがお使いになる前に、終わらせておかないといけませんから。
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