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第四章:飛竜の猛将
覚知①
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トルベスタの都、トルタに人気は無かった。人の気配どころか、ネズミの吐息すら感じられない。
魔物たちが攻め入っても抵抗一つなかった街並みに破壊の痕はなく、大木の間を埋めるように建てられた家屋はシンと静まり返っている。
黒衣を身にまとった男は城の前に立ち、巨大な樹木を包むようにして造り上げられたそれを異形の眼で見上げる。
彼の姿では人目に付く場所に立つことはできない。遥か上空から街や都を見下ろしたことはあっても、こうやって建造物を目の当たりにするのはここ数年になってのことだ。
(『彼女』も、これを目にしたのだろうか)
さぞかし驚いたことだろうと、その時の様を想像すると鋭い牙が覗く彼の口元も緩む。
彼女は、些細なことに感動し、喜びや楽しみを見い出せる少女だ。
人に追われ、どんなに不自由な生活を強いられようと、陽の光を浴びて気持ちが良いと言い、野の花畑を見てキレイだと言い、星の輝く夜空を見て夢のようだと言う。
彼女のそんな小さな幸せを護る為なら、彼はどんなことでもできた。
そんな彼女の隣にいるだけで、どんなことも苦ではなくなったのに。
――もう長いこと、彼女の笑顔を見ていない。
いつか再び、それを目にすることができるのだろうかと、彼は自らの手を見下ろした。
刃のように尖った爪の先まで覆う長衣の袖を少しめくれば、手背には硬いうろこが生えている。手のひらの皮も厚く、彼女に触れれば、それだけで柔らかな肌を傷付けてしまうだろう。力の増した腕は、彼女を潰さずに抱き締めることができる自信がない。
(この姿を見て、彼女は何て言うだろう?)
怯えるだろうか。
悲しむだろうか。
怒るだろうか。
(悲しむか、怒るか、だろうな)
その姿がくっきりと目に浮かんだ。
普段はおとなしくて弱々しくて、まるでそよ風にも吹き飛ばされてしまう綿毛のようなくせに、何かの拍子に突風でもびくともしない鋼のようになる。
それは、自分自身の為に、ではない。自分以外の誰かの為にしか、そうならない。
――だから、彼が護ってあげなければならないのだ。
誰よりも愛しく、大事なひと。
彼女の為なら、どんなことでもできるのだ。たとえ今、どれだけ多くの命を奪おうとも、それで彼女を悲しませることになろうとも、最終的に彼女が幸せになってくれればそれでいい。
彼は一度まぶたを閉じ、そしてまた見開く。
トルベスタ兵によるラウ川の防衛線を崩すのは、難しい事ではなかった。
だが、そこから先は彼らの神出鬼没な遊撃隊の攻撃に遭い、侵攻の足は鈍りがちだった。
元々、魔物の群れは獣とほとんど変わらない。中には人型で知能を持つモノもいるが、大半は不意打ちや罠を回避できないモノばかりだった。
個々の身体能力は高いから、多少の傷で命を落とすことはない。しかし、足止めを食らわせるのに、トルベスタ兵の小賢しい攻撃は充分に功を奏していた。
そうしてようやく首都に辿り着いたのはいいが、すでに住民の姿はなく、こうやってただ建物ばかりが佇んでいる。
「弓矢というのが厄介だな」
彼は呟いた。
マギクのように魔法で攻撃されるなら、その気配を察知することは容易だった。魔法を発動しようとした瞬間に、すぐに知れる。だが、弓矢での攻撃は、それを放つ人の気配を殺されてしまえば悟りにくい。そして、トルベスタの者は特にその術に秀でていた。
「そう言えば、彼も、コソコソと陰から獲物を仕留めるのが得意だったな」
ぼやいて、男は城の中へと進むべく、足を踏み出す。
両開きの巨大な扉はどっしりと閉ざされていたが、彼の手の無造作な一振りで、木の葉のようにいとも簡単にはためいた。頑強そうな閂が半ばから折れているのが、扉の陰に見える。
彼は無造作に足を進める――進めようとした、が、その第一歩が地に着く寸前、ヒュンと空気を切り裂く鋭い音が周囲に響く。いくつも、続けざまに。
長衣の被り物の陰から視線を走らせれば、白刃を煌めかせた何条もの矢が彼目がけて飛び来たっていた。
彼は、ゆるりと片手をかざす。
と、見えない何かがそこから放たれ、刹那、一瞬にして矢は全て地面に落とされていた。
「仕掛け、か。姑息な」
これまで十日近く戦ってきたのだ。魔物たちの力の程は、トルベスタの者たちも熟知している筈だ。
狙いも付けずに矢を放ったところで、息の根を止められる筈もなかろうに。ただの時間稼ぎか、あるいは嫌がらせとしか思えない。
男は肩を竦め、今度こそ城の中へと足を踏み入れる。
そこはやはり静まり返っていて、生あるものの存在は微塵も感じられない。
「『印』持ちは山の中、か?」
籠城していてくれれば探す手間が省けたのだが、そうはいかないらしい。広大な山の中、身を潜めようと細心の注意を払っている者を探すのか。しかも、相手は地形を熟知している。
山狩りをしてトルベスタの『印』持ちを探すべきか、それともヤンダルムかシュリータへこのまま進撃を続けるべきか。
彼女さえ封じられたままだったら、まだ多少の猶予はあるというのに。
彼はギリリと奥歯を噛み締める。
あの性悪猫が彼女を連れて行ってしまったからには、一刻も早く事態を掌握しなければならないのだ。そうしなければ、アレにそそのかされて、彼女が取り返しのつかないことをしてしまう。
本当なら、彼女を真っ先に探しに行きたかった。
そして、再び封じ込め、今度こそアレに手を出させないようにしてやるのに。
「くそ」
男は呻く。
かつてはどれだけ離れていようと見失うことのなかった彼女の気配が、全く感じられないのが不安だ。彼女が命を落とすことは決してないから、この世界に存在していることは確かだが、『印』の所為なのか、それともアレが彼女の気配を封じるような何かをしているのか。
この長い年月で彼の力も強まったが、それでもあの猫もどきの力は侮れないのだ。
「頼むから、はやまらないでくれ」
どこにいるともわからぬ彼女へ、届かぬ声でそう懇願する。
と、その時だった。
「!」
彼の全身を貫いたその感覚――その気配。
ハッと顔を上げるが、瞬きをするかしないかのうちに、それは消え失せていた。
だが、間違えようがない。
男は持ち上げた両手を握り締める。
「いた……見つけた」
彼の全身が喜びに震えた。
方角は、どちらだろう。
(東――いや、もう少し北か……?)
男は足早に城を出て、鋭く指笛を鳴らす。それに応えて、即座に巨大な鳥が降り立った。
ひらりとそれにまたがり、手綱を繰る。
舞い上がった鳥の背にピタリと身体を伏せて、最大限の速度が出るようにする。
ようやくつかんだ手がかりを、見逃すわけにはいかなかった。
魔物たちが攻め入っても抵抗一つなかった街並みに破壊の痕はなく、大木の間を埋めるように建てられた家屋はシンと静まり返っている。
黒衣を身にまとった男は城の前に立ち、巨大な樹木を包むようにして造り上げられたそれを異形の眼で見上げる。
彼の姿では人目に付く場所に立つことはできない。遥か上空から街や都を見下ろしたことはあっても、こうやって建造物を目の当たりにするのはここ数年になってのことだ。
(『彼女』も、これを目にしたのだろうか)
さぞかし驚いたことだろうと、その時の様を想像すると鋭い牙が覗く彼の口元も緩む。
彼女は、些細なことに感動し、喜びや楽しみを見い出せる少女だ。
人に追われ、どんなに不自由な生活を強いられようと、陽の光を浴びて気持ちが良いと言い、野の花畑を見てキレイだと言い、星の輝く夜空を見て夢のようだと言う。
彼女のそんな小さな幸せを護る為なら、彼はどんなことでもできた。
そんな彼女の隣にいるだけで、どんなことも苦ではなくなったのに。
――もう長いこと、彼女の笑顔を見ていない。
いつか再び、それを目にすることができるのだろうかと、彼は自らの手を見下ろした。
刃のように尖った爪の先まで覆う長衣の袖を少しめくれば、手背には硬いうろこが生えている。手のひらの皮も厚く、彼女に触れれば、それだけで柔らかな肌を傷付けてしまうだろう。力の増した腕は、彼女を潰さずに抱き締めることができる自信がない。
(この姿を見て、彼女は何て言うだろう?)
怯えるだろうか。
悲しむだろうか。
怒るだろうか。
(悲しむか、怒るか、だろうな)
その姿がくっきりと目に浮かんだ。
普段はおとなしくて弱々しくて、まるでそよ風にも吹き飛ばされてしまう綿毛のようなくせに、何かの拍子に突風でもびくともしない鋼のようになる。
それは、自分自身の為に、ではない。自分以外の誰かの為にしか、そうならない。
――だから、彼が護ってあげなければならないのだ。
誰よりも愛しく、大事なひと。
彼女の為なら、どんなことでもできるのだ。たとえ今、どれだけ多くの命を奪おうとも、それで彼女を悲しませることになろうとも、最終的に彼女が幸せになってくれればそれでいい。
彼は一度まぶたを閉じ、そしてまた見開く。
トルベスタ兵によるラウ川の防衛線を崩すのは、難しい事ではなかった。
だが、そこから先は彼らの神出鬼没な遊撃隊の攻撃に遭い、侵攻の足は鈍りがちだった。
元々、魔物の群れは獣とほとんど変わらない。中には人型で知能を持つモノもいるが、大半は不意打ちや罠を回避できないモノばかりだった。
個々の身体能力は高いから、多少の傷で命を落とすことはない。しかし、足止めを食らわせるのに、トルベスタ兵の小賢しい攻撃は充分に功を奏していた。
そうしてようやく首都に辿り着いたのはいいが、すでに住民の姿はなく、こうやってただ建物ばかりが佇んでいる。
「弓矢というのが厄介だな」
彼は呟いた。
マギクのように魔法で攻撃されるなら、その気配を察知することは容易だった。魔法を発動しようとした瞬間に、すぐに知れる。だが、弓矢での攻撃は、それを放つ人の気配を殺されてしまえば悟りにくい。そして、トルベスタの者は特にその術に秀でていた。
「そう言えば、彼も、コソコソと陰から獲物を仕留めるのが得意だったな」
ぼやいて、男は城の中へと進むべく、足を踏み出す。
両開きの巨大な扉はどっしりと閉ざされていたが、彼の手の無造作な一振りで、木の葉のようにいとも簡単にはためいた。頑強そうな閂が半ばから折れているのが、扉の陰に見える。
彼は無造作に足を進める――進めようとした、が、その第一歩が地に着く寸前、ヒュンと空気を切り裂く鋭い音が周囲に響く。いくつも、続けざまに。
長衣の被り物の陰から視線を走らせれば、白刃を煌めかせた何条もの矢が彼目がけて飛び来たっていた。
彼は、ゆるりと片手をかざす。
と、見えない何かがそこから放たれ、刹那、一瞬にして矢は全て地面に落とされていた。
「仕掛け、か。姑息な」
これまで十日近く戦ってきたのだ。魔物たちの力の程は、トルベスタの者たちも熟知している筈だ。
狙いも付けずに矢を放ったところで、息の根を止められる筈もなかろうに。ただの時間稼ぎか、あるいは嫌がらせとしか思えない。
男は肩を竦め、今度こそ城の中へと足を踏み入れる。
そこはやはり静まり返っていて、生あるものの存在は微塵も感じられない。
「『印』持ちは山の中、か?」
籠城していてくれれば探す手間が省けたのだが、そうはいかないらしい。広大な山の中、身を潜めようと細心の注意を払っている者を探すのか。しかも、相手は地形を熟知している。
山狩りをしてトルベスタの『印』持ちを探すべきか、それともヤンダルムかシュリータへこのまま進撃を続けるべきか。
彼女さえ封じられたままだったら、まだ多少の猶予はあるというのに。
彼はギリリと奥歯を噛み締める。
あの性悪猫が彼女を連れて行ってしまったからには、一刻も早く事態を掌握しなければならないのだ。そうしなければ、アレにそそのかされて、彼女が取り返しのつかないことをしてしまう。
本当なら、彼女を真っ先に探しに行きたかった。
そして、再び封じ込め、今度こそアレに手を出させないようにしてやるのに。
「くそ」
男は呻く。
かつてはどれだけ離れていようと見失うことのなかった彼女の気配が、全く感じられないのが不安だ。彼女が命を落とすことは決してないから、この世界に存在していることは確かだが、『印』の所為なのか、それともアレが彼女の気配を封じるような何かをしているのか。
この長い年月で彼の力も強まったが、それでもあの猫もどきの力は侮れないのだ。
「頼むから、はやまらないでくれ」
どこにいるともわからぬ彼女へ、届かぬ声でそう懇願する。
と、その時だった。
「!」
彼の全身を貫いたその感覚――その気配。
ハッと顔を上げるが、瞬きをするかしないかのうちに、それは消え失せていた。
だが、間違えようがない。
男は持ち上げた両手を握り締める。
「いた……見つけた」
彼の全身が喜びに震えた。
方角は、どちらだろう。
(東――いや、もう少し北か……?)
男は足早に城を出て、鋭く指笛を鳴らす。それに応えて、即座に巨大な鳥が降り立った。
ひらりとそれにまたがり、手綱を繰る。
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