ジア戦記

トウリン

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第三章:角笛の音色と新たな夜明け

プロローグ

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 厳しい寒さが和らぎ、雪が残るのも日陰ばかりという頃合いになると、グランゲルドの各地では春迎えの祭りが開かれるようになる。
 地域によって多少の違いはあるが、村一番の器量良しが春の女神レイヤの装束を身にまとい、村中を練り歩いて祝福をばらまくというものが殆どだ。ここ、王都グランディアでも同様で、今も山車の上から、華やかな衣装で着飾った娘が道の左右に居並ぶ人々に笑顔で手を振っている。

 この日、フリージアも『子ども』二人を連れて祭り見物へと繰り出していた。
 王都の人混みはかなりのものだ。うっかりすると華奢なエイルなど揉みくちゃにされかねないのが無事に済んでいるのは、フリージアとエイルの背後に立つオルディンのお陰だった。
 フリージアはエイルと手をつないだまま、指差す。

「ほら、見て、あれが春の女神レイヤ。この一年の豊作と健康を約束してくれるんだ。これからお菓子を撒いてくれるから、頑張って受け取ってね」
「わかった」

 エイルはコクリと頷くと、女神の手元を一心に見つめる。

 出会った頃に比べるとエイルは随分と肉付きが良くなり、表情も言葉数も増えてきていた。まだフリージアから離れようとはしないけれど、ロウグの屋敷では他の者とも言葉を交わすようなことも見られるようになってきていて、彼女はそれを嬉しく思う。

 フリージア達の横には、ソルを肩車したロキスが立っている。フリージアはソルを見上げて彼女にも励ましの言葉を送った。

「ソルも頑張ってね。ロキスの分も取ってやってよ」
「うん」

 見た目は五歳、中身は五十歳の『幼女』はその外見通りにあどけなく、コクンと頷く。
 初めて城下町に下りた時にはその騒々しさに固まっていたソルだったが、もうすっかり慣れたものだ。ロキスもソルもロウグ家に居候しているのだが、彼の手を引っ張って屋敷を飛び出していく姿をしょっちゅう見かける。当初は角を突き合わせてばかりだった二人も、今ではまるで兄妹のようだ。
 そのロキスは、ソルの下でブツブツと何やら文句を言っている。

「たく。菓子は菓子なんだから、店に並べて売りゃいいじゃねぇか。何でいちいちこんなことするんだ?」
「もう、うるさいわね。ロキスは黙ってわたしが言うとおりに動いたらいいの!」
 グッと髪を引っ張りながら、ソルが身を乗り出してロキスを覗き込む。
「痛ぇな、禿げたらどうしてくれるんだよ」
「あら、そんなことを気に病むなら、気にしなくて済むように、わたしが一本残らず燃やしてあげるわよ?」
「お前が言うとシャレにならねぇよ」
 ロキスがため息をつく。

 傍で見ていると微笑ましいケンカのようだが、確かに、炎を操るエルフィアであるソルが相手では、冗談では済まない部分も多々ある。フリージアは苦笑しながら二人の間に割って入った。

「これは運試しも兼ねてるんだよ。ある意味、神さまとの勝負だよね。そう思うとやる気が出るんじゃないの?」
「取らせるつもりで放り投げられる菓子を受け止めたって、ちっとも燃えやしねぇよ」
 呆れたような口調で、ロキスは彼女にそう返してくる。

「そう言えば、最近、あんまりオルにケンカを吹っかけないよね。前はほら、不意打ち食らわせたりしてたじゃない?」
 軽い口調でのフリージアの問いに、ロキスはソルを乗せたままの肩を竦めて答える。

「ああ? ガキの相手に時間食ってそれどころじゃないんだよな」
「ガキ……って、わたしのこと!?」
 彼の頭の上で、ソルが鼻息を荒くする。

「他に誰がいるんだよ」
「わたしの方があなたよりも長く生きてるんだからね?」
「年食ってるってだけだろ。やれあっちに行け、こっちに行けとチョロチョロしやがって」
「まあ!」

 普段は大人びているのに、ムッと頬を膨らませる様は、やはり年齢相応の子どもに見える。が、そこで笑うとソルの機嫌が更にねじれてしまうことは判っているので、フリージアは唇が歪んでしまうのを見せないように俯いた。

 ソルもソルだが、ロキスもロキスだ。
 子どもの相手が嫌なら避けていればいいのに何だかんだ言って律儀に付き合っているあたり、口で言うほど疎んじてはいないのだろう。

 元ニダベリル軍兵士であるロキスは、ギリギリの命のやり取りを好む男だ。生きるか、死ぬか、その瀬戸際を求めるきらいがある。
 そんなロキスに、もっと違うことに楽しみを見出してくれればいいのに、とフリージアは思ったものだ。
 出会った頃のロキスは本当に抜身の短剣の様だったが、最近は時折遠くを見つめるような眼差しでぼんやりしている姿を見かけることがある。もしかしたら、平穏なグランゲルドの生活を、持て余し始めているのかもしれない。けれど、彼がここでの生活に倦んでいるわけではないと感じることは、フリージアの願望ではない筈だ。

 確かにオルディンと手合せしているとやけに生き生きして見えるし、いつでも死地に跳び込んでいってしまいそうな危うさはそのままだ。けれど、初めの頃のように飢えた牙狼《きばおおかみ》のような狂おしいものは影を潜めている。

 エイルも変わったが、ロキスも随分変わった。
 色々なものが変わる――変えられる。変えたいと、フリージアは願う。

 不意に、フリージアの手がキュッと締め付けられる。見れば、手をつないだエイルが彼女に白銀の眼差しを注いでいる。微かに曇ったフリージアの表情に、気付いたらしい。
 何でもないよと言うように、彼女はエイルに笑い掛ける。

「夏になったら、色んな所に行こうね」

 フリージアは誰に言うでもなく、そう口にした。

 グランディアで春迎えの祭りが来たということは、北の方でもじきに雪解けが始まるということだ。それはつまり、戦いが始まる時が間近に迫っているということでもある。

 ――夏には、きっと全ての片が着いている。

 その時には今と同じ面々で笑顔を交わし合えている筈だし、そうなるようにフリージアの持てる力全てを出し尽くさなければならないのだ。

 だが、その力が及ばなかったら――?

 フリージアは、きつく奥歯を噛み締める。喧騒の中、軋む音が彼女の鼓膜にだけ届いた。
 と。

 不意に後ろから伸びてきた手がガシリと彼女の頭を鷲掴みにする。

「オル!」

 唐突かつ乱暴な扱いに、フリージアは手の持ち主へ抗議の声をあげる。押さえ込まれながらもジトリと睨み上げた彼女に、オルディンは肩を竦めた。

「見えもしない先のことなんか考えるなよ」

 まるで彼女の心を読んだかのように、彼は言う。フリージアは反論を返そうとして――止めた。ふと肩の力を抜き、頷く。
 確かに、オルディンの言うとおりなのだ。

「そうだね、うん。その時になってみないと判らないもんね」
 そう答えて、ニッと笑いを返した。形だけでも笑ってみせれば、気分も後から付いてくる。

 オルディンはポンポンと彼女の頭をいくつか叩くと、その手を離した。頭上の重さが去るように心が軽くなった訳ではないけれど、読めない未来のことでウジウジしてみても仕方がない。
 祭りに気持ちを戻そうと、山車に目を向けたフリージアだったが。

「フリージア殿……?」

 不意に名前を呼ばれて首を巡らせる。
 フリージアの視線の先で片手を上げたその人物に、彼女は目を丸くした。こげ茶色の髪、浅黒い肌の色に切れ長の目。

「あれ? えぇっと……そう、シグド!」
「覚えておいでか」
 名前を呼ばれ、男は会釈を返す。

 シグドという名のその男は、ニダベリルに故郷を滅ぼされ、残ったわずかな同胞と共にグランゲルドに流れてきた異邦人だ。フリージアがロウグ家に戻ると決めたきっかけとなった人物なのだから、忘れられる筈がない。
 ビグヴィルから逃げた先で立ち寄った東方の村で、彼が仲間と共に羊泥棒をするところを取り押さえたのだ。村長は盗人である彼らを赦し、村に受け入れてくれた。

 シグドには、身重の妻がいた筈だが。

「こんなところでどうしたの? 奥さんは?」
「無事に息子を産んでくれました」

 驚くほどに穏やかな眼差しで、シグドが笑う。きっと、あの村で幸せに暮らせているのだろうと、他人事ながらフリージアは嬉しくなる。

「で、家族で王都見学にでも来たの?」

 言いながら彼の後ろを覗いてみるが、それらしい人物はいない。おかしいな、とシグドに目を戻すと、彼はひどくまじめな顔をして彼女を見下ろしていた。

「あなたがこの国の将軍の一人だと、聞きました。そして、近くニダベリルとの戦いを控えているのだとも」
「あ……うん」

 シグドに会った時はまだ心を決めていなかったから騙していたことにはならないが、何となく気まずくてフリージアは言葉を濁す。そんな彼女に、シグドはサッと一歩下がると、身体を深く折って頭を下げる。

「シグド?」
「私を――私と私の部下を、あなたの軍に参入させていただきたく馳せ参じました」
「え?」
 首をかしげたフリージアに、シグドが顔を上げると真っ直ぐに彼女を見つめながら続けた。

「ニダベリルとの戦いに、我らも加えていただきたいのです。我々の部族は馬の扱いに長けています。きっと、お役に立ちましょう」

 その時フリージアの脳裏をよぎったのは、かつてシグドから聞かされた彼の故郷の話だ。そして、その時の彼の眼差しも。

「でも……恨みを晴らしたいとか、そういうのはなしだよ? あたしは、ニダベリルをやっつけるんだっていう気持ちはないから」

 甘い考えだとは判っているが、フリージアはグランゲルド軍もニダベリル軍も、どちらの兵士も無駄に死なせたくはない。確かにニダベリルと戦う決意はしたが、それは相手を駆逐する為ではないのだ。
 だが、真っ直ぐに注がれるフリージアの新緑の眼差しに、シグドは深く頷いた。

「確かに、かつては恨みからかの国に一矢報いたいと思っていました。ですが、今は違います。今は、妻と子が平穏に暮らせる場所を守ってやりたい、それだけなのです」

 シグドのその台詞に、フリージアは彼のこげ茶の目をしっかりと見つめる。その奥に潜むものを探ろうとして。
 シグドは、目を逸らさなかった。ただ黙って、フリージアの眼差しを受け止めている。

 ふ、と、フリージアは息をつく。彼のその言葉を信じようと思った。きっと彼は、奪った者への恨みや失ったものを振り返って嘆く気持ちよりも大事なものを手に入れたのだ――彼女自身がそうであるように。

「そう、なんだ? ……うん、それならいいや」
 フリージアは頬を緩めてシグドに笑いかける。
「聞き入れていただけるか。ありがたい!」
「こちらこそ、よろしく」
「は。我らが命、いかようにも使ってください。勝利の為ならば、我が身を捨ててでも――」
「それもなし!」
 フリージアは強い口調でシグドの台詞を打ち切った。

「は?」
「軍人とかって、何ですぐそう言うかな。違うでしょ、幸せになる為に戦うんだから、最初っから死ぬ気じゃダメじゃんか。石に噛り付いてでも生き抜くつもりじゃなきゃ、連れてかない」
「は……」

 語気荒くそう言うフリージアに戸惑うシグドへ助け舟を出したのはオルディンだ。群衆より頭一つ高い彼は、黒山の向こうに見え隠れするものに逸早く気付く。

「おい……何だか用があるみたいだぜ?」
「え?」

 釣られてオルディンの視線の先に目をやると、人混みを掻き分けこちらにやって来ようとしている紅竜軍の兵士の姿があった。

「急いでる、ね」

 グランゲルドで兵士が焦らなければならないような事態は、そう多くない。今この時期でとなると、フリージアには、その理由は一つしか思い当たらなかった。

「始まるか」

 低い声で、オルディンが呟く。

 ――穏やかな日常が終わったことに、フリージアは唇を噛み締めた。
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