捨て猫を拾った日

トウリン

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捨て猫を拾った日

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 駅前には人が溢れていた。
 皆、連れと笑いさざめき、あるいは家路を急ぎ、赤の他人のことなど気に留めはしない。

 駆け通しで駅に着いた孝一こういちは、荒い息をつきながら、ロータリーへと向かった。中央には、ツリーに見立ててイルミネーションで飾られた大木が植えられている。
 それを取り囲むように置かれたベンチ。
 雪が舞う中、屋根もない場所に置かれたベンチにのんびりと座っている者はそう多くない。さして珍しい飾りつけでもないイルミネーションを、人々は横目で眺めつつ、通り過ぎていくだけだ。

 その中の一つに、真白ましろは座っていた。
 初めて彼が声をかけた時のようにぽつんとベンチに腰掛け、駅の方を見つめている。

「シロ――真白」
 そっと声をかけると、少し間を置いてから、ゆっくりと彼女が彼の方を向いた。けれど栗色の目が孝一を捉えたのはほんのわずかな間だけで、また、その視線は元のように駅に向かう。
 そんな真白に、孝一はどんな言葉をかけたら良いのか、判らなかった。

 彼が見ている中で、真白の頭や肩に、雪片が舞い落ちていく。
 孝一はコートを脱ぎ、彼女を包み込んだ。そうして、一歩下がる。

 大きなコートにくるまれた真白は、小さな子どものように見えた。そんな彼女を肉体的に、精神的に痛めつけたのだと、孝一は自分自身を殴り付けたくなる。
 いっそ真白が泣き叫ぶなり罵るなりしてくれればいいのに。
 孝一がそう思っても、彼女は彼を見もしない。

「シロ、帰ろう」
 痺れを切らした彼は、手を伸ばしながらそっと声をかけた。が、真白がポツリと返してきた言葉に、硬直する。

「どこに?」
 そこには怒りの響きもあてつけの含みもなく、本当にそう思っているだけのようだった。

 ――俺の家に。
 そう言えるのか、そう言っても良いのか、孝一には確信が持てない。

 黙り込んだ彼の前で、不意に真白がスッと手を上げた。その細い指が伸ばされ、一点を指す。
 つられてそちらの方を向いた彼に見えるのは、駅だ。その駅はさして大きくなく、二人がいる場所からは改札と、券売機と、コインロッカーが一望できる。
 真白が示しているのは改札でも切符の自販機でもなく、一番右端にあるコインロッカーだった。

 何をどう問えばいいのか判らず、孝一は眉をひそめる。そんな彼を見もせずに、彼女が囁くように言う。

「わたしが帰るところは、あそこなの」

「え?」
 真白が手を下げる。だが、目はまだそれを――コインロッカーを見つめたままだった。

「わたしはあの中に入れられていたの」
「あの中って……ロッカーか?」
 理解しがたい思いでそう問い返した孝一に、真白はコクリと頷く。

「初めてコウと会った日。十八年前のあの日に、見つけられたの。生後一ヶ月くらいだったんだって」
 淡々と言えるような内容ではない。だが、彼女はまるで他人事のように口にした。

(こんな寒い日に、赤ん坊をコインロッカーに……?)
 一歩間違えれば、命がない。いや、生きている方が奇跡と言っていいのではなかろうか。
 シャレではなく、孝一はゾッとする。心の底から。言葉もなく立ち竦む彼の前で、真白はふと空を見上げた。

「わたしが見つけられた日も、雪だったの。滅多にない大雪で、みんな真っ白になったから、わたしの名前は『真白』になったの」

 彼女がその名前を受け入れているのか、嫌っているのか、それすら判らず、孝一は名前を呼ぶこともできない。言葉は何も思い浮かばなかった。
 だから何も言わずに手を伸ばし、真白を腕の中に抱き上げた。
 触れるのを拒まれるかどうかなど、もう考えずに。
 孝一は彼女の身体を自分の胸に押し付け、冷たくなった彼女の髪に頬を埋める。そうして、もう一度言った。

「家に、帰るんだ」

 頼むから頷いてくれ。
 孝一は強くそう願ったが、真白は答えない。
 彼女は何も求めず、何も望まない。ならば自分の思うようにしてしまえと、孝一は思った。
 彼は真白が欲しい。彼女の身体だけではない――彼女の全て、何もかもが。
 孝一は、腕に力を込める。きつく抱き締めれば、真白を自分の中に閉じ込めることができそうな気がして。
 真白は身じろぎ一つしない。
 彼女の同意を得ぬまま、孝一は彼の家へ向けて歩き出した。

 道すがら、彼は真白が何も求めようとしないのは、たった今耳にした彼女の生い立ちに関係しているのだろうかと考えを巡らせる。
 真白のそれは、無私と言うには度が過ぎている。まるで何かを望むということを知らないか、あるいは恐れているかのようだ。捨てられたというその過去が、彼女をそうさせてしまったのだろうか。

 マンションに着いた孝一は真白を降ろし、コートを取る。そっと両手で包んだ彼女の頬は冷たく、三日前よりも丸みが失せていた。彼が無視しようとしていた三日間で、出逢った時の細さに逆戻りしてしまっている。
 肩、腕、手へと滑らせていくと、コートでしっかりと包み込んでいたにもかかわらず、肉の薄い身体は凍えていた。

 孝一はもう一度真白を抱き上げ、バスルームに向かう。そうしてバスタブに湯を張りながら、彼女の服を脱がせていった。

 真白はされるがままになっている。
 それを彼女が自分を受け入れた証だと受け取るほど、孝一も自惚れてはいない。彼女はただ、抗うということに思いが及ばないだけなのだ。

 全てを取り去った真白を湯に入れてから、孝一は寝室に向かう。エアコンのスウィッチを入れて、またバスルームに戻った。

 真白は、彼が彼女を下ろした時とまるきり同じ恰好のままでバスタブの中にいた。
 服が濡れるのも構わずその脇に腰を下ろし、孝一は湯の中に揺蕩たゆたっている彼女の髪を一房すくい上げる。そこでようやく、真白の目が動いた。
 栗色の髪をもてあそぶ孝一の手を、彼女が見つめる。

「どうして、連れてきてくれたの?」
 呟きは唐突で、孝一は一瞬反応が遅れた。顔を上げて真白の顔を見れば、彼女の目は孝一の手に注がれていた。青白かった頬は薔薇色に火照っていて、随分温まってきているようだ。
 その頬に指先で触れて温もりを確かめ、孝一は答える。

「連れ帰りたかったからだ」

「……何で?」

 それには答えず、孝一は彼女の手を引いて立ち上がらせた。薄紅色に染まった身体を大判のバスタオルで包み、また抱き上げる。

「歩けるよ」
 小さな声でそう言うのが聞こえたが、構わずにそのまま寝室に運んだ。そうして、ベッドに座らせる形で真白を降ろすと、彼女の前に膝をついて視線の高さを合わせる。

「わたしに構わなくても、いいんだよ?」
 おずおずとした眼差しで孝一を見つめながら、真白が言う。血色の良くなった唇を今すぐ奪ってしまいたくなるが、自分を律してそれを抑えた。今は、疼く身体の欲求に流されている場合ではない。そもそも彼女を傷付けることになったのは、彼の理性が感情に負けたからだ。
 元来、孝一は常に感情よりも理性の方が勝っていた。どんな時でも我を失ったことがない――真白のこと以外では。
 真白は孝一を拒むことはしないだろうから、今も感情と欲望に任せて抱いてしまえばなし崩しに何もなかったことにはできるに違いない。

 しかし、それではダメなのだ。

 何故、彼女が絡むと頭がまともに働かなくなるのか。
 その理由をはっきりさせなければ、同じことを繰り返すことになるだろう。
 もう二度と真白をあんなふうに扱いたくはない。

 無理やり分け入った彼女の身体から萎えた彼自身を引き抜いた時。
 途方に暮れた彼女の眼差しで見上げられた時。

 あの時の気分は、うっかり仔猫を踏み潰しでもしたかのようだった。思い出すだけでも吐き気がする。

(だが、いったいどう切り出したらいいんだ?)
 黙ったままの孝一を見る真白の目には、困惑の色が混じり始めた。

「コウ?」
 まるで口にしてはいけないもののように不安げな様子で、真白が彼の名を囁く。それを呼び水に、孝一の頭も回り始めた。
「別に、呼びたいなら呼べよ」
 彼女の手を取り、しっかりとその目を覗き込んで、孝一は言った。
「名前だけじゃない、他にも、お前がしたいことをしたらいいんだ」
「わたし、のしたいこと?」
 真白の目が揺らぐ。
「お前がここに居たいなら、居たらいい」
「わたし、は……」
 口ごもった彼女の両手を引き寄せ、孝一は爪の先にそっと唇で触れる。

「お前が出て行きたいというなら、俺に引き止めることはできない。それでも、俺は、お前に居て欲しい。だが、あんな目に遭わされて二度と俺に触れられたくないなら、そう言ってくれ。俺はお前が思っていることを知りたい。怒っているとか憎んでいるとか、そういう気持ちでもいい」
「え……?」
「もしもお前に疎まれているとしても、だからといってお前を諦めるわけではないけどな」
「うとむ……?」
「ああ。もしもお前に嫌われたのなら、もう一度、初めからやり直したい。お前とは――身体から始めてしまった。俺はお前が欲しかった……今でも欲しい。だがそれは、身体の事だけじゃなかったんだ。間抜けなことに、俺はそれに気付いていなかった」
 孝一は自嘲の笑みを漏らす。
「まるで、十代のガキだ。我ながら情けない」
 真白の手をひっくり返し、今度は両手のひらに口付けた。

「俺は、お前を理解するより先に身体を奪った。それからずっと、お前がどうしたいかを考えることなく、自分本位に行動した。……なあ、こうやって触れられるのは、嫌か?」
 大きく見開かれた真白の目を覗き込み、孝一は問うた。そして絶句したままの彼女に重ねて乞う。
「ちゃんと言ってくれよ。俺はお前が嫌がることは、もう決してしたくない」

 それは、心の底からの声だった。
 不意に、孝一が包んでいる真白の手が、ピクリと動く。その指先が彼の手を握り返してくる。

「わたし、イヤじゃなかったよ?」
「真白……」
「最初に拾ってもらえた時、うれしかったの」
 真白は、微かに笑んでいた。
「わたしを欲しいと言ってくれる人はいなかったから、コウがわたしを欲しいと言ってくれた時も、うれしかったの」
「だけど、あれは――」
「理由は、何でもいいよ。ただ、拾ってもらえて、欲しいと言ってもらえて、幸せだったの」
 そう言って、真白は身体を屈め、孝一の頬にかすめるようなキスをする。羽が触れたようなその感触に、彼の全身には痺れるような喜びが走った。

「あのね、『あの時』もね、確かに痛かったけど……でも、コウのことを嫌いには、絶対になれないよ。『あの時』よりも、コウがあの人を連れて帰ってきた時の方が、痛くてつらかったの。わたしはもうここに居られないと思ったから」
「……お前はもう居ないと思ったんだ。きっと、出て行っただろう、と」
「出て行って、欲しかった?」
 孝一の手を握っていた真白の力が緩む。逃げて行きそうなそれを捉え直し、しっかりと捕まえる。
「お前は、俺の話を聞いていなかったのか?」

 真白の手を引き寄せながら自分は身を乗り出して、孝一は彼女の唇を奪った。しっかりと押し付けた後、少し離し、触れ合うかどうかという距離で囁く。

「それとも、行動で示さないと覚えていられないのか?」

 真白を試す為に口にした台詞の筈だというのに、すでに孝一は自分の身体の熱を持て余し始めていた。彼女の甘い香りが、鼻先をくすぐる。
 離れなければ、と孝一が思うと同時に、真白がことりと彼の肩に頭を載せてきた。そうして、耳元で囁く。

「わたし、コウが好きだよ。……この間は怒らせちゃったみたいだけど、ごめんね、やっぱり好きなの。好きでいたいの」
 香りと同じ、甘い声。それは、それだけで震えるほどの快感を引き出してくる。

 孝一はたまらず真白をすくい上げ、ベッドの上に横たえる。そうして、そのままマットに押し付けるようにして、キスをした。今度は唇を重ねるだけで我慢せず、彼女が驚いたように小さな声を上げた隙にすかさず舌を挿し入れる。そうして、頬の柔らかな粘膜をなぶり、滑らかな口蓋をこすり、小さな舌を絡め捕る。
 飢えたように貪り続けそうになるのを、孝一は霞む頭で辛うじて抑えた。
 唇を離し、荒い息をこらえながら真白と額を合わせる。

「悪い……しばらく、こんなふうには触れないでおこうと思っていたんだ」
 また同じことの繰り返しにならないようにと、理性を総動員させて起き上がろうとした孝一を引き止めたのは、真白の細い腕だ。するりとそれを彼の首に回し、はにかむ声で囁いてくる。

「いいよ」

「え?」

「わたしも、コウに触って欲しいよ」
 その囁きに、孝一の背筋をぞくりと震えが走り抜ける。

「おまえ……」
 ――そんなふうに煽るなよ。

 そう言おうとした孝一の首筋に柔らかく温かな唇がそっと触れる。触れただけだ。だが、その瞬間、彼は自分を抑える努力を放棄した。
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