捨て猫を拾った日

トウリン

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捨て猫を拾った日

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 カラリと音を立てて、ロックグラスの中で氷が動く。バーテンダーからグラスを受け取った時よりも氷塊はずいぶん小さくなっていたが、琥珀色の液体はほとんど減っていなかった。

 孝一こういちは一口すすり、薄くなったアルコールに眉をしかめる。
 いっそ正体もなくなるほど酔えればいいのに、飲む気になれない上に、飲んでもたいして効果を発揮してくれなかった。

 孝一が部屋に帰らなくなって、今日で三日になる。
 あの晩マンションを飛び出してから、職場近くのホテルに部屋を取って、仕事が終わればそこで眠り、朝になったらそこから通勤した。

 そう、もう三日だ。
 きっと、真白ましろはもういない。

(当然だ、あんな目に遭って、とどまっている筈がない)
 薄くなった不味いウィスキーをまた口に含み、孝一は自分を嘲る。アレで残っていたら、マゾかバカだ。
 だが、そう思うのに、何故か孝一の足は自宅へと向こうとしなかった。
 家の中がもぬけの殻であることを確認する為の電話すらしていない。
 きっと、真白はおらず、以前の彼の生活に戻れるというのに、何故自分はそれを満喫しようとしないのだろう。

(――知るか)
 考えることを放棄して、孝一はまたグラスの中身をすする。
 と、不意に、横からグラスが差し出された。横目で見遣ると、それを片手に女が微笑んでいる。

「今日はクリスマスイブでしょ? 独り?」
 そこそこの美人だが、そう言う彼女も連れがいるようには見えない。孝一は肩を竦めるだけで応じる。
「隣、座るわね。それ、もう不味いんじゃない? こっちをどうぞ」
 言うなり女は孝一の手の中からグラスを取り、自分の持っているものを彼に押し付ける。そうして、彼女自身は脇に置いていたブラッディ・マリーを手に取った。ジッと孝一を見つめながら、深紅に彩られた唇を朱色のカクテルに寄せる。

「ねえ、私の彼氏ってば、イブの三日前に突然振ってきたのよ。ひどいと思わない?」
 孝一は無言でグラスを揺らす。彼女がいつ誰にどんな扱いをされようが、彼の知ったことではない。
 だが、無視する孝一に怯むことなく、女は続ける。そっと片手を彼の腕に伸ばしながら。
「あなたみたいな人がこんな日に独りだなんて……でも、誰かを待っているわけでもないわよね?」
 多分、しばらく前から彼の事を見ていたのだろう。疑問形を取りながら、その台詞には確信が満ちている。

 彼女は、解かりやすかった。自分が求めているものを態度にも言葉にも露わにしている。
 だが、孝一も元々は彼女と同じだった筈だ。
 今、欲しいものだけを手に入れ、後腐れなく別れる。
 そういう、簡単な生き方をしてきた筈だ。
 なのに、いつからそれに狂いが生じたのか。
 ――そんなのは、自問するだけ愚かだった。

「クソッ」
 思わず小さく毒づいた孝一に、彼女が微かに笑う。
「あら、腐ってるのね。あなたも独りなら、どう? 私とここを出ない?」

 あからさまな誘い。
 恋人でもない女と店を出てすることと言ったら、一つだ。
 孝一は顔を隣に向ける。
 女は美人で、メリハリの利いた良い身体をしている。艶やかな微笑に男を誘う手慣れた仕草――どこからどう見ても、彼女の方が真白よりも遥かに男の欲望をそそるだろう。
 この女を抱けば、また元の通りに自分に戻るのかも知れない。身軽に生きていた、自分に。
 不意に、そんな考えが孝一の頭に浮かんだ。

 唐突に立ち上がった孝一を女が見上げる。彼女を一瞥し、告げた。

「来いよ」
 それだけ残し、孝一は女に背を向ける。

 店を出るとすぐに、追い付いた女がするりと腕を絡ませてきた。
「私はミキよ。あなたは?」
「孝一だ」
「ふうん、で、コウイチ。ホントに独りなの?」
 孝一が何も返さなくとも、ミキは勝手にしゃべり続ける。
「カッコいいし、あの店にいたってことは結構イイとこに勤めてるんでしょ? 引く手あまたって感じなのに。あ、つまみ食いしたくなったとか?」
 そう言うと、彼女は抱きついた孝一の腕に、自らの価値を示すように豊かな双丘を押し付けてくる。特に何の反応も見せない彼に少し拍子抜けしたように一瞬力が緩んだが、すぐにしたり顔で微笑んだ。
「私、別にそういうの気にしないから、構わないわ。私もイブを独りで過ごしたくなかっただけだから。大丈夫、彼女に告げ口なんてしないわよ。お互い、今夜だけ、ね?」
 ミキのその台詞に、孝一の口から小さな嗤いが漏れる。
「何?」
 自らを嘲笑ったその声に、ミキが顔を上げて彼を見る。
「別に」
 孝一は、そう答えて肩を竦めた。

 真白は、たとえ彼女の目の前で他の女を抱いたとしても、全く気にしないだろう。
 顔を上げて周囲を見渡せば、互いに視線を結ばせ笑みを交わす男女で溢れている。多分、世に言う『想いを通じ合った者たち』なのだろう。それは所詮、孝一には縁のないものだった。

 真白との間には、何かがあるのかと思った。
 孝一が手に入れたことがなく、もしかしたら手に入れたいと思っていたのかもしれない、何かが。
 だが、そんなものは気の所為に過ぎなかった。

 ずっと抱き締めていたい温もりだとか。
 呼びかけた時に答えてくる甘い声だとか。

(そんなもの、俺は求めたことがなかっただろう?)
 彼はそう自分自身を嘲った。何を今さら気にするのか、と。

 真白は、いなくなった。
 あとは、残滓として漂う彼女の匂いを、温もりを、声を、全て消し去ればいい。

「ねえ、で、どこに行くの? この辺にもホテルはあるでしょ? 何かこだわりでもあるの?」
「……俺の部屋だ」
「え? 初対面なのに?」
 もちろん、今まで赤の他人を部屋に入れたことはない――それは、真白が初めてだった。
 あの時、あんな気まぐれを起こしてしまった自分に腹が立つ。
 あの時真白に声をかけなければ、家に連れて帰らなければ、今頃こんな妙な気持ちを抱かずに済んでいたのだ。
 ――こんな、腹立たしいような、何かが足りないような、気持ちを。
 何かを得られたような気がしたのに、それは泡沫のように孝一の手を擦り抜けた。いや、きっと最初からそんなものはなかったのだ。ただの錯覚に過ぎなかった。

(そうだ……何も、なかった)
 全てをなかったことにする為に、孝一はこの見ず知らずの女を部屋に入れ、そして真白しか抱いたことのないベッドでこの女を抱くのだ。
 そうすれば、真白を『特別』だと感じさせたものを、きっと払拭できる。
 そして、孝一はまた元の自分に戻れる。何ものにも心を動かされずに済んだ、自分に。

 家路に着くにはまだ早い時間、大通りには客を待つタクシーが並んでいる。孝一はその中の一台にミキを乗せ、その後に続いた。そうして、運転手に自宅の住所を告げる。
「了解」
 苛つかせるほど明るい声で応じ、運転手はギアを入れた。
 うっとうしいイルミネーションで彩られた街の中を、二人を乗せたタクシーは静かに走り抜けていく。
「ねえ、あなたって、無口よね。いつもそんななの? あ、どこで働いてるの? 年は……三十五はいってなさそうよね」
 酔っているわけでもないだろうに、ミキの口は休むことがない。

(うっとうしい)
 そう思ったが、他に女を見つけるのも面倒だった。それに、どうせ替えてみても同じようなものだ。
 ――やめるべきなんじゃないのか?
 そんな小さな声が、孝一の頭の片隅で囁いた。だが、彼はそれを無視する。

 喋り続けるミキと彼女の声を耳から耳へと流す孝一を乗せ、タクシーはろくに信号に引っかかることもなく、嫌になる程順調に走った。そして、停まる。
「着きましたよ」
 能天気な運転手の声が、孝一には腹立たしい。
「釣りはいい」
 数枚の札を渡してそう告げて、彼はさっさと車を降りた。孝一に続いたミキは、マンションを見上げて歓声を上げる。
「わあ、イイところに住んでるのね」
 俄然目の輝きを増したミキを無視して、孝一はエントランスホールを横切りさっさとエレベーターに乗った。扉が閉まりそうになる寸前、ミキが滑り込む。
「もう、せっかちね」
 ふふ、と意味有りげに笑う彼女には目もくれず、孝一は数値を変えていく階数表示を睨み付ける。他に同乗者のないエレベーターは一度も止まることなく孝一の部屋がある階へと到着した。

 自宅の扉に鍵を挿し込み、ふと孝一は手を止める。

 鍵が、開いていた。

(……それが、何だっていうんだ?)
 鍵を持たない真白が施錠できるわけもない。誰もいなくなった後の部屋のことなど、彼女が気にする必要もないのだ。
 当然、灯かりも点けたままだった。

「入れよ」
 言いながら先に立って玄関に足を踏み入れかけ――パタパタと近付いてくる聞き慣れた音に、孝一は硬直する。

「おかえり」
 おずおずとした、その声。
 たったそれだけのその一言が、何故、こんなにも耳に心地よいのか。
 孝一は目の前に立っている姿に思考能力を失った。
「シロ……」
 呟くように名を口にした彼に、真白はもう一度繰り返す。いつもの自信無げな笑みを浮かべて。
「おかえりなさい」
 二度目のそれに、孝一の呪縛が解ける。考えることなく、ただ、頭の中に浮かんだことを声にした。

「何で、いるんだ?」
「え?」
「何で、出て行かなかったんだ?」
 平坦な声での彼のその台詞に、真白は肩を縮める。怯んだような彼女の反応に、孝一は自分の口からこぼれた言葉に舌打ちをした。それがいっそう真白を竦ませる。

 何か、言わなければならない。

(だが、いったい何を言ったらいいんだ?)
 仕事でどんな難局に陥っても、孝一は自分を失ったことなどなかった。そんな彼が、二の句を継げずにいる。

「あ、の……」
 真白が何か言いかけた時だった。
「どうしたの?」
 場違いなほど明るい声が、二人の間に割って入る。覗き込んだミキを目にして、真白はハッと息を呑んだ。
「あら、妹さん?」
 真白と目を合わせ、ミキが艶やかに微笑む。そうして、孝一の肩に手をかけた――いかにも親しげに。それを見つめて、真白の顔から笑顔が抜ける。
「遊びに来ちゃってたのね? 私は別に他の場所でもいいわよ?」
 屈託のない彼女の声。
 それに孝一が何かを返すより先に、真白が動いた。

「いえ、わたし、帰りますから」
「え? おい――」
 引き止める余裕はなかった。彼女の台詞で我に返り、その腕を掴もうとした彼の手を擦り抜け、真白は部屋を飛び出していく。
「やだ、追い出しちゃったみたい。私はホテルで良かったのに」
 ミキの声が孝一の鼓膜を空しく通り過ぎる。ただ、身じろぎ一つできずに彼は立ち尽くしていた。

(なんで――)
 その一言だけが、頭の中で繰り返される。

 真白がまだいるとは、思っていなかった。
 何故残っているのか、理解できなかった。

「ねえ、上がってもいい?」
「え?」
 孝一はぼんやりとミキに目を向ける。
「妹さん、帰ったんだから、上がってもいいでしょう?」
 訝しげに眉根を寄せて、ミキが彼を見ている。

(……帰った……? ……誰が……?)
 真白が、だ。だが、彼女は『帰った』のではない。『消えた』のだ。

(それで、いいのか?)
 孝一は自問する。

(まさか)
 いい筈がない。

 三日間、家に帰らず電話もできずにいたのは、真白がいないことを目の当たりにしたくなかったからだ。それをはっきりと確かめなければ、彼女がいなくなったと実感せずにいられたからだ。いるかもしれないという可能性を、粉々に砕かれずにいられたからだ。

 いないだろうと思うことと、実際にいなくなられるのとでは、全く違う。
 そして孝一は、真白が彼の人生からいなくなることを、受け入れることができなかった。

「悪い」
「え?」
 靴を脱ぎかけていたミキが怪訝そうに振り返る。そんな彼女の腕を掴んで、玄関の外に引きずり出した。
「帰ってくれ」
「はい?」
 孝一は財布からタクシーの運転手に渡した分より数枚多い札を取り出し、呆気に取られている彼女に押し付ける。そうして、鍵をかける間も惜しんで駆け出した。

 エレベーターホールで表示を見上げれば、エレベーターは三階から二階へと移ろうとしているところだ。
「クソッ」
 それが再び十二階まで上がってくるのを待っていられず、孝一は毒づき非常階段へと向かう。
 飛び降りる勢いで、駆け下りた。
 辿り着いたエントランスホールには、誰もいない。
 そこも走り抜け、外に出る。
 通りの左右に目を走らせても、真白はいなかった。

(どこだ? どこにいる?)
 今見つけなければ、永遠に彼女を失うことになる。
 孝一は必死に記憶を辿り、数少ない真白の言葉を思い返した。

 昼によく行っていたという公園だろうか?
 頼むからそこにいてくれと祈りながら、孝一はまた走り出す。
 だが、さして広くないそこにいるのはカップルばかりで、一人で歩く少女などいない。

「真白!」
 息を切らし大声で呼ばわりながら駆けずりまわっても、返ってくるのは迷惑そうな男女の眼差しだけだった。

 他にどこかないかと思い浮かべようとしても、何一つ出てこない。
 何故、もっと彼女の話を聞いておかなかったのか。
 孝一は歯噛みする。だが、後悔は決して先には立たないのだ。

「真白……」
 絶望に駆られて彼女の名前を口にする。と、その時、チラリと目の前を何かがよぎった。そして、頬にゆっくり舞い降りた冷たい欠片。
「――雪、か」
 広げた手のひらに、一片、二片と落ちては溶ける。
 その冷たさが、不意に彼の記憶の中の何かを刺激した。

「もしかして……」
 一つの可能性が頭をよぎり、孝一は踵を返す。

 それは真白の事を何も知らない彼が彼女と共有する、わずかなもののうちの一つだった。
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