捨て猫を拾った日

トウリン

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捨て猫が懐いた日

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 真白が十八年間を過ごしてきたというその場所は、一見、大きめな幼稚園か小さめな学校か、という風情の建物だった。表からは子ども達の姿は見えないが、中庭でもあるのか、きゃあきゃあと歓声が聞こえてくる。
 建物は明るくきれいで、孝一こういちがイメージしていた『孤児院』とは違っていた。
 もっと暗く、陰惨な雰囲気なのかと思っていたのだが。

 入ってすぐに、左手には靴箱、右手には事務所らしきものがある。
 靴箱はほとんど埋まっていて、それからすると四十人ほどが暮らしているらしい。事務所の呼び鈴を押してから何の気なしに眺めていた孝一は、そこに真白ましろの名前を見つけた。中にはまだピンクのスリッパが入っていて、彼女が行方をくらましてから一月半が経とうとしている今でもまだここにいることになっているらしい、と、孝一は苛立ちに近いような気持ちを抱く。

 真白がいた児童養護施設に連絡を入れようとは、ずいぶん前から孝一も考えていたのだ。
 十八になっているとはいえ一応まだ未成年だし、急に姿を消したわけだから心配しているだろうと思って。だが、それを真白に伝えたら行方をくらまされそうな気がして、自分の仕事の都合がつくまで黙っていた。
 ようやく昨日真白に話をして、彼女の了承を得てからその日のうちにここに電話を一本入れたのだが――その時の相手の対応はいたって淡白な印象だった。まるで、真白がいなくなったことなど、全く気にしていなかったかのように。

 あの電話のせいもあって、昨日の夜は少々――いや、かなり、執拗に真白を抱いてしまった。
 真白も電話に出させたが、その時は小さな声で電話の相手に謝っている彼女に、特に変わった様子は見られなかったと思う。だが、チラリと横を見下ろすと、今の真白の顔は少し強張っていた。それが昨日の夜の疲れからなのか、緊張からなのか、それは判らなかった。

(ここに、嫌な思い出があるとか――?)
 最初に会った時にも、真白は「帰る場所はあるけれど、帰りたくない」と言っていたことを思い出す。
「シ――」
 呼び掛けようとしたところでパタパタとスリッパの音が近付いてきて、孝一は顔をそちらに向ける。
 現れたのは、五十歳前後ほどのふくよかな女性だ。目じりが下がった優しげな顔立ちで、立ち止まると同時に孝一に頭を下げる。

「お待たせしました。初めまして、園長の相原好子あいはら よしこと申します。お帰り、真白」
 顔を上げて真白に向けたその微笑みは、ホッとしているように見えなくもない。
「ただいま。……ごめんなさい」
 彼女は俯いていて表情は確認できないが、変に怯えていたりとか、そんな感じではなかった。単純に、申し訳なく思っているという様子だけで。
 項垂れた真白に、相原の顔には温かな笑みが浮かぶ。
「何もなかったならいいのよ。ここには、荷物を取りに来たのよね? あなたは部屋を片付けていらっしゃい――そのままにしてあるから。ええっと……佐々木さん、でしたね。女子棟には男性は入れないんです。その間、事務所でお待ちになります? それとも中をご覧になられます?」
 相原の言葉に、孝一は一瞬迷う。が、すぐに決めた。

「中を見させてもらっていいですか?」
 真白が育った場所を、見てみたい。そうすれば彼女の中にあるものが、少しは見えてくるかもしれない。
「構わないだろ?」
「あ、うん、別にわたしは……」
 コクリと頷き、真白が孝一を見上げてくる。
 その目の中にチラチラと見える影は、いったい何なのだろうと孝一は首をかしげる。

(俺に何を求めているんだ? 何て言って欲しい?)
 ――わからない。
 いっそ言葉の代わりに抱き締めてキスをしてしまいたくなるが、相原好子がいる手前、流石にそれは止めておく。

「早くしろよ? 待ってるからな」
 クシャクシャと頭を撫でて、結局無難にそう言った。
 と、その中のどれが功を奏したのか、真白が明らかにホッとした顔になる。彼女は微かに頬を緩めると、靴箱に入っているスリッパに履き替えた。
「待っててね」
 囁くようにそう残し、小走りで去って行く。
(……何が効いたんだ?)
 思わず、胸の中でそう呟く。孝一には、さっぱりわからなかった。

 そもそも、真白のことは解からない事ばかりなのだ。
 彼女は未だにプロポーズの返事は寄越さないし、はっきり言って、彼女が彼のことをどう思っているのかも、孝一にはわからない。
 確かに、彼のどんな行為にも真白の身体は応えてくれる。
 抱くたびに彼女の中は蕩けて、彼を放したくないとばかりに絡み付いてくる。
 彼女のその口から甘く熱のこもった声で「好き」という言葉もこぼしてくれる。
 にも拘らず、仕事から帰ってきたらある日突然部屋には誰もいなくなっているかもしれないという不安は、孝一の頭の中にしっかりと根付いたままだ。

 ――自信が、ない。
 自分をごまかしても仕方がない。その一言に尽きるのだから。

 孝一は、生まれて初めて『自信』という言葉の意味と使いどころを知った。今までは意識する必要などないほど、自信は彼の標準装備だったのだ。
 今も、分厚いそれを身にまとってはいる。だが、真白のことについてだけは、ポカリと抜け落ちていた。
 弱い犬ほど良く吠えるというが、真白に対して自信が持てないから、しつこいほどに触れてしまうのかもしれない。そうやって、彼女が身を震わせてしがみついてくることで安堵しているのだ。
 抱くたびに強い快楽を与えて、それに溺れさせてしまえと思うことさえある。そうすれば、離れていかないのではないだろうかと。

(これじゃ、ただのスケベオヤジだろ)
 そう自嘲するが、孝一には他に何をしたらいいのか判らないし、そもそも自制ができなかった。
 多分、真白がセックスで求めているのは肉体的な悦楽ではなく、それによって得られる深い結び付き――あるいは、深く結びついていると感じること、なのだろう。
 決して露わにはしないが、多分真白が求めているものは誰かと全てにおいて触れ合うことだ。別にセックスによる快楽は求めていないし、きっと溺れて何も見えなくなるということもない。

 何度も触れ合って、深く結びつく。
 肉体がそうなることで、心も同じように近付くことを望んでいるのかもしれない。

(俺からソレが得られないと思えば、きっとあっさりいなくなる)
 孝一には、自分の全てを彼女に差し出す準備ができている。プロポーズもしたし、指輪も与えた。
 だが、真白がそれを受け取ろうとしない。孝一を信じてくれないのだ。
 本当は切望しているくせに、目の前にぶら下げてやっても彼女は信じやしない。
 そして、孝一にはどうやったら彼女の信頼を勝ち取れるのか、見当もつかない。

 愛した相手の気持ちを手に入れられないことが、こんなにも苦しいものだとは。
 愛しているのだから、同じだけ愛されたい。
 ふと、かつて付き合っていた女たちのことが頭をよぎった。

 ――自業自得、因果応報。

 彼女たちに求められるたびにそれを蹴り返してきた自分を、罵りたくなる。それは、無意識のうちに口から洩れた。
「クソッ」
 呻いた孝一に、相原が振り返る。
「何か?」
「いえ、何でもありません。……ここは食堂ですか?」
 怪訝な顔をしている相原をごまかす為に、問わずとも一目瞭然なことを敢えて訊く。幸いにも、彼女はそれに乗ってくれた。
「ええ、そうです。ここでみんな揃って食事になります。小さい子の世話を大きい子にお願いしたりして。とってもにぎやかですよ」
 食堂やレクリエーションルーム、男児たちが生活している棟などを案内されながら、孝一は真白の心を覗く為の鍵がここで見つかることを、切実に願っていた。
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