捨て猫を拾った日

トウリン

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捨て猫が懐いた日

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 建物内を一通り見て回ると、相原あいはら孝一こういちを子ども達が溢れる中庭へと導いた。

 孝一は相原に促されてベンチに隣り合って座り、目の前の光景を眺める。
 結構な広さがあるそこは『庭』と言うよりも『公園』に近く、ブランコやジャングルジム、滑り台、砂場など、様々な遊具もそろっている。
 子ども達はようやく走れるようになったくらいの年頃の幼児から、中学生くらいの大きめな子まで、皆ごちゃ混ぜになって遊んでいる。が、よくよく見ると、遊具で遊ぶのは卒業しているだろう年長者は、小さな子ども達の面倒を見る為にいるようだった。
 皆、色々と訳ありなのだろうけれど、どの子も楽しそうにしている。

 何故、真白ましろはここに帰りたくなかったのだろうと、孝一は首をかしげた。
 実際にこの養護施設を訪れるまでは、もしかしたら職員の対応に何か好ましくないものがあったのではないかと勘繰っていたのだ。しかし、相原の人柄が温かなものであることは少し話しただけでも充分に伝わってきたし、こんな人が長なら他の職員についても推して知るべし、だ。

 相原と共に子ども達を眺めながら、孝一はずっと心の中にわだかまっていた質問を口にする。
「真白のこと、何で探さなかったんです?」
 ここに来るまでは、反感の方が強かった――問うというよりも非難する為に口にするつもりだったのだ。だが、今は単純に疑問に思っている。相原が真白の居場所を確認もせず放置していたことが、不思議でならなかった。

 孝一の問いに、相原はしばらく子ども達を眺めたままだったが、やがて彼へと目を向ける。そこには、後ろめたさもごまかそうとする卑屈さもなかった。

 そして、口を開く。

「あの子は、独特の雰囲気があるでしょう? こう、見えない壁があるというか……」
 相原の眼差しは、どこか寂しそうな色を含んでいた。彼女が何を言いたいのかが判らないまま、孝一は頷く。
「そうですね」
 彼の肯定に相原は微かに笑みを浮かべ、また視線を子ども達に戻した。

「あの子は、年下の子たちの面倒をとてもよく見てくれました。食事をさせて、着替えを手伝って、寝付かせて。他のどの年長者よりも、下手すると職員よりも、子ども達の世話を焼いてくれていたんです」
 孝一の脳裏には、彼の部屋で甲斐甲斐しく家事をする真白の姿が浮かんだ。多分、ここでもあんなふうだったのだろう。
「私のところでも、色々とやってくれてます」
 彼がそう言うと、相原は目を細めた。が、ふと真顔になる。
「世話を焼けば子ども達は喜ぶし、当然懐きます。だから、最初のうちは、子どもの方からあの子に寄っていくんです。ここに来たばかりの子は、たいてい、真白にべったりになりますよ。だけど、ここに馴染むと、じきに離れていってしまうんです」
「何故……」
 呟きながらも、孝一には何となく判るような気がした――子ども達が離れていく、その理由が。

 続く相原の言葉が、それを裏打ちする。
「子ども達が本当に望んでいるのは、世話をされることではないんです」

 相原の呟き。
 それが終わるか終らないかのうちに、少し離れたところで、走っていた二歳かそこらの幼女が見事に転ぶ。擦りむいた膝から出た血を見て泣きそうになった彼女を、駆け寄った十二歳くらいの少女が助け起こし、声をかけ、頭を撫で、ギュッと抱き締めた。
 幼女は涙を引っ込め、少女に笑いかける。
 それを静観していた相原が、不意に孝一へと向き直った。
「ああいう時、真白はすぐにあの子を水道に連れて行って、傷を洗って手当てをするでしょう。そして、バンドエイドを貼ったら、おしまい。もしかしたら、頭を撫でるくらいはするかもしれないけれど」
 その様子が、孝一の頭の中にもまざまざと思い浮かんだ。知らず眉間に皺を刻んだ彼を見つめながら、相原がもう一度繰り返す。

「あの子たちはね、世話を焼かれたいわけではないんです。触れ合いたいんです。誰かと関係を持ちたいんです。……世話を焼かれたら、懐くでしょう? 当然しがみついてきたり、甘えたり。だけど真白は、それに応えられないんです。あの子は、子ども達が求めているものがあの子自身だということに、思いが及ばないの。世話を焼かれてその子がどんなふうに感じているのかも、気にしない。相手をされて嬉しいと思っていることを抱き付いたりしてあの子に示しても、真白は察してあげられないんです。自分がしたことに対して何かが返ってくると、思っていないし期待もしていない」
 小さな、ため息。
「子どもは移り気だから、求めたものに応じてもらえなければすぐに離れていってしまいます。他に抱き締めてくれるスタッフはたくさんいるから、すぐにそちらに行ってしまう。あなたに抱き締めて欲しいんだ、あなたの気持ちが欲しいんだ、と声高に執拗に望んでくれる子なんて、いません。ここに来る子は、どの子も自分のことだけで精一杯――求めてもすぐに応じてはくれない人をさらに求めようとするなんて、そんな余裕なんてないんです」

 また、ため息。

「真白がつながりを求めていないわけではないんです。ただ、相手がそれを自分に求めているのだとは――求めてくれているのだとは、思えないんです。そんな事は有り得ないと、諦めてしまっている」
 相原のその言葉に、孝一はふと最初に真白を抱いた時のことを思い出した。
 あの時、彼は真白に「お前が欲しい」とはっきりと言ったのだ。

(もしかしたら、あれはあいつから選択肢を奪う言葉だったのか……?)
 真白が心の底で求めてやまない台詞を口にしたから、あの時彼女は孝一に身体を許したのかもしれない。
 あれは大きな間違いだったのだろうか。
(俺があの時あいつの身体を奪わなければ、今頃あいつの心を手に入れることができていたのか? それとも、ここの子ども達に未練を残さなかったように、俺のこともあっさりと忘れてさっさと出て行ってしまっていたのか?)

 自問したところで孝一はもう道を選んでしまったのだ。選ばれなかった道がどこに続いていたのかなんて、永遠にわからない。もしかしたら、その道の方が『正しい今』に続いていたのかもしれない。
 しかし、その答えは永遠に出やしない。
 それに、と彼は自分を嘲る。
(他の道を選ぶ気なんて、さらさらなかっただろう?)
 あの頃の孝一には真白の気持ちをおもんばかるとか、そんな頭はなかったのだ。ただ、自分の欲求を満たすことしか、考えていなかった。

 あの時の孝一は、真白の身体が欲しかった。
 だが、今は、彼女の心が欲しくてたまらない。

 膝の上で硬く拳を握り締めた孝一は、ふと横からの視線を感じてそちらを向いた。
 隣から、射抜くような相原の眼差しが注がれている。
「佐々木さん、あの子と婚約した、とおっしゃってましたよね?」
 した、というか、婚約させようと迫っている、というか。そこのところはごまかして、孝一はきっぱりと頷く。
「はい」
 ツッコミようのないほど単純明快な孝一の返事に、相原はホッと息をついた。
「……ずっと、あの子はここにいても幸せにはなれないんじゃないかな、という気がしていました。言い訳にしかならないんですけど、あの子の思うようにさせた方がいいのかもしれない、と。高校卒業すればここを出て行かなければなりませんが、もちろん、次の住む場所とか仕事とか、色々やれるだけのことはします。だけど、そうやっても、あの子はきっと幸せにはなれない。ここを旅立っていってもここにいる時のように日々を過ごし、そして気付いたら誰にも知られず命を終えてしまいそうな、そんな未来しか思い浮かばなかったんです」
 相原のその台詞に、サッと孝一から血の気が引く。それに気付いた彼女は、慌てて首を振った。
「ああ、別にあの子に自殺願望があるとか、そういうわけじゃないんですよ。ただ、何ていうか……全てにおいて、『欲』がない。いいえ、どうやって欲しいものを求めていいのか、わからないんですね、きっと」
「あいつから『欲しい』の一言を引き出す為には、苦労してますよ」
 孝一は苦笑する。別に、セックスの時だけのことではない。あらゆる場面で、彼女に選択させるように心掛けている――なかなか成功しないが。

「多分、たったそれだけのことを口にするのが、怖いんでしょうね」
「怖い?」
 眉をひそめた孝一に、相原は遠くを眺めるような眼差しになる。
「あの子から聞いていますか? ……あの子は生まれてすぐに親に捨てられました。そして一歳になる前に里親に引き取られましたが、夜泣きがあまりにひどいからと、一年もしないうちにここに戻されました」
「ですが、そのくらいの年頃の子では夜泣きなんてそれほど珍しいことではないでしょう?」
(そんな覚悟もないままに、その男女は安易に里親になろうとしたのか?)
 苛立ちを覚えて荒い声になった孝一を、相原は宥めるような柔らかな微笑みを浮かべて見つめた。

「子どもを育てるのは大変です。実子でもギブアップしてしまう人がいるのに、血がつながらなければ尚更ハードルは高くなります。もちろん、正式に預ける前に、何度も面接を繰り返して試験外泊をしてもらいますよ? でも、実際に一緒に暮らすとなると、それまで見えなかったものが見えてきてしまうんです」
「……すみません」
 ボソリと、孝一は謝った。
 確かに、彼は子育てなどしたことがない。それどころか、子どもに触れたこともないかもしれない。一人の子どもの未来を誰かの手に委ねようとする時に、相原たちがどれほどの労力を費やしているのかも知らない。

 深く頭を下げた孝一に、相原は「いいのよ」というように小さく首を振った。
「ここでは、手のかからない子だったのよ。実際、戻ってきたら夜泣きは止んだわ。多分、環境が変わったことや里親になった方の緊張が伝わってしまったのね。そして、四歳になった頃にもう一度引き取り手が現れました。でも、今度は夜驚症が出て……あんまり頻繁に起きるので、里親の方が疲れ切ってしまって」
「夜驚症?」
「夜中に、突然泣き叫ぶの。もう、とてつもなく怖い目に遭ったかのように。昼はケロッとしているのよ。でも、その様子を撮ったビデオを見せてもらったけれど、確かに見ている方が怖くなるくらいの叫び声だったわ」
「医者には行ったんですか?」
「ええ、何度も。薬も処方されたけれど、効果がなくて。前の方も二組目の里親さんも、とても優しくて熱心で、いい方たちだったのよ。真白もよく懐いたように見えて。でも……」

 相原がフツリと言葉を切った。

(結局、二組目もギブアップ、か)
 結局真白は、実の親と里親二組と、三回捨てられたことになるのだ。
 何かを求めることに臆病になっても、仕方がないことなのかもしれない。

 そんな彼女を今嵌っている深い淵から引っ張り出すことが、果たして自分にできるのだろうか。
 孝一は自問し、そして断言する。

(絶対に、やってみせる)

 真白の為に成し遂げなければならないし、それより何より彼自身の為にそうしたいと望んでいる。
 確かに真白は三回捨てられたかもしれないが、そんな彼女を狂おしいほどに求めている者もいるのだということを、解からせてやりたい。
 奥歯を噛み締めた孝一の隣で、再び相原が口を開く。

「年齢から考えても、少なくとも最初の二回は覚えていない筈ですが、何かの影響は残しているのでしょう。実の親に捨てられ、放置されたことがあの子の傷になり、それがあの子に消せない不安を覚えさせてしまった。それが元で二度目、三度目の拒絶を引き起こしてしまって――今のあの子の根っこを作ってしまったんです。大きな空洞のできた、根っこを。ここに来る子は多かれ少なかれそういう空洞を抱えていますが、あの子のものは大き過ぎる。『職員』である私達には埋めきれないんです。私達は子ども達全員に対して公平でなければなりませんから」
「あいつの方から望んでくれれば、応じられたんでしょうね」
 真白の方から、構って欲しいと手を伸ばしてくれれば。
 我が身と重ねてそう呟いた孝一に、相原は真っ直ぐな眼差しを向けた。
「私達の可能な限り」
 そうして、彼に対して深々と頭を下げる。

「あの子を、お願いします。あの子は電話で、あなたといたい、と言ったんです」
「真白が? 俺――私と?」
 真白が電話をしていた間、ずっと傍に居たわけではない。聞かれたくない話もあるだろうと、席を外したのだ。その間にどんなことを話していたのか、彼女に尋ねていなかった。

(真白が、俺といたいと言った)
 込み上げる喜びがじわじわと胸を温めていく。育ての親とも呼べる相手にそう言ったのなら、それは本心からの願いなのだろう。口元が緩みそうになる孝一の隣で、相原が続ける。
「恥ずかしながら、真白から何かを望む言葉を聞かされたのは、初めてでした。だから、無条件で信じてみようと思ったんです」
「信じる?」
「はい。おかしいと思いませんでしたか? ある日突然行方をくらました子と婚約したと言ってきた見知らぬ男性をすんなり受け入れたことを」
 そう言った相原の目には、少し意地の悪そうな輝きがあった。

 図星だ。
 だが、それを真白に関心がないからだろうと思っていたのだ。

 孝一は言葉を返せず口ごもる。

「あなたを、というよりも、真白を信じてみようと思ったんです。あの真白が自ら選んだのだから、信じてみよう、と」
 そう言った相原の視線は、鋭い。まるで彼の奥深くを暴き出そうとしているかのように。

 孝一は、ズシリと、肩に何かがのしかかったような気がした。だが、それを振り払うつもりはない。
 彼は背筋を伸ばして相原の目を見返した。
「俺はあいつを見捨てない」
(放してなんか、やるものか)
 断固とした孝一の宣言に、相原は一瞬目を見開き、そしてふわりと微笑んだ。
「その言葉、信じます」
 優しい声でそう告げて、彼女は立ち上がる。

「そろそろ行きましょうか。真白も戻ってきていると思います」
 歩き出した相原に続こうとした孝一は、ふと子ども達が溢れる庭を振り返った。
 この一見明るく楽しげな中にいながらも、孤独を振り払えなかった真白がポツリと佇む姿がぼんやりと脳裏に浮かぶ。途方に暮れた幼い子どものような彼女の姿が。
(そんな想いは、二度とさせない)
 孝一は心の中で拳を固めて歩き出し、相原を追った。

 言葉もなく来たルートを辿って、二人は事務所に戻る。
 からからと音を立てながら相原が引き戸を開けると、中にいた唯一の者が弾かれたように振り返った。
 不安に揺れた栗色の目が相原から孝一に動き、その瞬間、あからさまな安堵の色がそこに溢れ返る。相原から真白の生い立ちについての話を聞いた今、彼女が何に安心したのかが、孝一には手に取るように判った。

(ああ、くそ)
 孝一が、彼女を置いていくとでも思っていたのだろうか。

 この場に相原がいなければ、即座に真白に駆け寄って骨が軋まんばかりに抱き締めてやれただろう。そして、バカな考えが頭の中からすっかり消え失せるまで、キスをしてやれたのに。
 そんな欲求を胸の奥に押し込めて、孝一は彼女に歩み寄りながら片手を差し出す。
「支度はできたのか? 帰るぞ」
 パッと立ち上がった真白が手にしているのは、スポーツバッグと大きめな紙袋が二つだけだ。彼女の十八年が、それだけに納まっている――たった、それだけに。

 着替えが入っているらしいスポーツバッグは真白に持たせ、孝一は紙袋を手に取った。上からチラリと覗いた範囲で見えているのは、子ども達が作ったらしい、何だかよくわからない代物だ。

「では、突然の訪問で失礼しました。何かありましたらご連絡ください」
 孝一は相原に向き直り、そう告げる。
「こちらこそ、会えて良かったです。……真白」
「はい」
 不意に名前を呼ばれ、ピクリと真白は肩を震わせた。そんな彼女に、相原が微笑む。
「また顔を見せてね?」
「……はい」
 コクリと頷いたその頬が、微かに色付いている。
「行こう」
 孝一の促しに、真白の頭がまた一つ上下した。

   *

 ソファで寝たい。
 真白がそんなことを言い出したのは、夕食が終わって少ししてからのことだった。
「はあ? 何で」
 真白は理由を言わず、俯きがちに、上目加減でおずおずと孝一を見上げてくる。その大きな目の中に、チラチラと陰が見え隠れする。それが何なのか、彼には読み取ることができなかった。
「ダメ……?」
 『ダメ』と言うよりも、『イヤ』だ。
 孝一は速攻で却下しようとして、ふと口をつぐむ。
 それは滅多にない真白からの要求だった。
 一方的に自分の欲求を押し付けるだけでなく、彼女の意思を尊重したいと思う。
(だが、これはきいてもいい『お願い』なのか……?)
 何を思って真白がそう言っているのか、解からなかった。だが、彼女が切実にそれを望んでいるのは、判る。
 だから彼はそれを受け入れたのだ。
 ――不安に近い迷いを覚えながらも。
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