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捨て猫が懐いた日
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「ごめん」
彼の下で手足を投げ出すようにして目を閉じている真白にそう囁いても、返事はなかった。
暗い中でも、いつもは殆ど赤みのない頬が薄紅色に火照っていることがわかる。薄く開いた唇を奪ってしまいたくてたまらないが、そんなことをしたらせっかく落とした眠りの淵から彼女を引っ張り上げてしまうだろう。
孝一はゴロリと寝返り、真白の隣に横たわった。そうして、彼女を起こさないように慎重に引き寄せる。されるがままに腕の中にすっぽりとおさまった華奢な身体は、微熱があるかのように温かい。
ぐったりと力の抜けた真白の身体を、孝一は抱き締める。細いうなじとなだらかな腰のくぼみに手を置いて、彼女の全てが彼と触れ合うように、ピタリと寄り添わせた。
柔らかな彼女のその身体とは対称的に、孝一自身は硬く張り詰めている。欲求を満たすようにと痛みと共に脈打つ昂ぶりが主張してくるが、彼は目を閉じて堪えた。
はっきり言って、辛い。
真白が意識を飛ばしていようがどうしようが構わず奪ってしまえと執拗に要求してくる下半身を、理性と、そして彼女を慈しみたいという感情で押しとどめる。
暴走しそうな欲望から何とか気持ちを逸らそうと、孝一は思考を巡らせた。
(真白は、俺の気持ちを信じていないわけじゃない)
孝一が彼女のことを愛しているということは、理解している――多分。
愛。
ふと、孝一は胸の中でその言葉をつぶやいた。
(俺が真白に向けているのは、本当に『愛』と呼ばれるものなのか?)
真白には何度も「愛している」と言った。そうすれば、自分がどれほど彼女を放し難く思っているか、端的に伝えられると思っていたからだ。
しかし、繰り返しその言葉を口にしながらも、彼には、自分が愛というものを知っているという自信は全くない。
海外の映画などでは、登場人物はいとも簡単に「愛している」と言う。果たして彼らは本当にそれを確信して、そう口にするのだろうか。
『好き』というくらいなら、孝一にも判る。
真白が作る料理が『好き』だし、見上げてくるわずかに目尻が釣り上った大きな目も『好き』だし、彼が攻め立てた時に彼女が上げる甘い啼き声も『好き』だ。
真白の『パーツ』に対しては、一つ一つ『好き』だと言っていける。
だが、真白そのものに対して抱くのは、そんな単純な言葉では終わらせることができないものだった。
護りたくて、泣かせたくて、幸せにしたくて、独占したくて、彼女の思うようにさせてやりたくて、閉じ込めておきたくて、夜寝る時には抱き締めていたくて、朝起きた時には真っ先に顔を見たい。
こうやって真白を抱き締めていると、孝一の胸の中にはそんな支離滅裂で取り留めのない感情がいくつも入り混じった気持ちが込み上げてくるのだ。
こんな感情を、彼は今まで誰に対しても抱いたことがない。
これから先、真白以外の誰かに抱けるとも思えない。
一言で表せないほど複雑で、滅多に抱くことがない――こんな稀な気持ちは、『愛』と言っていいのではないだろうか。
だが、真白にとって、愛されているということはあまり大きな意味を持たないらしい。それどころか、要らないと言った。
普通は、「愛している」と言われれば、受け入れてもらえたのだ、ずっと一緒にいられる、と安堵する筈だ。
けれど、真白の中には依然として不安が満ち溢れている。
彼女は、愛されていれば傍にいてもらえる――それを、信じていない。
――愛していても、ずっと傍にいてくれるとは限らないでしょう?
その台詞を口にした時の真白の声が、眼差しが、孝一の中にまざまざとよみがえる。
あの時、自分がどんな色をその目に浮かべていたのか、真白は知っていたのだろうか。
(いいや、きっと気付いていない)
孝一は、真白を抱く腕に力を込める。
あの時、彼女の目の中にあったのは、怯えと諦めだ。手に入れようとしているものを失うことに対する怯えと、結局は手に入る筈がない、手に入ったとしてもすぐに失われるだろうという、諦め。
彼はそれを見ていたくなかった。
自分の腕の中にいる時に、そんな目をして欲しくなかった。
彼が触れている時には、寛いで、安心して、心地良くなって欲しかった。
耳に残る、真白の声。
――わたしを愛してくれる必要はないの。
そう言って、彼女はやんわりと孝一が差し出したものを拒んだのだ。
出会って間もない頃のように。
古巣に足を踏み入れたことで、真白自身も二月前の彼女に戻ってしまったようだった。
(いや、出会った時から何も変わっていないのかもしれない)
そっと真白の髪を頭から背中まで撫で下ろしながら、孝一は胸の中で呟く。
それを認めるのは、嫌だった。だが、きっとそれが真実だ。
変わったと思っていたのは孝一だけで、こんなに何度も身体をつなげても、結局、真白は何も変わらない。
真白は、けっして声に出して孝一を求めようとは、しない――欲しくないわけではない筈だというのに。
きっと、相原好子の言うとおりなのだ。
真白は、助けも求めず箱の中でひっそりと死んでいく、捨て猫。
幼い頃から彼女を見続けてきた相原の読みは正しかった。
拒まれているということを受け入れたくなくて、孝一は真白を滅茶苦茶に扱ってしまった。何度もイかせて、快楽に我を忘れさせて、あわよくば彼を求めさせたかった。
孝一は自嘲の笑みで唇を歪める。微かな後悔が苦みとなって全身に沁み渡った。
全然、うまくいかない。
少し頭を下げて、顎の辺りにある真白の頭の天辺にそっとキスを落とす。そうして、甘い香りを吸い込んだ。
真白の身体は、奪った。
だが、足りない。
孝一は彼女の心も欲しいのだ。自分の腕に、身も心も委ねて欲しい。あんなふうに強引に意識を失わせて抱き締めるのではなく、安心しきった真白に、彼女の方からすり寄ってきて欲しかった。
(俺がこんなにもこいつに執着するのは、結局のところ、まだ本当の意味で手に入れていないからなのだろうか)
真白は、他の女たちのように、勝手に彼の手の中に落ちてくることはない。それどころか、もぎ取ろうと手を伸ばしてもビクともしない果実だ。
手に入らないから、より一層欲しくなるのか。
手に入ってしまえば――手に入ったと実感してしまえば、これまでの女たちと同じようにさっさと別れたくなるのだろうか。
孝一は、この家の玄関から真白を放り出す場面を想像してみる。そして、何のためらいもなく去って行く彼女の背中を。
と、ブルリと彼の全身に震えが走った。
そんなことは想像すらしたくない。
「ああ、クソ」
孝一は小さく毒づく。
「どうやったらお前は俺のものになるんだ? 何をしたら俺を信じられる?」
問い掛けたところで、答えはない。
真白を抱え直しながら、孝一は暗闇の中で目蓋を閉じた。
彼の下で手足を投げ出すようにして目を閉じている真白にそう囁いても、返事はなかった。
暗い中でも、いつもは殆ど赤みのない頬が薄紅色に火照っていることがわかる。薄く開いた唇を奪ってしまいたくてたまらないが、そんなことをしたらせっかく落とした眠りの淵から彼女を引っ張り上げてしまうだろう。
孝一はゴロリと寝返り、真白の隣に横たわった。そうして、彼女を起こさないように慎重に引き寄せる。されるがままに腕の中にすっぽりとおさまった華奢な身体は、微熱があるかのように温かい。
ぐったりと力の抜けた真白の身体を、孝一は抱き締める。細いうなじとなだらかな腰のくぼみに手を置いて、彼女の全てが彼と触れ合うように、ピタリと寄り添わせた。
柔らかな彼女のその身体とは対称的に、孝一自身は硬く張り詰めている。欲求を満たすようにと痛みと共に脈打つ昂ぶりが主張してくるが、彼は目を閉じて堪えた。
はっきり言って、辛い。
真白が意識を飛ばしていようがどうしようが構わず奪ってしまえと執拗に要求してくる下半身を、理性と、そして彼女を慈しみたいという感情で押しとどめる。
暴走しそうな欲望から何とか気持ちを逸らそうと、孝一は思考を巡らせた。
(真白は、俺の気持ちを信じていないわけじゃない)
孝一が彼女のことを愛しているということは、理解している――多分。
愛。
ふと、孝一は胸の中でその言葉をつぶやいた。
(俺が真白に向けているのは、本当に『愛』と呼ばれるものなのか?)
真白には何度も「愛している」と言った。そうすれば、自分がどれほど彼女を放し難く思っているか、端的に伝えられると思っていたからだ。
しかし、繰り返しその言葉を口にしながらも、彼には、自分が愛というものを知っているという自信は全くない。
海外の映画などでは、登場人物はいとも簡単に「愛している」と言う。果たして彼らは本当にそれを確信して、そう口にするのだろうか。
『好き』というくらいなら、孝一にも判る。
真白が作る料理が『好き』だし、見上げてくるわずかに目尻が釣り上った大きな目も『好き』だし、彼が攻め立てた時に彼女が上げる甘い啼き声も『好き』だ。
真白の『パーツ』に対しては、一つ一つ『好き』だと言っていける。
だが、真白そのものに対して抱くのは、そんな単純な言葉では終わらせることができないものだった。
護りたくて、泣かせたくて、幸せにしたくて、独占したくて、彼女の思うようにさせてやりたくて、閉じ込めておきたくて、夜寝る時には抱き締めていたくて、朝起きた時には真っ先に顔を見たい。
こうやって真白を抱き締めていると、孝一の胸の中にはそんな支離滅裂で取り留めのない感情がいくつも入り混じった気持ちが込み上げてくるのだ。
こんな感情を、彼は今まで誰に対しても抱いたことがない。
これから先、真白以外の誰かに抱けるとも思えない。
一言で表せないほど複雑で、滅多に抱くことがない――こんな稀な気持ちは、『愛』と言っていいのではないだろうか。
だが、真白にとって、愛されているということはあまり大きな意味を持たないらしい。それどころか、要らないと言った。
普通は、「愛している」と言われれば、受け入れてもらえたのだ、ずっと一緒にいられる、と安堵する筈だ。
けれど、真白の中には依然として不安が満ち溢れている。
彼女は、愛されていれば傍にいてもらえる――それを、信じていない。
――愛していても、ずっと傍にいてくれるとは限らないでしょう?
その台詞を口にした時の真白の声が、眼差しが、孝一の中にまざまざとよみがえる。
あの時、自分がどんな色をその目に浮かべていたのか、真白は知っていたのだろうか。
(いいや、きっと気付いていない)
孝一は、真白を抱く腕に力を込める。
あの時、彼女の目の中にあったのは、怯えと諦めだ。手に入れようとしているものを失うことに対する怯えと、結局は手に入る筈がない、手に入ったとしてもすぐに失われるだろうという、諦め。
彼はそれを見ていたくなかった。
自分の腕の中にいる時に、そんな目をして欲しくなかった。
彼が触れている時には、寛いで、安心して、心地良くなって欲しかった。
耳に残る、真白の声。
――わたしを愛してくれる必要はないの。
そう言って、彼女はやんわりと孝一が差し出したものを拒んだのだ。
出会って間もない頃のように。
古巣に足を踏み入れたことで、真白自身も二月前の彼女に戻ってしまったようだった。
(いや、出会った時から何も変わっていないのかもしれない)
そっと真白の髪を頭から背中まで撫で下ろしながら、孝一は胸の中で呟く。
それを認めるのは、嫌だった。だが、きっとそれが真実だ。
変わったと思っていたのは孝一だけで、こんなに何度も身体をつなげても、結局、真白は何も変わらない。
真白は、けっして声に出して孝一を求めようとは、しない――欲しくないわけではない筈だというのに。
きっと、相原好子の言うとおりなのだ。
真白は、助けも求めず箱の中でひっそりと死んでいく、捨て猫。
幼い頃から彼女を見続けてきた相原の読みは正しかった。
拒まれているということを受け入れたくなくて、孝一は真白を滅茶苦茶に扱ってしまった。何度もイかせて、快楽に我を忘れさせて、あわよくば彼を求めさせたかった。
孝一は自嘲の笑みで唇を歪める。微かな後悔が苦みとなって全身に沁み渡った。
全然、うまくいかない。
少し頭を下げて、顎の辺りにある真白の頭の天辺にそっとキスを落とす。そうして、甘い香りを吸い込んだ。
真白の身体は、奪った。
だが、足りない。
孝一は彼女の心も欲しいのだ。自分の腕に、身も心も委ねて欲しい。あんなふうに強引に意識を失わせて抱き締めるのではなく、安心しきった真白に、彼女の方からすり寄ってきて欲しかった。
(俺がこんなにもこいつに執着するのは、結局のところ、まだ本当の意味で手に入れていないからなのだろうか)
真白は、他の女たちのように、勝手に彼の手の中に落ちてくることはない。それどころか、もぎ取ろうと手を伸ばしてもビクともしない果実だ。
手に入らないから、より一層欲しくなるのか。
手に入ってしまえば――手に入ったと実感してしまえば、これまでの女たちと同じようにさっさと別れたくなるのだろうか。
孝一は、この家の玄関から真白を放り出す場面を想像してみる。そして、何のためらいもなく去って行く彼女の背中を。
と、ブルリと彼の全身に震えが走った。
そんなことは想像すらしたくない。
「ああ、クソ」
孝一は小さく毒づく。
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