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愛猫日記
彼女のおねだりと彼のモヤモヤ①
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夕食が終わった寛ぎの時間、胸元から聞こえてきた真白の台詞に、孝一はテレビから彼女へと視線を移した。
食事時を除けば、ソファの上での真白の定位置は孝一の腕の中だ。彼にとって、彼女はまるでライナスの毛布のように手放し難い。
いつもであれば真白の背中は孝一の胸にピタリと寄り添い、柔らかな温もりとわずかな重みがそこに加わっているところなのだが。
「バイトを、したいの」
微かな身じろぎを感じて孝一が真白の腹に回していた腕の力を緩めると、彼女は身体を捻って彼を見上げてくる。そうして、もう一度、先ほどと同じ台詞を口にした。
「バイト……?」
「そう」
首をかしげた孝一に、真白はコクリと頷く。
真白には、食費やらの生活費込みで毎週金を渡していた。好きなものも買っていいと言ってあるのに、必要最低限の物にしか使わない。余れば自分のものにしても構わないと言ってあっても、彼女は律儀に返してくる。
物欲がないというか、何というか。
孝一としてはたまには何かをねだってくれるくらいの方が嬉しいのだが、真白の口から『お願い』が出てくることは滅多にない。
(やっと何か欲しい物ができたのか)
多分、この時の彼の気持ちは、やたらと孫におもちゃを買ってしまう祖父のものに近かったに違いない。
「何か欲しいものでもあるのか? なら、次の日曜にでも――」
――買いに行こう。
喜び勇んでそう言おうとした彼の台詞は、途中で遮られる。
「違うの、わたしも働きたいの」
「……は?」
孝一は、目いっぱい怪訝そうな声を出してしまう。
そんな彼の腕の中からするりと抜け出して、真白は彼の前に膝立ちになった。そうして孝一の膝頭に両手を突いて、見上げてくる。
「あのね、わたし、今はずっと家の中にいるでしょ? これでいいのかなって、思って」
「別に構わないだろう」
家の中に居て、仕事から帰ってきた孝一を毎晩迎えてくれる。
それのどこが悪いのか。
少なくとも、彼は今の生活に満足している。真白も別に働く必要はないのだから、好きなことをしたらいい。
眉をひそめた孝一に、しかし真白はもどかしそうにかぶりを振った。
「ここに閉じ籠っているのは心地良いけど、それだけじゃダメな気がするの。何だろう……わたしも何かしなくちゃ――したいと思うの」
大きな目が、真っ直ぐに孝一を見つめてくる。必死な口調で説いてくるその唇を見ているとキスをしたくてたまらなくなると言ったら、多分彼女を怒らせるだろう。
孝一は、小さなため息を漏らす。
「何で急にそんなことを思い付いたんだ?」
「急じゃなくて、少し前から思っていたの。ほら、孝一が、わたしの人生はまだまだ続くって、言ってくれたでしょう? わたし、そんなふうに思ったことがなかったから……今まで全然、何も考えてなかった。毎日、ただ『今日』を過ごすだけで、『明日』は夜寝て起きたら勝手に来るもので……どう言ったら良いかよくわからないのだけど、今までは何も考える必要がなかったし、考えようとも思わなかったの。でも、お部屋のお掃除も終わって、夕飯の準備も終わって、ボウッと窓の外を眺めていたら、急にこれでいいのかなって思って。今はまだ学校にも行ってるけど、もう少ししたら卒業式だし……」
ポツポツと語るその声は、自信がなさげだ。
(俺の言葉がきっかけなのか)
真白が口にした台詞を孝一が口にしたのは、二週間ほど前のことだ。その二週間の間考えていたなら、単なる思い付きではないのだろう。
真白が外の世界に目を向ける。
それは、いいことだ。
いいことだとは思うのだが、何となく――何だろう、すっきりしない。
「コウ?」
黙り込んだ孝一の顔を、首をかしげて真白が覗き込んでくる。その栗色の目には彼しか映っていなくて、強い衝動に駆られた孝一は彼女の頬に手を伸ばして包み込み、身を屈めて小さな唇にキスをした。
唐突な孝一の行動に真白は一瞬驚いたようだが、すぐにその唇を開く。
そっと彼女の中に舌を忍ばせて、ゆっくりと、隅々まで探る。
じきに真白の身体から力が抜けて、腰に腕を回して引き寄せるとピタリと彼の胸の中に納まった。その背中をしっかりと抱き締める。
今の真白は、孝一の――孝一だけのものだ。
真白の『特別な人』として彼女の目の中に映るのは、孝一だけだった。
だが。
(外に出せば、他のヤツも見るようになる)
以前の真白であれば、たとえどんな人混みの中にいても、他人の存在などないも同然だった。
しかし、今の真白は違う。きっと、バイト先の同僚とも関わりを持とうとするだろうし、もしかすると客ともそうするかもしれない。
(俺は、それが嫌なのか?)
そう気付いて、愕然とする。自分がそんなに狭量な人間だとは思っていなかった。
「んッ」
思わず孝一の腕に力が入ってしまい、真白が小さな呻き声を漏らした。
「悪い」
囁くように謝罪の言葉を口にして、孝一は彼女を解放する。
真白は孝一の胸に手をついて身体を離すと、まじまじと彼を見つめてきた。
出会った頃よりも、格段に感情を表すようになった、その眼差し。今、そこには案じる色を浮かべている。
何を心配しているのだろう。駄目だと言われることだろうか。
「シロ……」
構わない、好きなようにしたらいい、と言ってやるべきなのは、彼にも判っていた。
だが、口が動かない。
「その――」
何とか言葉を捻り出そうと舌で唇を湿らせた時だった。
「わたし、ここは出て行かないよ?」
「え?」
どんな脈絡で出てきたのかよくわからない真白の台詞に、孝一は思わず眉をひそめてしまう。そんな彼を真っ直ぐに見つめて彼女は続けた。
「ここを出て行きたいから、その準備でバイトするわけじゃないよ? ただ、もっと『普通』になりたいと思ったの。普通は、大人になったら誰かに世話をしてもらうんじゃなくて、自分で自分の面倒みたり、他の誰かの世話をしたりするでしょう? 今のわたしはコウに守られてるだけだから、そんな自分は――ちょっとイヤなの」
言葉もなく真白を見返すばかりの孝一に彼女は少し微笑んで、そして身体を伸ばしてそっと唇を触れ合わせた。まるで、彼が幼い子どもででもあるかのように、それは柔らかな慈しみに満ちたキスだった。
「ごめんね、わたしがいつまでもふわふわしてるから、急にこんなことを言い出したら心配になるよね?」
「いや……」
孝一は言葉を濁す。
どうやら真白は、孝一がすぐに応と言わないのは、彼女がここを出て行くことを心配したからだと考えたらしい。
だが、彼がすぐに許諾の言葉を口にしなかったのは、もっと利己的なわがままのせいだったのに。
なおも何も言えずに孝一の前で、真白の笑みが微かに陰る。
「バイトぐらい、高校生だったらみんなしてるんだから、別に、全然たいしたことじゃないんだけど……」
彼女の自信と比例するかのように、その声も小さくなっていく。
孝一は俯きがちになった真白の顔を包み込み、再び上げさせる。
「いいんだ。お前がそうしたいというなら、したらいい。小さくても、一歩踏み出したことには違いない。そこから、お前の世界を広げていったらいいんだ」
――たとえ、そうすることで今の二人きりで充足した世界が壊れてしまうとしても。
惜しいが、それは真白の為には必要な事なのだ。
「どんどん、お前の方から手を伸ばしたらいい。世界は、お前を拒むものよりも受け入れるものの方が遥かに多いよ。俺が保証する」
孝一の断言に真白は一瞬目を見開いて、そしてふわりと微笑んだ。
「うん……」
真白の眼差しに溢れるのは、孝一に対する全面的な信頼だ。
「コウ、大好き」
真っ直ぐな、言葉。
全てを委ねてくるようなその笑顔に、孝一の全身には彼女への愛おしさが溢れてくる。
(ああ、まったく。一生閉じ込めておけるなら、是非ともそうしたいところだがな)
胸の中で呻きながら、孝一は真白のウェストを掴んで引き上げた。
食事時を除けば、ソファの上での真白の定位置は孝一の腕の中だ。彼にとって、彼女はまるでライナスの毛布のように手放し難い。
いつもであれば真白の背中は孝一の胸にピタリと寄り添い、柔らかな温もりとわずかな重みがそこに加わっているところなのだが。
「バイトを、したいの」
微かな身じろぎを感じて孝一が真白の腹に回していた腕の力を緩めると、彼女は身体を捻って彼を見上げてくる。そうして、もう一度、先ほどと同じ台詞を口にした。
「バイト……?」
「そう」
首をかしげた孝一に、真白はコクリと頷く。
真白には、食費やらの生活費込みで毎週金を渡していた。好きなものも買っていいと言ってあるのに、必要最低限の物にしか使わない。余れば自分のものにしても構わないと言ってあっても、彼女は律儀に返してくる。
物欲がないというか、何というか。
孝一としてはたまには何かをねだってくれるくらいの方が嬉しいのだが、真白の口から『お願い』が出てくることは滅多にない。
(やっと何か欲しい物ができたのか)
多分、この時の彼の気持ちは、やたらと孫におもちゃを買ってしまう祖父のものに近かったに違いない。
「何か欲しいものでもあるのか? なら、次の日曜にでも――」
――買いに行こう。
喜び勇んでそう言おうとした彼の台詞は、途中で遮られる。
「違うの、わたしも働きたいの」
「……は?」
孝一は、目いっぱい怪訝そうな声を出してしまう。
そんな彼の腕の中からするりと抜け出して、真白は彼の前に膝立ちになった。そうして孝一の膝頭に両手を突いて、見上げてくる。
「あのね、わたし、今はずっと家の中にいるでしょ? これでいいのかなって、思って」
「別に構わないだろう」
家の中に居て、仕事から帰ってきた孝一を毎晩迎えてくれる。
それのどこが悪いのか。
少なくとも、彼は今の生活に満足している。真白も別に働く必要はないのだから、好きなことをしたらいい。
眉をひそめた孝一に、しかし真白はもどかしそうにかぶりを振った。
「ここに閉じ籠っているのは心地良いけど、それだけじゃダメな気がするの。何だろう……わたしも何かしなくちゃ――したいと思うの」
大きな目が、真っ直ぐに孝一を見つめてくる。必死な口調で説いてくるその唇を見ているとキスをしたくてたまらなくなると言ったら、多分彼女を怒らせるだろう。
孝一は、小さなため息を漏らす。
「何で急にそんなことを思い付いたんだ?」
「急じゃなくて、少し前から思っていたの。ほら、孝一が、わたしの人生はまだまだ続くって、言ってくれたでしょう? わたし、そんなふうに思ったことがなかったから……今まで全然、何も考えてなかった。毎日、ただ『今日』を過ごすだけで、『明日』は夜寝て起きたら勝手に来るもので……どう言ったら良いかよくわからないのだけど、今までは何も考える必要がなかったし、考えようとも思わなかったの。でも、お部屋のお掃除も終わって、夕飯の準備も終わって、ボウッと窓の外を眺めていたら、急にこれでいいのかなって思って。今はまだ学校にも行ってるけど、もう少ししたら卒業式だし……」
ポツポツと語るその声は、自信がなさげだ。
(俺の言葉がきっかけなのか)
真白が口にした台詞を孝一が口にしたのは、二週間ほど前のことだ。その二週間の間考えていたなら、単なる思い付きではないのだろう。
真白が外の世界に目を向ける。
それは、いいことだ。
いいことだとは思うのだが、何となく――何だろう、すっきりしない。
「コウ?」
黙り込んだ孝一の顔を、首をかしげて真白が覗き込んでくる。その栗色の目には彼しか映っていなくて、強い衝動に駆られた孝一は彼女の頬に手を伸ばして包み込み、身を屈めて小さな唇にキスをした。
唐突な孝一の行動に真白は一瞬驚いたようだが、すぐにその唇を開く。
そっと彼女の中に舌を忍ばせて、ゆっくりと、隅々まで探る。
じきに真白の身体から力が抜けて、腰に腕を回して引き寄せるとピタリと彼の胸の中に納まった。その背中をしっかりと抱き締める。
今の真白は、孝一の――孝一だけのものだ。
真白の『特別な人』として彼女の目の中に映るのは、孝一だけだった。
だが。
(外に出せば、他のヤツも見るようになる)
以前の真白であれば、たとえどんな人混みの中にいても、他人の存在などないも同然だった。
しかし、今の真白は違う。きっと、バイト先の同僚とも関わりを持とうとするだろうし、もしかすると客ともそうするかもしれない。
(俺は、それが嫌なのか?)
そう気付いて、愕然とする。自分がそんなに狭量な人間だとは思っていなかった。
「んッ」
思わず孝一の腕に力が入ってしまい、真白が小さな呻き声を漏らした。
「悪い」
囁くように謝罪の言葉を口にして、孝一は彼女を解放する。
真白は孝一の胸に手をついて身体を離すと、まじまじと彼を見つめてきた。
出会った頃よりも、格段に感情を表すようになった、その眼差し。今、そこには案じる色を浮かべている。
何を心配しているのだろう。駄目だと言われることだろうか。
「シロ……」
構わない、好きなようにしたらいい、と言ってやるべきなのは、彼にも判っていた。
だが、口が動かない。
「その――」
何とか言葉を捻り出そうと舌で唇を湿らせた時だった。
「わたし、ここは出て行かないよ?」
「え?」
どんな脈絡で出てきたのかよくわからない真白の台詞に、孝一は思わず眉をひそめてしまう。そんな彼を真っ直ぐに見つめて彼女は続けた。
「ここを出て行きたいから、その準備でバイトするわけじゃないよ? ただ、もっと『普通』になりたいと思ったの。普通は、大人になったら誰かに世話をしてもらうんじゃなくて、自分で自分の面倒みたり、他の誰かの世話をしたりするでしょう? 今のわたしはコウに守られてるだけだから、そんな自分は――ちょっとイヤなの」
言葉もなく真白を見返すばかりの孝一に彼女は少し微笑んで、そして身体を伸ばしてそっと唇を触れ合わせた。まるで、彼が幼い子どもででもあるかのように、それは柔らかな慈しみに満ちたキスだった。
「ごめんね、わたしがいつまでもふわふわしてるから、急にこんなことを言い出したら心配になるよね?」
「いや……」
孝一は言葉を濁す。
どうやら真白は、孝一がすぐに応と言わないのは、彼女がここを出て行くことを心配したからだと考えたらしい。
だが、彼がすぐに許諾の言葉を口にしなかったのは、もっと利己的なわがままのせいだったのに。
なおも何も言えずに孝一の前で、真白の笑みが微かに陰る。
「バイトぐらい、高校生だったらみんなしてるんだから、別に、全然たいしたことじゃないんだけど……」
彼女の自信と比例するかのように、その声も小さくなっていく。
孝一は俯きがちになった真白の顔を包み込み、再び上げさせる。
「いいんだ。お前がそうしたいというなら、したらいい。小さくても、一歩踏み出したことには違いない。そこから、お前の世界を広げていったらいいんだ」
――たとえ、そうすることで今の二人きりで充足した世界が壊れてしまうとしても。
惜しいが、それは真白の為には必要な事なのだ。
「どんどん、お前の方から手を伸ばしたらいい。世界は、お前を拒むものよりも受け入れるものの方が遥かに多いよ。俺が保証する」
孝一の断言に真白は一瞬目を見開いて、そしてふわりと微笑んだ。
「うん……」
真白の眼差しに溢れるのは、孝一に対する全面的な信頼だ。
「コウ、大好き」
真っ直ぐな、言葉。
全てを委ねてくるようなその笑顔に、孝一の全身には彼女への愛おしさが溢れてくる。
(ああ、まったく。一生閉じ込めておけるなら、是非ともそうしたいところだがな)
胸の中で呻きながら、孝一は真白のウェストを掴んで引き上げた。
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