捨て猫を拾った日

トウリン

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愛猫日記

彼と彼女と彼③

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「だいぶ慣れてきたみたいだね」
 注文を取って厨房に戻ってきた真白ましろに、そう声がかけられた。振り向いた先にいるのは、五十嵐大いがらし だいだ。
 高校時代はサッカー部で女子にも結構人気があったらしい彼は、多分、整った顔立ちをしている。背も、孝一ほどではないけれど、結構高い。少なくとも真白よりも頭半分以上は大きい。

「あ、うん。ハンディの操作も、ちょっとは速くできるようになったかも」
 真白が手にした注文端末に目をやりながら頷くと、五十嵐は明るい笑顔を返してきた。
「わからないことがあったら、何でも訊いてくれたらいいから」
「ずいぶん教えてもらったから、今の所だいじょうぶ」

 相変わらず親切な人だなぁと真白は思う。
 教室でアルバイトの求人雑誌を開いていた彼女に、このファミレスでのバイトを紹介してくれたのは、彼だ。彼女は気付いていなかったけれど、三年生だけでなく、一年生の時も同じクラスだったらしい。
 彼が真白にここを教えてくれたのは、きっとそのよしみだろう。
 二年も同じ教室で過ごしたのに全然覚えていないのが申し訳ない思いになったけれど、彼の名前も知らなかった真白に、五十嵐は少し苦笑しただけだった。
 いっしょに働き出してからも、こうやって、仕事の合間にも何かと声をかけてくれる。

(わたしに気を遣ってくれてるんだろうな)
 いわゆる、社交辞令、というものか。
 別にそんな必要ないのに、とは思うけれども、きっとそうやって『意味のない事』を繰り返しつなげていくことで、人は他人との関係を築いていくのだろう。
「水、配ってくるね」
 勤務時間にずっと雑談を交わしているわけにはいかない。そう言ってピッチャーを手にホールへ戻ろうとした真白を、五十嵐の声が引き止めた。

「あ、ちょっと待って」
「何?」
 振り返った真白に、五十嵐がちょっと気まずげな顔になる。
「えっと、さ……」
 彼は言い淀み、言葉を探すように少し視線をさまよわせた。そうして、思い切ったように口を開く。
「篠原のことなんだけど」
「篠原さん?」

 篠原千沙しのはら ちさ
 五十嵐が出した名前は、彼と同じように三年生の時に同じクラスだった女子のものだ。そして今は、このファミレスで一緒に働いている。とは言っても、カリキュラムがみっちり詰まった短大に通っている篠原は、基本的に夕方から働いていて、滅多に真白と同じシフトに入ることはない。たまに篠原が勤務時間を長くして昼間から来ている時にだけ、一緒になった。
 彼女は不慣れな真白にイライラするらしく、シフトが重なった時は殆どひっきりなしに真白にダメ出しをしてくる。

「篠原さんがどうしたの?」
「なんかさ、大月さんに色々言ってくるだろう?」
 彼女には、確かによく叱られている。けれどまだまだ仕事ができない真白だから、それは仕方がないことなのだと思う。だから、そのままそう言った。
「そうだね。でも、わたしができてないから……」
 が、真白のその返事に、五十嵐は首を振る。
「いや、大月さんは良くやってるよ。まだ経験浅いのに、覚えが早い。……ここだけじゃなくてさ、高校の時から、何かと絡まれてなかったか?」
 高校の時? と、彼に言われて記憶を手繰ってみる。
『絡む』という言葉には、何となくあまり良くない響きを感じる。

(『絡まれた』? どうだろう?)
 そう言えば、真白に彼女の生い立ちのことを――コインロッカーに捨てられていたのだということを教えてくれたのも、篠原だった。
 他の生徒にとっては、真白は空気のような存在だったのではないだろうか。いてもいなくても構わない、というか、いてもいなくても気付かない、というか。連絡事項以外のことで口をきいてきた生徒は彼女と五十嵐くらいで、他にはいない気がする。
 他の人から話しかけられた経験が乏しかったから、篠原のその行動に悪意があったのかどうなのか、よく判らない。彼女の行動の裏にある気持ちを、読み取ることができていなかった。
 悪意があってのことだとしたら、真白が気付かないうちに、篠原に何か嫌な思いをさせていたのかもしれない。
 ただ、自分が彼女に何をしたのかは、全くわからなかった。

(わたしが、全然みんなと関わろうとしていなかったから……)
 過去を振り返っていた真白は、五十嵐への返事が遅れた。
 黙っている彼女に、彼は少し目を逸らして続ける。この上なく、不可解な台詞を。
「あのさ、それ、多分オレのせいなんだよな」
「五十嵐君の? ……なんで?」
 真白は眉をひそめて首をかしげる。篠原のすることが何故五十嵐のせいになるのか、真白の中ではさっぱりつながらない。
「あ……その、彼女、オレに告ってきたことがあって……」
「……?」
 多分、真白の顔中には隙間なく疑問符が浮いていたに違いない。
 五十嵐は殆ど髪を掻き毟るようにして頭を掻くと、言う。
「だからさ、篠原は、オレに気があるの。だから、大月に八つ当たりしたんだよ」
 これで解かるだろ? と言わんばかりに告げられても、真白にはやっぱり解からない。

「わたし、関係ないよ?」
 思わずそう返してしまったけれど、あまり良くない返事だったらしい。五十嵐がガクリと肩を落とした。
「いや、うん、そうなんだけどさ……」
「えっと、ごめんね?」
 何がいけないのかは判らないままに、少なくとも彼を落胆させてしまったのだけははっきりしていたから、真白はそう謝罪の言葉を口にした。
「別に、大月が謝ることじゃないんだよ」
 はは……と五十嵐が乾いた笑みを浮かべる。
「ほら、もうホール行きなよ」
 彼のその台詞を後押しするように折よくチャイムが鳴り響き、客が入ってきた。五十嵐の奇妙な言動に後ろ髪を引かれながらも、真白は踵を返す。

 ホールに向かいながら、彼女は今の会話のどこがいけなかったのだろうと思い返してみた。けれど、篠原が真白に関わってくるのがどうして五十嵐のせいになるのか、やっぱり解からなかった。
 きっと、真白の対人スキルの低さのせいなのだろう。
(そう言えば、コウもあの時イライラしてたな……)
 思い出して、真白は唇を噛む。
 何日か前のことになるけれど、孝一が突然五十嵐のことを訊いてきたことがあった。
 バイトのことを教えてくれて、一緒に働いてもいるのだ、と伝えると、何故か不機嫌になった。
 あの時も、何故急に孝一が機嫌を損ねたのかが、真白には全然解からなかったのだ。
 夕になって帰宅した時には、もうすっかりいつも通りの彼に戻っていたけれど、孝一の笑顔を目にするまで、ずっと真白はやきもきしていた。

 うまい応答ができるようになるのは、難しいかもしれない。
 けれど、せめて、自分の何が相手を不快にしてしまうのかを、解かりたかった。

 客を席に案内し、鏡の前で何度も練習を重ねた笑顔を浮かべて注文を取る。
 こうやって、マニュアル通りに動くことは簡単だ。
 けれど、全てのことにマニュアルがあるわけではない。
 その最たるものが、人との遣り取りではなかろうか。
 人と関わり合いを持ちながら生きていくのは、厄介なことばかりだ。理解不能で予測不能なことに溢れている。

(でも、また昔のようになろうとは、思わない――なりたくない)
 クモの糸のように細いつながりだけれども、今の真白は他人との間に関係を作りつつある。それを断ち切って、また透明な存在に戻るようなことはしたくない。
 困って悩んで迷っても、そうやって何かを感じることで、自分が社会という大きな機械の歯車の一つになれている気がした。無くてもその機械が止まってしまうような事はないけれど、でも、今の真白はコロンと転がっているだけの小石じゃない。
(もっと勉強、しないとね)
 自分に言い聞かせるように胸の中で呟いて、真白はペコリと客に頭を下げて席を後にする。

「オーダー入りました」
 厨房に戻ってそう声をかけると、そこかしこから応える声が上がる。
(料理ができたら持っていって、空いたお皿は下げて……)
 頭の中でこれからの手順を反芻する。
 と、その時、店長の岸本きしもとが彼女の方にやってきた。
「あ、大月さん、ちょっといい?」
「何ですか?」
「あのさぁ、来週の金曜日、ちょっと勤務を三時間ばかりずらしてもらえないかな」
「どんなふうに、でしょう?」
「や、夜遅くにはならないよ。昼の十二時から夕の六時まで。遅くなれないのはわかってるんだけど、どうかな?」
 真白は彼の言葉を口を噤んで考える。
 六時ということは、家に着くのは六時半ごろになる。その時間なら、孝一はまだ帰ってきてはいない筈だ。夕食の準備を午前中にしておけば、食事が遅くなることもない。
 何も言わなくても、孝一は気付かないだろう。

 だけど。

(黙ってたら、ダメだよね?)
 孝一は、何というか、とても心配性だ。真白を部屋から出すのも嫌なのではないかと感じることもある。たいていのことにはドンと構えて動じないのに、真白のことではちょっとしたことでもピリピリしたりする。
(何でかなぁ)
 真白はこっそりとため息を漏らした。と、岸本がそれを聞き付けて眉根を寄せる。
「駄目かな?」
「あ、いえ……」
 店長の困り顔に、真白は一瞬オーケーを出しそうになる。が、そこで孝一との約束が頭の中をよぎった。
 彼とはバイトを始めた時に交わした約束がある。もっとも、約束というには一方的な、彼が突き付けた条件と呼んだ方が良いかもしれないが。
 それを勝手に破って、もしも何かの拍子で知られてしまったら、きっとものすごく怒られる。

「お返事、明日でもいいですか?」
「ああ、いいよいいよ、お家の人と相談しないとだよね」
 お家の人、という店長の言い方が、何となくくすぐったい。孝一と家族になったみたいだ。
 真白の顔には、自分では気づかないうちに自然な笑みを浮かんでいた。彼女はコクリと頷く。
「はい、じゃあ、明日にははっきりさせます」
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