捨て猫を拾った日

トウリン

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捨て猫が安らぐ日

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 孝一は、製薬会社の研究員をしている父、専業主婦の母、そして都内の病院で内科医をしている姉の四人家族だ。

 父親の幸利ゆきとしは理系人間そのもので、研究にのめりこむと平気で一ヶ月以上家に帰ってこないようなこともしょっちゅうだった。対して母の美鈴みすずは父の淡白さを補うような女性で、感情愛情豊か――というよりもやや過剰なほどに、子どもや夫に接してくる。
 姉の倫子みちこと孝一は二人を足して二で割ったような性格、と言いたいところだが、どちらかというとどちらも父親寄りかもしれない。

 絵に描いたような、平凡だが幸せな家族。
 それが、佐々木家だ。

 孝一が真白と家庭を築くことを切望するのは、何だかんだ言ってそんな平凡でも幸せな家族の中で育ってきたからなのかもしれない。
 叶うことなら早くその中に真白を組み込んでしまいたいところなのだが、果たして、それはいつのことになるのやら。かれこれ半年以上前から手元にある婚姻届けは未だに真白の名前を書き入れる欄だけ白いままベッドサイドの引き出しにしまってある。
 焦らせたくないからあれきり返事を迫ることはしていないが、何度ペンと一緒に真白の目の前に突き付けてやりたくなったことか。特に最近は妙に気が焦り、それもあって彼女をここに連れてきたという面も無きにしも非ずだ。

 今でも結婚しているも同然の生活だし、孝一に対する真白の気持ちは充分に解かっているから、以前のようにある日突然彼女がふいといなくなってしまうかもしれないという恐れを抱いたりもしていない。
 だが、真白とは、ありとあらゆる絆を結んでおきたいのだ。
 心と身体はもうしっかりと彼女とつながれているという自信がある。
 しかし、まだ、今のままでは完ぺきではない。
 社会的に見れば、孝一と真白は『他人』だ。孝一は真白に対して何の権利も持っていない。
 同棲など珍しくもない風潮だが、いつまでも続けていれば、いずれは後ろ指をさされるようになってしまう。孝一自身はどう思われようと構わないが、真白が非難されるのは嫌だった。

 夫婦になって、二人の間に子どもを持って――まあ、そこら辺は多少順番が違っても構わないが――家族になる。

 真白と出逢うまでは孝一の中に結婚願望など微塵もなかったのに、今ではかなり具体的なところまで考えてしまう。
(子どもは二人……できたら男と女で欲しいよなぁ)
 女の子は、もちろん真白似で。
 真白と良く似た女の子なら、三人くらいいてもいいかもしれない。

 いや、待てよ。

 それだと、彼女たちが成長した暁には地獄の苦しみを味わうことになるに違いない。
 よその男に掻っ攫われるのも、一度だけなら耐えられるかもしれないが、二度、三度は無理だ。
 だが、しかし……

 ――等々。

 ふと気付けば、孝一の中で妄想が膨らんでいることがしばしばある。
 普通、そんな夢を描くのは男女が逆なような気もするが、真白は未だにどこか刹那的な部分があった。彼といてその日その日は幸せそうに過ごしているが、一週間後――下手をしたら明日のことも、頭の中に無いように思えてしまうことがある。
 そんな真白の地に足が着いていないような雰囲気は、家庭という強固な土台ができれば落ち着くのだろうか。
 彼女が落ち着くのを待ってやるべきなのか、それとも先に落ち着ける場所を作ってやるべきなのか。

(どうなんだろうな)
 呟いて、孝一は、テーブルの向こうに並ぶ真白と母親を見やった。

 美鈴は、彼の中で地に足がついている女性の代表格……というよりも、彼女自身が決して揺るがない土台のような存在だ。
 もちろん、金銭的な大黒柱は父の幸利だが、佐々木家における精神的な支柱は美鈴だ。人を寛がせ、安らがせるのにかけては天才的だと、孝一は思う。
 現に、真白は美鈴の隣で完全にリラックスしているように見える。初対面にもかかわらず、だ。

 今日、真白も一緒に連れて帰ることは、予め伝えてあった――彼女が孝一にとって特別な存在だということも、併せて。
 それもあってか、借りてきた猫のように肩を強張らせていた真白を前にして、最初に玄関で彼女を出迎えた美鈴の歓迎っぷりは、激しかった。

 人付き合いが苦手な父は堅苦しい態度を崩せないまま食事が終わると早々に書斎に行ってしまったが、愛嬌の塊のような美鈴はすぐに真白を寛がせ、ものの三十分も過ぎた頃には控えめな笑顔すら引き出していた。
 今も佐々木家のアルバムのページを美鈴と二人でめくりながら、真白はやけに楽しそうにしている。短いながらも鈴を転がすような小さな笑い声が聴こえて、孝一はムッと眉間にしわを寄せた。

(俺にはなかなか笑ってみせなかったくせによ)
 ようやく笑顔は惜しみなく見せてくれるようになったが、笑い声はまだ数えるほどしか聴いたことがない。

 真白が母に懐いてくれたことは嬉しいし、こうなることを望んではいたが、彼が何日もかけて成し遂げたことを半日もかけずにいとも簡単に達成してしまったことは、少し――いや、だいぶ、面白くない。
 ソファの上でふんぞり返ってムッツリ真白たちを眺めていた孝一の頭に、こつんと何かがぶつかった。
 首を捻って背後を見上げると、そこにいたのは倫子だ。

「何むくれてんのよ」
 三つほど年上の姉は手にしていたビールを孝一に差し出しながら、もう一方の手にある缶をグイと呷る。
「うるさいな」
 ぼそりと答えながらビールを受け取り、プルタブを引いた。ぐびぐびと喉を鳴らして中身を飲み干す孝一を、倫子は愉しそうに見下ろしてくる。
「ふぅん、あんたが女の子のことでそんな顔するなんてねぇ」
 そうじゃない、と言えないところが、イタイ。
 孝一は黙って空になった缶をテーブルに置く。

 敢えて無視しているにも拘らず、倫子は彼の隣にどさりと腰を下ろしてきた。
「まったく、自分の母親にまで妬くなんて、どんだけ心が狭いのよ」
「ほっとけ」
「あら、図星? 素直じゃない。そうやって反応返してくるのも新鮮だわ」
 クックと笑う倫子は、向かいで仲睦まじく頭を並べている母と真白を見ながら続ける。
「しっかし、あんたって昔から女の子入れ食い状態だったじゃない? すっかり鼻持ちならない男になっちゃったと思ってたけど、いざ連れてきたのがこんな子だなんて、ねぇ」
「なんだよ、気に入らないのか?」
「まさか、大歓迎よ。まあ、真白ちゃんの方にはホントにアンタでいいのって訊きたいけどね」
 相変わらず、この姉は痛いところを突いてくる。

 倫子は唇を引き結んだままの孝一と並んで向かいの二人を眺めやった。
「母さんだって、あんたからの電話受けた時からすんごい浮かれてたわよ。あんたってば、こっそり部屋に連れ込んだ子は腐るほどいたけど、ちゃんと母さんたちに紹介するのって初めてでしょ? その上、現れたのがあんな可愛い子だし。ほら、母さん、娘には可愛い服着せて編み物とか一緒にやって……とか、夢見てたじゃない。でも残念ながら、私は勘弁としか言いようがなかったからさ。ここへきて望みが叶ったって感じ?」

 確かに言われてみれば、美鈴からは単に『息子が連れてきた女性』に対する以上の熱意を感じる。隣の姉より、『母と娘』に見えるくらいだ。
 そう思うと嫉妬も和らいで、微笑ましささえ覚える。

(考えてみたら、シロは『家族』ってものを知らないのか)

 養護施設で『良い子』であった真白は、『子ども』であった時すらないのかもしれない。
 もっと、甘えたりとか、わがままを言ったりとか。
 どちらも、思う存分孝一に対してしてくれたらいいのだが、親にするのと恋人にするのとでは大きな差がある。
 孝一は真白の親代わりになど絶対になりたくないが、美鈴なら、きっといい母親役になる。孝一と倫子は持て余し気味だった美鈴の愛情を、真白ならスポンジのように受け入れるだろう。
 現に、美鈴を見る真白の眼差しも、孝一に向けるものとはまた別の憧憬に満ちている。
 殆ど孝一に目もくれないというのは少々気に入らないが、美鈴に何か話しかけられるたびに頬を上気させている様は、やっぱり可愛らしい。普段は十八歳という年齢よりも大人びている彼女が、母親と接しているとグンと幼く見えた。

(もっとここへ連れてきてやろう)
 もしかしたら、孝一の妻になるということよりも、美鈴の義娘になれるという事の方が、真白の気をそそるかもしれない。
 ついそんなふうに思ってしまって、孝一は苦笑する。

(俺も焼きが回ったよな)
 彼がこっそりぼやいた時、美鈴と何やらクスクス笑い合っていた真白がふと顔を上げた。目が合って、彼女がにこりと笑う。
 ついついヘラリと笑い返してしまった孝一の隣から、「うぅわ」という小さな声が聞こえた。横に目をやれば、まるで珍獣でも発見したかのような倫子の目がある。

「……何だよ」
「いやぁ、変われば変わるもんだねぇ」
 しみじみと、という口調が鼻につく。
「うるさい」
 孝一がじろりと睨み付けると、倫子は口元に小さな笑みを刻んだ。
「母さんは一目瞭然だけど、父さんも、あれで結構真白ちゃんのこと気に入ったみたいだし……あんたもマジなんでしょ? 予定、早めに教えてよ? 休み取らないとだからさ。今回みたいに急に言われると困るのよね」

「……ああ」

 頷きつつも、孝一は、もう少しだけ真白に時間をやるのもありかもしれないと思い始めていた。
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