捨て猫を拾った日

トウリン

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捨て猫が安らぐ日

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「またそれだけか?」

 グラス一杯のオレンジジュースだけを手にして朝食の席に着いた真白に、孝一が眉をひそめてそう問いかけてきた。
 彼の前には、真白が作ったトースト、ベーコンエッグ、サラダ、フルーツが並べてある。パンはもちろん自家製だ。より健康的にと思って、最近は全粒粉のものを作るようになっている。
 孝一の為に料理をするのは真白にとっても楽しみなのだけれども、彼は何を作っても「美味しい」としか言ってくれないので、少し、張り合いがない。

(今日のベーコンエッグは隠し味にハーブを足してみたのだけれど……)
 味はどうだろうか、次はまた別のものを使ってみようかと考えを巡らせる真白に、咎めるような声が水を差す。

「シロ?」
 真白は中身が半分ほどになった孝一のカップにコーヒーを注ぎ足しながら答える。
「今はお腹空いてないから後で食べるよ」
 途端、彼の手がピタリと止まった。
「……昨日もそう言ってたぞ。本当にちゃんと食べたんだろうな?」
「うん」
 シリアルを少しだけだったけれど、食べたことは食べたので嘘にはならない。
 けれど孝一は、そうやって頷いた真白に注ぐ目を胡乱げに細めた。

「お前、体調悪いんじゃないのか?」
「え、なんで? 全然だよ?」
 きょとんと見返した真白に目を据えたまま、孝一は目の前の料理を平らげていく。
「元々大食いじゃないが、朝に食欲ないとか言うことはなかっただろう。貧血とか、そういうのがあるんじゃないか? 姉貴に電話しておくからバイト終わったら診てもらえ」

 孝一の姉の倫子は都内の、このマンションからもそう遠くない所にある病院で内科医をしている。孝一は身内だから気安さがあるだろうけれど、真白はまだ彼女と一度しか顔を合わせていないし、こんな些細なことで手を煩わせたくはない。

「いいよ。だいじょうぶ、何でもないから。夕ご飯はちゃんと食べてるでしょう?」
 そう言ったとたん、いっそう孝一の目が険しくなった。
「昼は食べてないのか?」
「食べてる。食べてるよ、お店で」
 かぶりを振った真白を、孝一はムッと睨み付けた。
「いいから、行け。俺が心配なんだ」
 怖い顔でそんなふうに言われたら、頷く他にない。
「……わかった」
 渋々そう返すと、孝一は満足げに笑った。
「よし」

 あんなにしゃべっていたのにいつの間にか彼の前に並ぶ皿の上の料理は粗方消えていて、最後にコーヒーカップの中身を飲み干して立ち上がる。
「じゃあ、行ってくる。帰りはいつも通りだから」
「行ってらっしゃい」
 玄関まで見送りに行った真白の頬に、軽いキス。
 頭を上げた孝一は、ジッと真白を見下ろしてくる。まるで、その眼差しで彼女をすっぽりと包みこんでしまおうとするかのように。
 こんな時、彼は何か言いたげな、もどかしそうな色をその目に浮かべる。何かを真白に求めているのは判るのだけれども、はっきりと口にしてくれないので彼女も黙って見返すだけだ。

(何か、言って欲しいな)
 言ってくれれば、孝一の望みを叶えられる――成し遂げられないとしても、叶えようと力を尽くすことはできるのに。
 喉の奥、みぞおちのあたりに何かが詰まっているような息苦しさを覚えて、真白は小さく唾を呑み込んだ。
 と、フッと孝一の口元が綻ぶ。

「行ってくる」
 低い声でもう一度そう告げると、キスをしなかった方の頬をそっと撫でて孝一は出て行った。
 ドア越しに聞こえる、ゆっくりと遠ざかっていく、足音。それが聞こえなくなるまで、真白は耳を澄ませてその場に佇んでいた。

 いつもと変わらない朝。
 いつもと変わらない日々――の筈なのだけれども、ほんの少しの違和感が漂う。

 真白は閉ざされたドアを前にして、ため息を一つついた。
 一見何も変わらないように思える孝一の態度は、最近、微妙におかしい。
 以前は真白がバイト先の子と仕事以外で会うと言うと、渋い顔とまではいかないけれど、少なくとも良い顔はしなかったのに、積極的に彼らとどこかに行けばいい、と言ってきたりする。
 臨時でバイトに入るのも、あっさりと許してくれるようになった。
 触れてくるのも何となく控えめになったし、夜の行為も、毎晩のように手を伸ばしてきていたのが、きっかり一日おきになった。

(や、別に、毎晩したいっていうわけじゃないんだけど)
 常々、孝一が真白に対して一番求めているものがソレなような気がしていたから、減ると何だか不安になる。

 それに。

 ――子どもはいいや。

 孝一の実家で、彼の部屋のベッドの上で、確かに彼はそう言った、と思う。
 子どもはいらない、と。
 あの一言が、一番大きな変化かもしれない。

 時々、思い出したように子どもが欲しいと言うことはあった。
 けれどあの晩の孝一の呟きはそれとは真逆で、どう応えたらいいのか、真白には判らなかった。彼のその突然の変化が、何となく彼女を不安にさせる。強い腕でしっかりと抱き締められていたにもかかわらず、あの言葉を聞いた瞬間、トンと突き放されたような心持ちになったのだ。

(優しいのは、全然変わらないんだけどな)
 けれど、さっきのように心配してくれたり、大事にしてくれたりするのは、孝一の標準装備だ。だから、一見いつもと変わらないその行動の奥にあるものが読み取れない。
 以前は、もっとはっきりと要求を口に出してくれていたと思う。

「何をして欲しいか、言ってくれたらいいのに」
 今度は声に出してそう呟き、またため息をこぼして、真白はキッチンに戻った。
 流しに運んだ朝食の汚れ物を洗いながら、真白は何故だろうと考える。孝一の変化は、いつから、どうして起こったものなのだろう、と。

 いつから、は、多分、孝一の実家を訪問してから。
 あの後から、だと思う。

 けれど、どうして、は、さっぱり解からない。

 孝一の両親の家で、何か粗相をしてしまったのだろうか。
 そう思って真白は自分が何をしてしまったのかと考えてみたけれど、美鈴も倫子も最後まで優しくしてくれていたし、幸利は誰に対してもあんな感じだと言われたし。裏表があるような人たちではないだろうから、多分、問題はそこではない。

(だったら、何が原因なの……?)
 胸の中で問いかけて、真白はふうと息をついた。
 解らなくて、なんだかイライラする。
 孝一がそんなだからか、最近、真白はこの『イライラ』するというのが増えた。
 施設にいた頃は、子どもたちがどんなに厄介な駄々をこねても難なく対処できていたのに、最近は孝一の些細な言動を勘ぐって気分が波立ってしまうのだ。

(なんか、良くないよね、こういうの)
 溜息混じりに、もっと落ち着かないとと自分に言い聞かせる。

 何気なく顔を上げると、壁に掛けられた時計が目に入る。そろそろ、彼女もバイトに行かなければならない時間だ。
 最後の皿を水切りに上げて、布巾で手を拭く。
 もう一度時計に目を走らせてから、真白は玄関に向かった。
 シューズボックスの上に置いてあるバッグを肩に引っ掛け、そのすぐ横に置いたコートハンガーから取った上着の袖に腕を通そうとして、バッグを取り落とす。ヒョイと腰を折ってそれを拾い、また身体を起こしたところで、フッと目の前が暗くなった。
 真白は思わずその場にしゃがみ込む。

 しばらくそうしていてからゆっくり立ち上がると、もう何ともなかった。
「立ちくらみ……?」
 基本的に真白は健康優良児なので、あまり経験がないことだ。ここのところやけに眠いし、もしかすると、色々と考えていてこっそり寝不足になっているのかもしれない。
 しばし首をかしげた真白は、自分が何をしようとしていたかを思い出してハッと我に返る。
「いけない。遅刻する」
 慌ただしく靴を履き替えたりなんだりしても、もう何ともなかった。
 玄関を出た真白は、忘れずに戸締りをしてバイト先のファミリーレストランへと急ぐ。

 真白は、今はそこで十時から十五時まで、平日の週五日間働いている。店長からの要望もあるし、真白自身は休日も働いてもいいと思っているのだけれど、土日は孝一が一緒にいたがっていたから。
 平日の午前中の店内は混んでいなくて、制服に着替えてフロアに出た真白はテーブルのペーパーナプキンを補充したり調味料のチェックをしたりしながら新規のお客が来るのを待つ。
 四分の一ほどのテーブルでその作業を済ませた頃、来客を報せる入口のチャイムが鳴った。手持無沙汰なのよりも忙しい方が好きな真白はパッとそちらを振り返る。

 と。

 入り口で案内を待つことなくスタスタと真白の方へとやってきた『お客』は、たった今彼女が整えたテーブルのソファにさっさと腰を下ろした。
「よう」
 真白を見上げて浮かべる笑顔は屈託がない。
「五十嵐君……大学は?」
 自身もここのアルバイターでもある五十嵐は、首をかしげる真白にニッと笑いを返す。
「ああ、休講になったんだ。その次のは元々取ってなかったし、時間が空いたからちょっと足を延ばしてみた」
「ふうん?」
 真白のイメージする『学校』は朝の八時から夕方までびっちり授業が入っているものなので、五十嵐が時々口にする大学のカリキュラムが今一つ理解できない。
 彼は結構ちょこちょここうやって姿を現すけれど、自習のようなものだったら、やっぱり教室にいないといけないのではないだろうか。

 毎度のことながら眉をひそめる真白をよそに、五十嵐はメニューも見ずに注文を口にする。
「ホットコーヒーとミックスピザもらえる?」
「あ、うん……」
 ポケットからPDA端末を取り出して、五十嵐の言った料理をオーダーした。それをしまって調理場に戻ろうとした真白を彼の声が引き留める。

「ちょっと待って」
「何?」
 振り返ると五十嵐は中腰になっていて、その眼差しはやけに真剣だ。
「……何?」
 若干警戒気味に真白が繰り返すと、彼はストンと腰を落として少しきまり悪げに小さく笑った。
「や、たいしたことじゃないんだけど……あのさ、今度大学のサークル仲間でキャンプに行くんだ。一泊で」
 真白は、それが自分に何の関係があるのだろうと首をひねりながら頷く。
「そう。気を付けて行ってきてね」
 五十嵐はグッと唇を引き、開け、また閉じ、そして続けた。

「大月も行かないか?」
 一瞬、真白はぽかんとしてしまう。
「わたし? なんで?」
「友達とかできるよ。高校が一緒だった奴も何人かいるし。あ、そうそう、篠原も行くぜ?」
「篠原さん……?」

 同じ高校出身の篠原千沙とは、バイトを始めた当初はあまり良い関係ではなかったけれど、今は時々二人で出かけるほどになっている。その彼女の名前を聞いて、ほんの少し真白の中で天秤が傾いた。
 それを察したように、五十嵐がテーブルの上に身を乗り出して追い込みをかける。
「知らない奴ん中にいるのが心配だったら、オレがずっと傍にいてやるし」

 期待溢れる、眼差し。
 それが何となく心苦しいような気がして、真白はつい、と目を逸らした。

「わたし……ううん、いい」
 束の間迷った末にそう答えた真白に、五十嵐は目付きを険しくする。
「アイツが嫌がるからか?」
 五十嵐が言う『アイツ』が誰のことか、真白にもすぐに判った。

 きつい語調のその言葉に思わず身を引きかけた真白の手首を捉え、彼は強い口調で詰め寄ってくる。
「アイツは、大月が友達と遊ぶのも許してくれないのかよ? お前、まだ十八なんだぜ? 普通は、もっと色々なところに行ったりとか夜遊びしたりとかするもんなんだよ」
 五十嵐が言っていることは、孝一が言っていたことと良く似ている。
 そしてそれに対する真白の答えも、同じだ。

 彼女が半歩後ずさったところで、繋がれたままの二人の腕がピンと張った。それ以上は距離を取れないままに、真白はかぶりを振る。
「違うよ。わたしがコウといたいの」
 前にも口にしたことがあるその台詞を、また真白は五十嵐に向けた。彼の眉根がギュッと寄り、真白を引き寄せようとするかのように、彼女の手首を握る手に力がこもる。
「アイツとは毎日一緒にいるんだろ? 少しくらい出かけたって……」
「コウと一緒にいたいの」
 粘る五十嵐の言葉を遮るようにして、真白は繰り返した。

 孝一と一緒にいたいのはいつものことだけれど、今は特に、彼の傍にいたいと思った。
 そうしていないと、何となく、不安だった。
 何故、そんなふうに感じてしまうのか。
 いつからかと言われれば、孝一の実家に行った頃からだ。
 ちょうどあの頃から、何かがおかしい。
 孝一の家族にすげなくされたわけじゃない。むしろ、とても良くしてもらった。美鈴と過ごした一晩で「母親というのはこういうものなのか」と実感して、もしも自分が母親になれるなら、彼女のようでありたいと心の底から思ったくらいに。先週末も連れて行ってもらったけれど、一層打ち解けてとても楽しい時間を過ごさせてもらったくらいだ。

 良い思い出しかないと思う。
 ――それなのに、孝一の実家を訪れた頃からずっと真白の胸の中に巣食っているこのモヤモヤは、いったいなんなのだろう。

 悶々と思い悩む真白の耳に、不意に低い声が忍び込んでくる。
「そういうの、不自然じゃないか?」
「え?」
 パッと顔を上げると、五十嵐の目がひたと見据えてきた。
「大月とあのオッサンってさ、二人きりでべったり過ぎるだろ」
「……それって、いけないこと?」
「いけないっていうかさぁ」

 真白は、渋面で口を尖らせている五十嵐を見つめる。
 お互いにお互いの『一番』になれることはうれしい。孝一と出会うまでの彼女の十八年の人生の中では、そんなことはできなかったから。
 けれど、それが不適切なことだというのなら、これからは自制しなければいけない。

(どうやったらそんなふうにできるのか、全然わからないけど)

 寂しい気持ちでそう考えた真白を、五十嵐はチラリと見上げてガリガリと頭を掻いた。そうして、一瞬力を込めてから、彼女の手を解放する。
「……ごめん、変なこと言って悪かったよ。ただ、あんまり大月があいつのことしか見てないからちょっとイラっとしちゃったっていうか」
「えっと、ごめん、ね?」

 イラっと、ということは、怒らせた、ということなのだろう。

 怒らせた原因が判らないままに謝罪を口にした真白に、五十嵐はかぶりを振る。
「大月が謝ることはないよ。まったく、うらやましいような、恨めしいような、だな」
「五十嵐君……?」
 眉をひそめた真白に彼はハァと大きくため息をつくと、そのまま苦笑を浮かべた。
「早いとこ結婚式にでも呼んでくれよ。そうすりゃ現実を噛み締められるからさ」
「現実?」
「何でもないよ。ああ、ほら、お客さんだぜ」

 五十嵐の台詞に釣られて入口の方に目を移すと、五人ほどの女性がかたまっていた。
「じゃあ、ごゆっくり」
「お疲れさん。……またな」
 ヒラヒラと振られる五十嵐の手に送り出されるようにして、真白は客の方へと向かった。
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