捨て猫を拾った日

トウリン

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捨て猫が安らぐ日

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 バイトが終わって帰途に就こうとした真白は、スタッフ用の裏口を出たところで今朝交わした孝一との遣り取りを思い出した。

(病院……どうしよう)
 本当に、体調的にはもう何ともない。
 たった二日、ちょっと食欲がなかっただけ。それも朝だけで、昼も夜もちゃんと食べている。

「それで病院って、普通はないと思うけど」
 この場にいないものに向かって、真白はブツブツと文句を言う。
 行ったことにしたら、どうだろう。
 孝一に、嘘をついたことがバレてしまうだろうか。
 真白はしばし考える。そうして小さくかぶりを振った。
「……バレる、よね」
 そもそも真白は嘘をつくのがあまりうまくないし、仮に孝一が信じてくれたとしても、どうだったのかを訊く為に倫子《みちこ》に電話をされてしまうような気がする。

「しょうがないか」
 真白は諦めのため息と共に駅へと足を向ける。

 倫子からは、病院は孝一のマンションから駅五つ分離れた所にあると聞いていただけだった。
 取り敢えず病院の最寄り駅で降り、駅前の交番で道を訊くと、場所はすぐに教えてもらった。歩きで十分もかからないほど近くで、道順も簡単だ。これで、場所が判らなかったから行かなかったという言い訳はできなくなった。
 行ってみると予想外に大きな病院で、これまで小さな町医者にすらかかったことのない真白はまた少しためらいを覚える。

 取り敢えず入り口をくぐったはいいけれど、真白が予想していたのとは全く違っていて、まず何をしたら良いのかも判らない。いくつも窓口がある銀行のようなカウンターの中の、いったい誰に声をかけたらいいのやら。
 受診に対する迷いと何をしたら良いのか判らない戸惑いを抱えた真白がエントランスホールでウロウロしていると、ピンク色のエプロンを着けた女性が近寄ってきた。

「お困りですか?」
「あ、え、と……」
 彼女の胸元を見ると、『ボランティアスタッフ』と書かれた名札がある。
「初めてのご受診ですか? 何科をご希望ですか?」
 ニコニコと満面の笑みで続けて尋ねられ、真白は面食らった。
「受診する科がお判りにならなければ症状を仰っていただければお調べしますよ? あ、もしかしたらお見舞いですか? 入院している病棟はご存知ですか?」
 放っておいたらどこまでも行ってしまいそうだった。

「あ、その、佐々木倫子先生に……」
 真白は咄嗟に孝一の姉の名前を出してしまう。ボランティアの女性はちょっと首を傾げたかと思うとすぐにまた笑顔になった。
「内科の佐々木先生ですね。お約束が?」
「は、い」
 孝一が電話をしてくれたかどうか確認していないけれど、真白のことで彼が何かを忘れるということはない筈だ。

 頷いた真白にサービス精神旺盛なボランティアの女性はさっそく動き出す。
「じゃあ、内科外来に案内しますね。こちらですよ」
 真白の返事を待つことなく歩き出してしまった彼女に、ついていかないわけにはいかない。気付けば内科外来に辿り着いていて、待合室に座って倫子が来るのを待つ羽目に陥っていた。

(もう、挨拶だけして帰ろう)
 十五分ほど待つうちに、真白の胸の中の天秤がそんなふうに傾き始める。ほぼ完全に心が決まりかけた頃、ポンと肩を叩かれた。振り返った先に、白衣を身に着けた倫子が笑顔で立っている。
「倫子、さん」
「あら、いやね。『お姉さん』とかでもいいのよ?」
 にこやかにそう言われても、まだ一度しか会ったことのない相手だ。そんな態度は馴れ馴れし過ぎる気がする。

 まごつく真白に面白そうに眼を煌めかせた倫子は、彼女の肩をポンポンと軽く叩いて促した。
「まあ、おいおいね。で、どうしようか? アイツの話じゃ全然要領得なかったんだけど、取り敢えずちょっと話だけ聞こうか? 私もちょうどこれから昼ご飯なのよ」
 倫子は軽い調子でそう言ってくれた。もう四時なのに昼食というのも不思議な話だけれども、診察よりは気楽に話ができそうだ。
 真白がこくりと頷くと、倫子がパッと笑顔になる。
「ホント、アイツにはもったいない可愛さよね。じゃ、食堂に行こうか。今の時間なら空いてるし」
 そう言って颯爽と歩き出した倫子に真白も続いた。

 腰を落ち着けたのは職員専用の食堂で、倫子が言ったように確かに人が少ない。彼女は自分の分の定食と真白の為のコーヒーとケーキを頼んでから、窓際の席に陣取った。

「さ、それじゃ話してもらおうか?」
 二人の前に注文したものが揃うと同時に前置きなしでそう切り出した倫子に、真白はフォークを持つ手を止める。
 倫子は食事を掻き込みながら、上目遣いでチラリと真白を見た。

「真白ちゃんの調子が悪いから診てくれって、アイツは言ってたけど、どう調子悪いの?」
 真白は迷った。
 迷って、正直に告げる。
「調子は、悪くありません」
「え?」
 今度は倫子の箸が止まる。
「あの、調子悪くないです」

 沈黙が、心苦しい。

「えっと、昨日と今日、朝ご飯を食べなかったんです。そうしたら、コウが…………すみません」
 何も言わないではいられなくておずおずとそう付け足すと、目を丸くして真白の台詞を聞いていた倫子が、一転、ケラケラと笑い出した。
「それだけ? それだけで、アイツってばあんな深刻そうな声出してたの? 信じらんない。ホント、アイツってば真白ちゃんにベタ惚れなのねぇ。昔、高校ん時に付き合ってた子が盲腸で入院した時だって、『三日もすれば退院するってさ』とか言って見舞いにも行かなかったのよ? 確かにアイツの方から告ったわけじゃなかったけど、一応、彼氏彼女の仲だったのにさぁ」
 ひとしきり心の底から愉快そうに笑った後、また倫子は食事に取り掛かる。

「正直、我が弟ながらアイツは人としてどうかと思ってたのよね。誰のことも大事にしないし、誰のことも本気で想わない」
「コウは優しいです」
 反論した真白に、倫子は肩をすくめた。
「アイツに対してそんなこと言ったの、真白ちゃんが初めてよ。最近はそもそも真面目に付き合うことすらしなくなってたけど、前は一応それなりの期間、女の子と付き合ってたのよね。いっつも告られる側で、別れる時も相手から。それも三月――ううん、ひと月ともてば上出来ってレベルだったのよ。まあ、相手の子たちも、アイツの外側しか見てなかったんだからどっちもどっちって感じなんだけどさ」
 所在なく真白がケーキを突くと、皿に添えられた彼女の左手に倫子の視線が移った。

「それって、多分初めてよ」
「え?」
「その薬指の指輪」
 言われて、真白は自分の指に光る小さな石に目を走らせた。
「アイツ、誰にも本気になれない奴なのかと思ってたんだけど、そうじゃなかったんだわ。一生分の気持ちを一人に注ぐタイプなだけだったのねぇ」
 そう呟いた倫子がふいにテーブル越しに手を伸ばして、クシャクシャと真白の髪を掻き混ぜた。

 それはとても、孝一と似た仕草で。

「まあ、その分一人の肩にはちょっと重いかもしれないけど、我慢してやってよ」
 頷いた真白に倫子からは嬉しそうな微笑みが返ってきた。
 それからは二人とも黙ってそれぞれの目の前にあるものを口に運ぶ。

 皿がきれいになったのはほぼ同時のことだった。
 食後のお茶を倫子がすすった時、ふと思い出したというふうに彼女が真白に目を向けた。
「あ、そうだ。念の為に訊いておくけど、真白ちゃん、生理はちゃんとあるよね? そこんところ、アイツはこれまでしくじったことなかったから大丈夫だと思うけど」
 軽い口調でほとんど冗談混じりのような問いかけだった。

 真白はキョトンと目を丸くする。
「せいり?」
「そう。生理、月のモノ、月経。最後のはいつ来た?」
「三ヶ月ほど、前に……」
 さすがに気恥ずかしくて真白が囁くような声で答えると、倫子は一瞬固まり、そして眉間に深いしわを刻んだ。

「元々規則的に来る方?」
「あ、いえ、それが初めてだったので」
 しかも、少し汚れたくらいだったから、本当にあれが生理というものだったのかも自信がない。
「初めて? 真白ちゃん、確かもうじき十九よね?」
「はい」
 こくりと頷くと、倫子は渋い顔になった。
「……何かいくつか気になることはあるけど――あのさ、一つ、変なこと訊いていい?」
「なんですか?」
「ちゃんと避妊してるよね?」

 その突然の質問に、すぐには、答えられなかった。

 黙ったままの真白に、倫子が重ねて問いかけてくる。
「どう?」
「……ちょっと前、から……」
「ちょっと前って、つまり、それより前はしてなかったってこと?」
 この間、孝一の実家に行くまでは、していなかった――ほんの、三週間ほど前までは。

 声なく頷いた真白の前で、倫子が大きく息を吸う。そして、それを吐き出しながら唸った。
「……あんの、バカ」
「倫子、さん?」
「あのさ、最近、なんか眠いな、とか、ちょっと胸が痛いな、とか、小さなことでイラついたりモヤモヤしたりするな、とか、あったりする?」
 どれも当てはまる、かもしれない。から、真白はまた首を縦に振った。そうしながら無言で問うと、倫子は苦笑を返してくる。
 ――その目の奥に轟々と音を立てんばかりの怒りの色を含んで。
「取り敢えず、やっぱり受診してもらった方がいいみたい」

   *

「判る? ほら、これが赤ちゃん」

 机の上に置かれた小さな白黒写真の中、倫子が指さした、これまた小さな豆のようなものに、真白は目を凝らした。

「この大きさだと、妊娠二ヶ月にはなってるわね。真白ちゃんには判りにくかったと思うけど動いてる画像でちゃんと心拍も確認できたから、間違いないわ」
 それだけ言って倫子は口を閉じ、真白の様子を窺うようにジッと見つめてきた。

 言葉のない真白の視線は、どうしても写真に釘付けになってしまう。手は、無意識のうちに下腹にいっていた。

 とても、不思議な感じがする。
 不思議で、そして何とも言えずに心地良い。
 下腹に添えた手で、そっとそこを撫でてみた。
 この奥に、一つの命が存在している。
 真白の頭に、その事実がじわりじわりと浸透していく。

 ついさっきまで、そんなの、全然何も感じていなかったのに、何故か今はそこに温もりを覚えた。

 最初の驚きが薄まっていくのと交代で、真白の中に膨らみ始めた喜びと幸福感。
(赤ちゃん)
 自分と、そして、孝一の。
 ――そう、孝一との、赤ちゃん。

 その事に思い至った瞬間、サッと血の気が引いた。と、それが外見にも表れたのか、倫子が泡を食って身を乗り出してくる。

「どうしたの、真白ちゃん?」
「え?」
 問われて真白は呆然と倫子に目を向けた。
「真っ青だけど、気持ち悪い? 吐きそう?」
 そういう具合の悪さは、ない。けれど、気分は悪かった。
 真白はギュッと自分の身体を抱き締めて縮こまる。

(だって、コウは――)
 ほんの数週間前に彼が口にした言葉が、改めて真白の胸に突き刺さる。

(どうしよう。どうしよう。どうしよう)
 それだけしか、頭の中に浮かばない。

 目も口も固く閉ざした彼女の肩を、倫子がそっと揺らした。顔を上げると、心配そうな目が覗き込んでいる。
「ねえ、もしかして、欲しくなかった……?」
 静かな声で尋ねられ、真白はかぶりを振った。
(わたしは、欲しい。すごく、絶対に――わたしは)
 この身体の中にもう一つの命が存在しているのだと知らされたのはほんの数分前のことだというのに、まるで生まれた時から望んでいたかのように、強く、これ以上ないというほど強い思いで、欲した。
 この小さな命を守る為に自分の命を差し出せと言われたら、きっと頷いてしまう。
 それほど、まだ人の形もしていないこの存在が、愛おしかった。

(だけど――)

「コウ、は、子どもはいらないって……」

 その時、倫子の奥歯が立てた音が、真白にもはっきりと聞こえた。
「あんの、馬鹿」
 地の底を這うような声が罵倒する。少し前にもまるきり同じ台詞を耳にした気がするけれど、それよりも、かなり、怖い。

「ああ、ごめんなさいね」
 思わず息を詰めて倫子を凝視してしまった真白に、一転して柔らかな眼差しが向けられた。
「心配しなくても大丈夫。ちゃんとなるようになるから」

 穏やかな慰めとともに頭を撫でてくるその手はやっぱり孝一とよく似ていて、真白は目の奥に押し込めた涙を何度も呑み下した。
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