捨て猫を拾った日

トウリン

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捨て猫が安らぐ日

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 いつも通りに夜の七時になる前にマンションの前に立った孝一は、自室の部屋の窓を見上げて眉をひそめた。

 暗い。

(まだ帰っていないのか、あるいは寝ている、とか……?)

 今日はバイト帰りに病院に寄った筈だ。
 真白は孝一に対して『誤魔化す』ということを知らないから、眉間にしわを寄せながらもちゃんと受診しただろう。特に今日は金曜だから、今日を逃せば土日の二日も孝一からブツブツ言われる羽目になるから、必ず、行ったはず。
 彼女のバイトが終わるのは、十五時。それから病院に行ったら十六時近くにはなる。
 姉の勤務先は総合病院だから、診察にも予想以上に時間がかかったのかもしれない。

 が、しかし。

(それにしたって、こんな時間にはならないか)
 そう思いながらも、取り敢えず部屋に戻ってみようとエレベーターに乗る。自宅がある階に着くまでの間に、携帯に着信かメールが届いていないか確かめてみたが、どちらも一つもなかった。

 部屋に着いても真白が眠っている可能性を考えて音を立てないようにドアを閉め、廊下の電気だけを頼りにリビングと寝室を覗いてみる。

 やはり、彼女の姿はない。

「姉貴のやつに捕まったかな」
 それは充分有り得る話だ。

 真白と倫子《みちこ》はまだ一度顔を合わせただけだが、その一度で真白はかなり姉に気に入られてしまったらしい。仕事が終わるまで引き止められているとか、きっとそんなところだろう。
 それならそれで、連絡の一つも入れてくれればいいのだが。

 孝一はため息と共に再び携帯を取り出した。
 この時間だと、いつもならまだ倫子は職場にいる。携帯に電話をしても留守電に切り替わることがほとんどで、結局職場の方にかけ直すことが殆どなのだが、意外なことに二回のコールで応答があった。
「あ、姉貴――」
「遅い」
 彼が用件を発する暇もなく、一言。
 ムッとしつつも孝一も構わず訊きたいことを口にする。
「真白、そっちにいるのか?」
「ここにはいないよ」
「え?」
「私と一緒にはいない」

 多分孝一は、第一声の時点で、姉の声の底で煮え立つ怒りの響きに気付くべきだったのだ。だが、倫子のこの返事で一気に気が動転した彼の頭の中からは、それまでの遣り取りはスパンと消え失せた。

「じゃあ、どこに? 家にはいない。そっちには行ったんだよな? 何時に帰ったんだ? 何か悪いものでも見つかったのか? まさか、入院してるんじゃないよな!?」
 焦るあまりに声が大きくなっていくのも止められない。だが、ほとんど怒鳴るようにして取り留めのない問いを畳みかけているというのに、電話の向こうからは何一つ答えが返ってこなかった。

「姉貴!」
 苛立ちをみなぎらせて呼ばわっても、戻ってきたのは冷ややかな沈黙のみ。
 孝一は手の中の小さな機械を潰さんばかりに握り締めて、更に迫った。
「なんとか言えよ!」

 しばしの間。
 そして。

「真白ちゃんは母さんたちの所にいるよ」
 一瞬、姉の台詞が孝一の耳から耳へと通り抜けていきそうになった。そうなりかけて、彼はハタと我に返る。
「母さんの所って、なんでそんなことになっているんだ?」
 訳が分からない孝一は、意図せず責める口調になってしまう。そんな彼の詰問に倫子から返されたのは、鋭く厳しい問いかけだった。

「何故というなら、あんたは何故、真白ちゃんに『子どもはいらない』なんて言ったわけ?」

「……は?」

 あまりに筋違いで突拍子もないことを言われたのだから、間の抜けた声を出してしまったのも仕方がないことだろう。
 孝一は一気に毒気が抜けて、低い声になる。
「そんなことは言っていない」
「あの子は、あんたにそう言われたってさ。前に母さんたちの所に行った時に」

 実家に――ということは、一度目の時だろうか。
 二回目の訪問は日帰りだったので、実家に滞在している間はずっと真白は美鈴に取られっ放しだった。帰りの電車の中では彼女は眠っていたし、家に着いてからは慌ただしく食事や風呂を済ませなければいけなかったしで、ほぼ丸一日ろくに言葉を交わすこともできなかったのだ。

(最初に行った時なら、俺の部屋にいた時か?)
 孝一はおよそひと月前の会話の内容を懸命に頭の奥から掘り起こそうとした。
(部屋にいたらあいつがやけに可愛いことを言い出したんだよな)
 実家では手を出さずにいようと孝一は思っていたのに、真白のあの発言で自制心が吹き飛んだのだ。
 どうしても、自分が真白の年頃に過ごした部屋で、彼女に触れたくなってしまった。触れて、感じさせて、達して震える身体を抱き締めたくなってしまったのだ。
 実際に彼はその望みを叶えて、いくつか言葉を交わして、そして――その後、彼が最後に何げなくこぼした、台詞。

「……あれか」
 呻くように呟いた声は確かに倫子にも届いたようで、即座にピシャリと返ってくる。
「言ったのね?」
「字面は似たようなことを言ったかもしれないが、あれはそういう意味じゃない」
 苦り切った口調でそう答えると、倫子はすぐさま突っ込んできた。
「じゃあどういう意味なわけ?」
「それは……あいつに直接話す。ていうか、どうして俺たちはこんな話をしているんだ? 結局、真白に何があったんだ? 何であいつは帰ってこないんだよ?」

 一瞬の沈黙。
 そして呆れたような、いや、呆れ切った、倫子の声が続く。
「あんた、この話の流れでまだ判らないの? あんたってそんなに鈍い奴だった?」
「判らないって――」

 この話の流れ、というのは子どもが要るか要らないか、という流れか。
 それにどんな意味が――と、そこで思考が止まった。

「ちょっと、待て。まさか、あいつに子どもができたのか!?」
「鈍い」

 確かに、鈍い。

 孝一は呻いた。

 我ながら、鈍過ぎる。
 だが、ようやく彼にもこの一連の流れが理解できた。

「真白は母さん達んところにいるんだな?」
「ええ。あんたん所には帰れないっていうから母さんに迎えに来てもらったわ」

 だったら、いい。
 孝一に絶望し、愛想を尽かせて姿を晦ましたのでなければ、それでいい。
 彼はすぐさま玄関に向かい、顎に電話を挟んだまま突っかけるようにして靴を履く。
「これから行ってくるから」
 そう言って電話を切りかけて、また耳に当てる。
「助かった。ありがとう」
「え、あんた、今――」
 素っ頓狂な声が回線の向こうから響いてきたが、構わず通話をオフにした。

 財布と電話、家の鍵。
 それだけを持って孝一は部屋を出る。
 駅まで走ってちょうど到着したばかりの下り電車に駆け込んだ。
 車内でもじっと座っていることができずに、孝一は数両の間をウロウロと往復する。何対もの不審者を見る眼差しが突き刺さってきたが、今、真白がどんな気持ちでいるのかを考えれば、そんなものを気にする余裕も生まれなかった。
 実家の最寄り駅に着き、タクシーを捕まえる。両親の家までは駅から車で十五分ほどだが、その十五分間が永遠のようにも感じられた。
 両親の家に着くなり呼び鈴を連打する。
 玄関の鍵がガチャリと音を立てて解かれるのももどかしく、孝一は引き戸を開けた。

「もう、孝一。うるさいわよ?」
 ぶつぶつとそんなことを言う美鈴を押しのけるようにして中に踏み入った。長いとは言えない廊下を足音も荒く駆け抜ける。
「真白!」
 名を呼ばわりながらリビングに飛び込むと、そこに彼女はいた。

「真白……」
 真白は、大きな目をいっそう大きく見開いて、肩を強張らせて孝一を見つめている。安堵の息を彼が漏らしたその時、不意に彼女の頬を透明な雫が転がり落ちた。
 ただ涙を溢れ出させるその泣き方に、孝一の胸が刃を突き立てられたかのように痛む。

 慌てて駆け寄り抱き締めようとしたが、彼のその手が届くより先に、真白がキッと睨み付けてきた。
 てっきりすがり付いてくるかと思った彼女のそんな態度に、孝一は戸惑い硬直する。

「真白?」
 呼びかけが若干恐る恐るというものになってしまったのも、勘弁して欲しい。本当に、腫れ物に触る気分だったのだから。

 孝一に名前を呼ばれ、真白がすっくと立ちあがった。

 そして。

「わたし、絶対産むから!」
 前置きも何もなく、そう宣言する。
 それは、いつもの穏やかで物静かな彼女とは全く違う、激しい声だった。

「コウがいらないって言っても、わたしはこの子が欲しいの。この子のこと、絶対欲しいの!」
 そうして、また、ボロボロと泣く。幼い子どものように、何度もしゃくりあげて。
「俺は――」
 何とか落ち着かせようと発した声は、ブンブンと激しく振られた頭に打ち払われた。

 こんなふうに取り乱しているのは妊娠しているせいもあるかもしれないが、きっと孝一のあの言葉が予想以上に深く彼女の中に突き刺さってしまっているからなのだろう。
 彼は、自分の馬鹿さ加減に臍を噛む。

 真白自身が、『捨てられた子』――産まれたその時から存在を否定された子どもだったのだ。
 普段の屈託ない様子に騙されるが、彼女の土台は、未だにもろい。
 孝一と暮らし始めて変わりつつあるとは言え、まだまだ真白の中には癒えきらない傷が残っているのだろう。
 そんな彼女に、一番投げてはいけないことだった――子どもを拒否するような、言葉は。
 大した意味もなくうっかり漏らしてしまった一言を、孝一は心の底から悔やんだ。

 とにかく、ちゃんと説明しなければ。

 大きな一歩で孝一は真白との距離を詰め、抗う隙を与えずに彼女に手を伸ばして引き寄せる。真白が逃れようとするより先にさっと身体を屈めて彼女を肩に担ぎ上げた。
「コウ!? やだ、下して――」
「おとなしくしとけ」
 孝一はもがく真白をガッチリと押さえ込み、その存在に全く気付いていなかったがずっと彼女の隣に座っていたらしい幸利《ゆきとし》と、玄関からついてきてリビングの入り口に立ったままだった美鈴に目を走らせた。
「ちょっと上で話してくるから」
 そう残して真白には有無を言わせず階段を上がる。

 かつての自室に入ってドアを閉め、ベッドの上に座った。すぐさま逃げ出そうとした真白を膝の上にのせて、身じろぎ一つさせないほどにきつく抱き締めた。
 真白の涙が孝一の襟元を濡らす。
 ジワリと染み込んでくるそれは、彼の肌を焼くようだった。

 彼に抱き締められて一瞬固まった真白だったが、すぐに我に返ってまた暴れ出す。
「放して!」
「嫌だ」

 真白の髪に頬を寄せ、声を耳に吹き込むように囁く。背中を繰り返し撫で下ろしながら、彼女が落ち着くまで、何度も「ごめん」と、ただそれだけを繰り返した。

 唸るようなすすり泣きは次第にしゃくりあげるだけになっていく。

「ごめん……ごめん、真白。悪かったよ。そんな意味じゃなかったんだ。ほら、もう泣き止んでくれよ。子どもに障るだろう?」

 もがく力が弱まった。

「いらないって、言ったくせに」

 孝一は少し力を緩めて頭を下げ、真白の耳朶をついばむ。唇をそこに触れさせたまま、また謝る。
「ごめん。本当に悪かった。だけど、そうじゃないんだ。お前との子どもをいらないなんて俺が思うわけがないだろう?」
「ウソ。言ったもの。『子どもはい――』ッ」
 真白が忌むべき言葉を最後まで吐き出してしまう前に、孝一は彼女の唇を奪った。
 最初は深く貪って。
 華奢な身体が腕の中でぐったりと力を失ったら、そっと、慈しむ。
 唇を何度も重ね、離し、その合間に囁いた。

「俺も、その子が欲しいよ」
「……本当?」

 孝一は顔を上げて両手で真白の頬を包み込んだ。そうしてまだ疑念の色が濃い彼女の目をしっかりと覗き込み、告げる。

「欲しい」

 小さく低い声でも断固とした響きを持たせたその一言に、真白はパチリと瞬きを一つし、次いでふわりと微笑んだ。が、すぐにその笑顔が曇る。
「でも……コウ、前に『子どもはいらない』って、言った……よ、ね?」
 先ほどの断言する口調から、少し心許なげになったのは、自分の記憶よりも孝一に対する信頼の方が増したからなのだろう。
 孝一は眉をしかめて答える。
「確かに、言った」
 その瞬間、パッと真白の表情が強張った。彼女がまた殻に閉じこもってしまう前に、孝一は急いで先を続ける。

「言ったが、あれはそういう意味じゃなかった。第一、俺はずっといらないとは言ってなかっただろう? よく思い出してくれよ。俺は、『まだ』いいと言ったんだ」
 違うか? と目で問いかけると、真白の目が記憶を辿るようにさまよった。そうして、かなり弱々しい声で、つぶやく。
「そう、だった、かな……?」
「そうだったんだよ」
 孝一はきっぱりと首を縦に振り、そしてため息をつく。
「前は、お前を捕まえておく為に子どもが欲しいと思ったんだ。俺との子どもができたら、俺から離れるわけにはいかなくなるよな、とか。そんなしょうもない理由だったんだ」

 あまりに利己的で勝手でわがままで打算的な、理由。
 孝一は、また、小さく「ごめん」と囁いた。それに応えて、彼の腕の中で真白がふるふるとかぶりを振る。

 多分、真白は、孝一のすることならば何でも赦してしまうのだろう。
 それが彼には嬉しくて愛おしくて、少し、怖い。

「この間、ここでああ言ったのは、今は、お前にもう少し『子ども』でいさせてやりたいと思ったからだ」
「子どもで?」
 首を傾げた真白に、孝一は頷いた。
「ああ。お前はあんまり子どもらしいことできてなかっただろ? 施設では小さい子の面倒見て、俺のところに来たら俺の面倒を見て。友達と遊んだりとか、親に甘えたりとか、全然できてないじゃないか」
「そんなの――」
 多分、要らない、と言おうとしただろう真白の唇に指を押し当てて止める。

「最初に俺の親に会わせた時、ずいぶん母さんに懐いてたからさ。自分の母親と思って甘えたらいいと思って。それに俺はお前のことを束縛し過ぎだから、もっと自由に遊ぶ時間をやらないといけないな、と」
 また真白を胸に引き寄せる。
「子どもがいたら、お前が遊べなくなるだろう? 施設じゃ『母親のようなもん』だったけど、今度は本当に母親になっちまう」

「わたしは、それでいいのに」
 力の抜けた声でそうこぼし、孝一に抱き締められるだけだった真白が、腕を伸ばして彼にしがみついてくる。
「赤ちゃんができたって倫子さんに言われて、すごく、怖かった。コウと一緒にいたいのに、コウが赤ちゃんいらないなら、傍にいられないって。でも、コウも、赤ちゃんも、どっちも欲しかったの。どっちも、絶対に諦められなかったの」

 欲張りでごめんね、と、彼の胸元で小さな声が聞こえる。
 孝一は真白に回した腕に力をこめる。
 そんなのが欲張りだというのなら、彼はいったいどれだけ強欲な男になるというのだろう。

「どっちも諦めずに、どっちも欲しがってくれて、嬉しいよ。……もっと、もっとたくさん欲しがっても全然構わない。俺が音を上げるくらい、たくさん」
 真白の華奢な身体を潰してしまいそうなほどにギュウと抱き締める孝一の胸に頬を摺り寄せ、彼女は小さく息をついた。
「わたしは、今、すごく幸せ。これ以上、なんて無理だよ」
「お前は、限られた世界しか知らなかっただろう? 学校、施設、俺……それだけだ。外に目を向けたら、もっと幸せになれるかもしれない」

 孝一自身は、真白を彼だけの世界に閉じ込めておきたいと切望している。だが、それではいけないことも判っていた。
 外への扉を、開いてやらなければいけないのだということを。
 相反する『望むこと』と『すべきこと』の間で立ちすくみ、孝一は行き所のない想いで腕の中に捉えた身体をいっそう強く抱き締める。

「もう、充分だよ。コウと逢えて、充分幸せになった。今でも、充分。だけど……」
 真白は少し孝一から身体を離し、そっと下腹に手を添えた。俯きがちに見つめながら、愛おし気にそこを撫でる。
「この子がいれば、もっと幸せになる。コウと出逢って、わたしはそれまでとは全然違うわたしになった。だから、今度はこの子を通して、わたしの世界は広がっていくよ、きっと」
 そう言って上げられた彼女の顔に浮かんでいたのは、その言葉の通り、幸せと喜びが溢れ出している笑顔で。

 孝一の中に、何か、言いようのないものがこみ上げてくる。
 それは、温かくて、甘くて、少し苦しい――けれど、どうしようもなく心地良い。

「ああ……俺も幸せだ。幸せで幸せで、息ができない」

 結局、真白が幸せであることが、孝一の幸せにつながるのだ。
 彼は全身で彼女を包み込む。

 彼女の中に息づき始めた、命ごと。
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