捨て猫を拾った日

トウリン

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捨て猫が安らぐ日

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 涙がすっかり乾くのを待って真白と孝一が階下に行くと、即座に両親の視線が突き刺さってきた――主に、孝一に。

「あら、戻ってきたのね」
 にこやかな口調でそう言った美鈴の口元には笑顔が刻まれているのに、なんとなく、怖い。

 思わず身を竦ませた真白に気付いて、美鈴の目が彼女に移った。と、その眼差しがふわりと温かく和らいで、目が合うと労わるように微笑んでくれる。釣られて口元を緩めた真白に、美鈴の笑みが深まった。
 その優しい視線は、けれど、また孝一に移ったとたんにガラリと変わる。

「で、二人の話し合いは済んだようだけど?」
 笑顔で首をかしげる美鈴のそのセリフは、疑問の形を取りながら説明を促しているのだということがひしひしと伝わってきた。
 孝一の手が真白の背中に添えられる。そうして微かな力で促され、真白はおずおずと足を踏み出し孝一の両親の前へと進む。

 彼らの前で取り乱してしまったことが今更ながら恥ずかしく、真白は二人の向かいに座って肩を縮めた。
「あの、すみませんでした」
 俯いたまま謝罪を口にした彼女に、美鈴が声を上げる。
「あら、なんで真白ちゃんが謝るの?」
「それは、えと、大きな声で騒いでしまって……」
「真白ちゃんをあんなに泣かせた孝一が悪いのよ」
 きっぱりと断言されて、真白はパッと顔を上げた。

「コウは悪くありません。わたしの勘違いだったんです」
「でも、この子があなたに勘違いさせるようなことを言ったんでしょう? それであなたは傷付いたのではなくて?」
「そ、れは……」
 真白は口ごもり、ほんの一瞬隣の孝一に視線を走らせた視線をストンと膝の上に落とした。
 美鈴は言葉を返せずに顔を伏せている真白を束の間見つめてから、孝一に鋭い声を投げる。

「で、どうするつもりなの」
「どうって?」
 不意に厳しい口調で問われて、孝一は眉をひそめた。そんな息子に、美鈴が呆れたような声を返す。
「真白ちゃんの薬指を見れば、あなたがそれなりのことを考えているのは判るわよ? でも、この先の予定はどうなっているの?」
 疑心満々な問いかけをぶつけてきた母親の隣で、腕を組んだ幸利が無言で頷いている。
 孝一がムッとするのが気配で伝わってきて真白がそっと横目で彼を伺うと、やっぱり眉間にしわを寄せている。

「あのな、言っておくが、プロポーズはもう半年以上も前に済ませてるんだよ。家に帰れば俺のサインが入った婚姻届けもある。あとは真白次第――こいつがその気になるのを待ってるところなんだからな。真白がサインしてくれりゃ、今日にだって出しに行くさ」
 ムスッとした声で彼が言ったその内容に、真白はふと首をかしげた。
「俺の一存でことを進めちまってよければ、もう半年前にケリは着いているさ。でもそういうわけにもいかないだろう? 俺は真白に無理強いしたくないからしつこくせっついていないだけだ。こいつが自分からサインする気になってくれるのを待って――なんだ、シロ?」

 両親に食って掛かっている孝一の袖を真白がツイツイと引くと、彼は眉をひそめて彼女に振り向いた。
「気分でも悪いのか?」
 心配そうに顔を曇らせて孝一がそう言うのへ、真白はかぶりを振った。
「じゃあ、なんだ? 疲れたか?」
 重ねて問う彼に、また彼女は首を横に振る。

「違うの。あの、サインって……?」
「――は?」

 孝一は怪訝な顔をしている。だから、真白ももう一度尋ねた。
「あの、サインって、なんのこと……?」

 孝一が、一瞬、ポカンと目と口を丸くする。
「お前、今、なんて――?」
「その、サインって、なんのことなのかなって、思って」
「もちろん婚姻届けのことだよ。指輪と一緒に見せただろ?」

 確かに見せてもらった。
 だけど、あれは――

「わたし、サイン、した、よね……?」
 そっと窺うように真白がそう言ったとたん、シン、と部屋が静まり返った。
 そして、その静けさの中で凍り付いてしまったかのように、孝一は真白を凝視したまま顔も身体も固まらせている。彼がそんなふうだから、真白も息をひそめて見つめ返すだけだった。

 その耳鳴りがしそうなほどの沈黙を、美鈴が破る。

「もう少し、二人で話し合う必要がありそうね?」
 笑いをこらえているような声と顔でそう言った母親に、孝一がぎこちなく目を向けた。と思ったら、突然真白の腕をつかんで立ち上がる。
「母さん、タクシーを呼んでくれ」
「ずいぶん急ね。明日は土曜なんだし泊っていけば?」
 先ほどまでの厳しい口調とは打って変わっておっとりした様子で、美鈴が言った。けれど、孝一は真白をほとんど睨み付けるようにしたままかぶりを振る。

「いや、役所に行って届け出してくるから。週末使って式の手配なんかも始めたいし」
「あら、そう。じゃ、急いで来てもらうわ」
 美鈴はそう言っていそいそと電話の方へ行ってしまう。
 じっと注がれ続けたままの孝一の視線が何となく怖くて、真白は彼を見ることができなかった。
 美鈴がいなければ孝一もしゃべらず、気まずい沈黙が訪れる。

 と、不意に。

「孝一」
 静かな声で名を呼んだのは、幸利だ。

 真白がここを訪れるのはこれで三度目になるけれど、彼の声を聞いたのはまだ数えるほどしかない。それも、美鈴が尋ねたことに対して「うん」とか「ああ」とか答える程度だったような気がする。
「何ですか」
 気配で、真白は孝一が幸利へと目を移したのを感じた。そっと目を上げてみると、やっぱり彼の方に顔を向けている。
 しばらく黙って息子の目を見つめていた幸利は、やがてぼそりと呟くように言った。

「大事にしろよ」
 一瞬、真白の手を掴んでいる孝一の力がグッと強まった。
「……これ以上、どうやったらいいのか判りませんよ」
 その声の中に苦さと辛さが含まれているような気がして、真白は思わず孝一を見上げる。彼の眉間にはしわが寄っていて、口元もきつく引き結ばれていた。

 真白の視線に気付いたのか、孝一の顔が彼女の方へ向けられる。彼女と目が合ったら微笑んでくれたけれども、そこにはどこか困ったような、途方に暮れたような色が浮かんでいた。

(コウに、こんな顔をさせたくないのに)
 真白の胸がキュッと痛む。
 今回の騒ぎはただひたすら自分一人の所為なのだと、真白は幸利にも美鈴にも孝一にも謝りたかった。
 けれど、うまく言葉が出てこなくて、ただ「ごめんなさい」と言うだけでは足りないような気がして、結局何も言えなくなる。

 また誰もが口を噤んだ中に、美鈴が帰ってくる。リビングに流れる微妙な雰囲気を感じ取っているだろうに、いつでも朗らかな孝一の母は、いつもと変わらない明るい笑顔を振りまいた。

「タクシー来るまで二十分くらいですって。お茶くらいは飲んでいく?」
「ああ……いや。ちょっとこいつと二人きりで話したいから、外で待つよ」
「そう? じゃあ、玄関の電気はしばらく点けておくわね」
「ありがとう。それから――今日は悪かった。色々段取り決まったらまた連絡するから」
 気まずげにそう言った孝一に、美鈴がフフッと笑う。
「じゃあ、真白ちゃん、また来てね。こんなバカな子だけど、愛想尽かさないであげてね」
「そんな――」
 真白は孝一の為に弁解しようとしたけれど、遮るように腕を引かれてしまう。
「行くぞ、シロ」
 美鈴たちへの別れの挨拶もおろそかに、そのまま玄関まで引っ張って行かれて、外に連れ出された。

 ポーチの柔らかな灯りの下で、孝一はしばらく真白を見つめた後、彼女をそっと引き寄せた。彼はふわりと真白を抱き締め彼女の頭の上に顎をのせる。
 そうやってその温かさにすっぽりと包みこまれると、真白はいつも自然と身体の力が抜けてしまう。

 不意に目の奥が熱くなって、視界が歪んだ。
 こんなふうにわけもなく涙がにじんでしまうのは、妊娠している為だろうか、それともあまりに幸せだからなのだろうか。

「コウ」
「……なんだ?」
 彼の声がくぐもって聴こえる。

 真白は少し迷って、続ける。
「ごめんね」
 その一言に、孝一は何も返さなかった。
 ただ、ギュッと、真白に回した腕に力がこもる。

 真白は孝一の胸に頬を摺り寄せ、その鼓動を耳で聴いて肌で感じた。
 ゆったりとしたリズムが、とても心地良い。立ったままでも、真白は微睡んでしまいそうになる。

 無意識のうちに、真白の両手が自分の下腹に向かう。

(ここにいる子も、こんなふうに感じているの……?)
 こんなふうに、穏やかで、温かくて、幸せで、安らいで。

 実際に真白がこの場で眠り込んでしまっても、きっと孝一はしっかりと抱き締めて支えてくれるだろう。
 そんな安心感も手伝って、真白は目を閉じて彼にもたれかかる。二人の身体はピタリと寄り添って、何も入り込む隙間などない。
 それでも、真白はまだ足りない気がした。

 もっと、孝一に触れたい。
 もっともっと、彼に近付きたい。
 もっともっともっと、彼を感じたい。

 無性にもどかしい気持ちになった真白が身じろぎした時、孝一がふうとため息をついた。
 どうしたのかと真白は顔を上げようとしたけれど、頭の後ろを大きな手で押さえられて、身動きが取れない。
 仕方がないのでまた彼の胸に頬を付けて、問いかけた。

「……コウ?」
 すぐには答えが返ってこない。
 五度ほど、孝一の胸がゆったりとした呼吸で上下するのを数えた頃、真白の耳に彼の声が響く。

「届け、出してもいいんだよな?」

「え?」
 今度は、顔を上げられた。

 首だけ反らして孝一と目を合わせると、薄暗がりの中でこれ以上ないというほど真剣な光を帯びているのが見て取れる。
「婚姻届けだよ。出してもいいんだよな?」
 そこににじむ、自信のなさと、不安。
 真白は彼にそんな声を出させてしまったことが、申し訳なくなる。

「ごめんね、わたし、そのこと、全然忘れてて……」
 また、大きなため息。
「ごめ――」
 もう一度謝ろうとしたら、ギュッと抱きすくめられた。
 さっきとは違って、今度は、痛いくらいの力で。

「ああ、もう」
 唸るような声が、彼の胸から直接真白の耳に響く。
「コウ?」
 名前を呼ぶと、小さな笑いが返ってきた。

「……俺も、気を遣い過ぎだったんだよな。らしくないことするからしくじったんだ」
「え?」
「お前を『結婚』という縛りで捕まえておきたいのは俺の方だったから、無理強いだけは絶対にしないようにしようと思ったんだよ」
「無理強いなんて……」
「お前は俺の言うことには何でもかんでも頷くだろ? だから、婚姻届けも、俺の方からしつこく言ってサインさせたくなかった」
「わたし、嫌なことは嫌って言うよ?」

 また、小さな笑い。

「ホントかよ」
 真白の頭の上で孝一が動いて、てっぺんの辺りに何か柔らかいものが押し当てられた。一拍遅れて、そこにキスをされたのだと気付く。
「俺は、お前の意思を尊重したいんだよ、本当は。……まあ、実際はあんまりうまくやれてないけどな」
「そう?」
「ああ。……自分がこんなに独占欲が強くて心が狭い男だとは知らなかったよ」
 後半は、ぼそぼそと聞き取りにくい。

 真白は孝一の表情が曇っていないかを確かめたくて顔を上げようとしたけれど、がっちり押さえ込まれてびくともしなかった。孝一の片方の手は真白の頭を彼の胸に押し付けていて、もう片方の手は彼女の背中をゆっくりと撫で下ろす。
「取り敢えず、もう書類は出すからな。式もちゃんと挙げる」
「式は別に――」
「挙げる。呼ぶのはうちの家族とお前が世話になった人くらいだけどな」
 そう言ってから、不意に真白の背を撫でていた彼の手が止まった。そうして、少し身体を離して真白の目を覗き込みながら、ためらいがちに問いかけてくる。

「――お前が嫌だと言うなら……」
 その表情は、何となく、耳が垂れた大型犬を思い出させる。
 真白は彼の腕の中で、そっとかぶりを振った。
「イヤじゃないよ、うれしいよ」
「本当か?」
「ホント」
「絶対?」
 そんなふうに何度も確かめてくる彼は、なんだか、可愛く見える。
「絶対」
 深く頷いて、真白は孝一の背中に手を回して彼を抱き締めた。
 いつでも自信満々な彼が見せてくれた、意外に気弱な一面をくすくすと笑いながら。
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