鈍色の先へ

上野たすく

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 遠野に会ってから、佐伯は俺を見なくなった。
 今まで一緒に洗っていた洗濯物も、コインランドリーで済ませ、食事も外で採る回数が多くなった。
 仕事場であるバーにカクテルを飲みに行ったが、俺がカウンターに座っても、佐伯は一言も話しかけてこなかった。
 自分と佐伯の間に、透明で分厚い壁があり、俺一人の力ではとても壊せそうになかった。
 佐伯が俺のところへ帰ってくる日が、月日を重ねるごとに減っていく。
 七月七日の佐伯の誕生日も、奮発して買ったケーキを一人で食べた。
 佐伯に嫌われた理由がわからない。
 どこが気に食わなかったのか、訊きたくても、佐伯は俺と会話を持とうしてくれない。
 心を半殺しにされているようだった。

* * *

 夏の暑さも過ぎ、木々が紅葉する頃、仕事帰りに本屋へ立ち寄った俺は、平積みされている雑誌のポップを前に俯いた。
 俺でも知っている新人賞の受賞者として、佐伯の名前が載っていた。
 涙を含んだ熱い息を吐き出し、雑誌を手に取って、ぱらぱらとページを捲る。
 同姓同名の場合もある。
 いくら佐伯が俺を嫌いになったとしても、夢を叶えたことくらいは教えてくれるはずだ。
 だって、俺達はそこで繋がっていた。
 誰よりも先に報告して欲しいわけじゃない。
 ただ、夢が叶ったって、あいつの口から聴きたい。
 佐伯の隣にたとえいられなくても、おめでとうと祝う権利は、俺にだってあるはずだ。
 だけど、〈佐伯英治〉の受賞作は、俺の友人である佐伯の部屋で見つけた、小説のプロットを、まとめあげたものだった。
 よたよたと歩いて部屋に辿りついた俺は、電気もつけず、夢を叶えた友人の作品が載る雑誌が入った袋を、ローテーブルに置き、数か月ぶりにカッターを手首に当てた。
 心の傷よりも強い痛みを得たかった。

 本当は、俺の腱鞘炎に気づいてくれて、嬉しかった。
 本当は、俺を追いかけてきてくれて、うれしかった。
 本当は、水族館へ誘ってくれてうれしかった。
 本当は、遠野さんに俺のことを好きだと言ってくれて、うれしかった。
 本当は……。

 刃を皮膚にたてる。

 本当は、佐伯の恋人になりたかった。

 少し力を入れると、細胞が千切れ、赤い一本の線が生まれた。
 だけど、体を蝕む痛みは消えてくれない。
 さっきより、奥へとめり込ませる。
 生温かい液体がツーと手首から腕を伝い、ベッドへと染み込んだ。
 そのとき、玄関のドアが開いた。
 とっさに、カッターを枕の下へ隠した。
 佐伯は真っ先に洗面所へ向かったようだった。
 手首を押さえ、クローゼットを開ける。
 収納ケースからタオルを取ろうとし、明かりのスイッチを入れた佐伯の気配に息を飲んだ。
 ぼたぼたと血が指の隙間から流れ落ちていく。
 佐伯は背後から俺の手を持った。

「自分でしたのか?」

 呼吸が乱れていく。

「こんなことして、何が楽しいんだ……?」

 涙が滲み出てくる。
 自分を傷つけて、楽しいはずがない。

「待ってろ。消毒液があったと思う」

 佐伯が憤っている。
 失望したと、今にも口にされそうで、手首を握りしめ、外へ逃げようとした。

「どこ行くんだよ! まだ、治療していないだろ!」

 佐伯に肩を掴まれた。
 振り向かせられ、怒りの粒子を纏った佐伯の顔に、膝が崩れた。

「動くなよ。絶対に、そこにいろ!」

 佐伯の声がガラス越しに聞こえる。
 俺のところへ戻ってくると、友人は傷口に消毒液をかけ、余分な液をティッシュで拭き取った。
 腕についた血も消毒液で落としていく。

「二度とこんなこと、するな。加藤には伝えたいことが、たくさんあるんだ。だから……」

 誰かが何かをしゃべっている。

「俺、文学賞、受賞したんだ。まとまった金が入る。二人でどこかへ行こう」

 誰かじゃない。
 俺の好きな人だ。

 相手の腕が背中を包み込む。
 知らない香りが衣服からした。

「俺さ、加藤にキスしてから、お前といると、体が熱くなって、お前の仕草一つ、見られなくて、病気なんじゃないかって病院まで行ったんだ。結局、健康体だって言われて終わりだったんだけど、動悸は続くし、お前に変なことを口走りそうで怖くて、そういえば、遠野が何か言いたげだったなって思い出して、会いに行った」

 あたたかい。
 気持ちがよくて、瞼が下がっていく。

「それは、恋だって言われたよ。俺の好きは、加藤の好きと同じだってさ」

 好き?
 誰が、誰を?

「恋だなんて、今更、どんな面下げて、お前に言えばいいのか、わからなかった。俺はお前を友達だって切り捨てたんだぜ? 自分の気持ちの解釈が間違っていたから、今までのことを帳消しにしてくれって、何様だって感じだろ? きっと、加藤がこんな状態にならなければ、踏み出せなかった。最低だって思う。だけど」

 ぬくもりが離れる。
 整った顔の男が俺を見つめてくる。

「加藤を好きな気持ちに嘘はない」

 俺を、好き?

 引き寄せられるように、唇を重ねた。
 その人は、何度も俺のことを好きだと言ってくれた。
 心が満たされていく。
 俺は恋人の胸の中で眠りに落ちた。
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