滲んだドクロ

上野たすく

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 倉庫化した部屋を出て、私たちは素知らぬ顔で再び親戚に酒を注いだ。
 義母は父と微笑みあっていた。
 翌日、私は父に頭を下げ、東京行の新幹線に乗った。
 また昼夜のない生活が始まり、どうにかこうにか、商談を良い具合に終わらせられ、私の首は繋がった。 
 それを祝うかのように、奴が、幸島が、現れた。
 私は彼と数十日を共に過ごし、空っぽになってしまった。
 そう、私の中にあった不安や不満や少しの希望、ありとあらゆる感情を、幸島は奪っていったのだ。
 幸島と別れて二週間経った今、仕事帰りに、私は初めて一人でバーに入った。
 グランドピアノがあるくせに、スポットライトも浴びず、総じて寂れているバーだった。
 私はどんなものかもわからないカクテルとやらを頼み、マスターの手つきを見つめながら、胃に落としていった。
 私はたぶん満たされたかったのだ。
 何でもいい。
 私の中で力に変わる何か、起爆剤のようなもの。

「その辺にしとけ」 

 崩れた口調に私は瞬きをした。
 男がいた。
 私の脇に腕を差し込み、スツールから腰を上げさせようとする。

「すみません。先に上がらせていただきます」

 男は心持高いトーンを出すとバーテンダーに頭を下げた。

「おい、代金がまだだ」

 バーテンダーが私に視線を向ける。

「ツケといてください。明日、俺が払います」

 男は私のアルコールで冷えた手を強く握りしめた。
 私はこの時、懐かしさを感じた。
 昔、よく私の手に触れてきた友人がいた。
 加藤だ。
 十九の冬、母の急死を受けた時、二十二の春、交通事故に遭い、生死を彷徨った時、就職活動で不採用通知に落ち込んでいた時、加藤は無言で私の手を握りしめてきた。
 私は不思議だった。
 彼には自分に起こったあれこれを洩らしていなかったからだ。
 彼がなぜ、こんなにもタイミングよく、二人きりになった時に手を重ねてこられたのか、今でもわからない。
 タクシーは大通りを走り、ネオンを滲ませた。
 男がかすかに鼻歌を歌いだす。
 途切れ途切れの平坦な音のライン。
 桜が脳裏を過ぎった。
 淡い桃色の花ではない。
 夜の暗さの中でさえ、緑の葉を茂らせたとわかる桜の木。
 葉桜だ。
 タクシーは住宅街で停車し、私は男に連れられて寂れたアパートの階段を上った。
 コンクリートの床が夜目でもひび割れを教えている。
 部屋は圧迫感だけを与える代物で、安らぎの欠片もなかった。
 引きっぱなしの布団はシーツがよれ、廊下につけられている流しにはカップラーメンの容器が化薬を残したまま捨てられている。
 男は電気も点けずに廊下を過ぎ、布団へと私を寝かせた。
 背広を脱がされる。
 男の体臭がし、私の瞼を下げさせた。
 男はシーツを整え終わると、冷蔵庫を開けた。
 ビールを二缶持ち出してくる。
 一缶を布団の傍に置き、もう一缶をあおった。
 吐息が鼓膜を震わせる。
 私は冷えた缶を指先で弾いた。
 爪が缶に当たる角度の違いで、低くも高くも響く。
 私は即興でリズムをつけた。
 男は何もいわず、私のでたらめな演奏を聴いていた。
 朝日と共に私の酔いは冷めた。
 一人の男が壁にもたれながら、私を見つめていた。
 そいつは目が合うと口角を上げた。
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