上 下
10 / 29
化狸・ぬりかべ

化狸・ぬりかべ②

しおりを挟む
 兄が持っていたグラスを落とした。

「俺のせい?」

 どうしてそう思ったのかは知らないが、恐ろしい事態であるのは流石に理解できた。

 頭を抱えている兄に代わって、レベッカは聞いた。

「二百の魔物って、どんな奴なの?」

「ヘルハウンドでございます。騎士数人で一体が倒せる程でしょうか」

「そ、それなら、どうにか……」

 この町にいる兵を掻き集めれば、五百人くらいにはなるだろう。相応の被害は覚悟しなくてはならないが。

「それとは別に、親玉が……」

「親玉?」

「オルトロスではないか、と」

 レベッカは魔物に詳しくない。何かのショックから立ち直った様子の兄が口を開く。

「オルトロスなら、まずい。普通の兵では、傷を付けるのも難しい。全滅もあり得る」

「そんな……」

 次に兄が視線を向けたのは、カラハである。

「もしも……、もしも、貴殿にかの魔獣と戦える力があるのなら、どうか……、どうか、この町をお救いください。今、戦っている兵らにも家族があり、領民は皆、大事な家族なのだ」

 身勝手な願いである。
 そして、兄がどうしてそこまでカラハに縋るのか、理解できなかった。

「カラハ様、兄はああ言っていますが、貴方様は旅のお方です。義理立てする必要は――」

「やってみましょう」

 そう言うと、カラハは窓の方へと走り、そこから外に出ていく。

「へ……、えええええ!」

 驚いて、レベッカは、窓際に走った。
 ここは邸宅の三階なのである。
 そして見た。
 城壁の西側に向けて、走っていくカラハの姿を。

「…………人間って、三階から飛び降りても平気だったのですね」

 この後、レベッカも窓から外に出ようとして、二人に止められる。

 ――――

 こんなに多くの魔犬が押し寄せてくる光景を見るのはベテランでも初めてだった。小隊の隊長でもある彼は、若い兵らに指示して、城壁の上から弓矢による攻撃を開始させる。
 正面から突破を試みてくるヘルハウンド。松明は灯っていたが狙いは暗がりで、しかもそのすばしっこさは狙って射貫く事は不可能だ。

「もっと矢を持ってこい! 一体ずつを狙うな。とにかく数を放て!」

 集団であるから、運よく当たってくれればそれでいい。
 だが、想定以上の素早さに、奴らは平気で他の魔犬に飛び乗っては、回避していった。

「畜生っ! 増援はまだか!」

 ヘルハウンドの強さは騎士四人分と言われているが、あれをどうやって攻撃できるのか。
 兵士らが読む教本によれば、ヘルハウンドを見付けたら、数名で囲み、徐々に距離を詰めて、一斉に攻撃を開始するように書かれている。
 だが、あの群の中に、飛び込んで接近戦など自殺もの。

「あ、当たった」

 と喜びを口にする若い兵がいた。
 良くやった――と褒めようとして、愕然とする。
 鏃はヘルハウンドに傷を負わせたものの、その足を止めさせるだけのダメージを与えていなかったのだ。

「接近戦で剣や槍で突かなくては駄目なのか? いや、まさか……」

 自分が産まれたばかりの頃にあった魔物との大きな戦いで、勇者が魔将を倒して終結に向かったが、残党の魔物らがまだ残っていた。
 記録によれば、背走する魔物らは、同種の中でも強かったとある。つまり、大戦でも生き残った強者ばかりであったのだ。
 このヘルハウンドたちは、強い。

「糞っ! どうやったら殺せる」

 魔犬らが城壁まで辿り着いた。この高さを簡単に越えられるはずはないが、門へと体当たりを始めたのだ。

「石を落とせ! 煮えたぎった湯、スープでもいい。落とせる物は何でも落として、西門は死守するんだ」

 準備不足は否めない。だから、古い鎧でも構わないから直ぐに掻き集めさせ、落としていく。
 ぶつけられたヘルハウンドは、一瞬だけ怯んだが、門からも城壁からも離れてはいかない。

 そこにやっと魔術師の部隊が到着した。
 彼らは横にならびながら、三列になる。これはかつて、勇者ノブナガが教えてくれたやり方であった。
 最前列が魔法を放つ。その間に、後ろは詠唱を始めて、準備を整える。魔法を放った術師は最後尾にさがり、呪文の詠唱に入る。この繰り返しで、絶え間なく魔法を撃ち続けるのだ。

 放たれた火球が魔犬に襲い掛かる。
 破裂したそれが、ヘルハウンドの体毛を焦がし、一定のダメージが与えられたようだ。

「よし、これなら――」

 次の瞬間、城壁をよじ登ってきた魔犬に、術者の喉が食いちぎられる。

「いかん! 魔術師を守れ!」

 魔術師は貴重だ。賢者ノアが後進を育てたが、元々、人間に魔術の高い才能を持つ者は少なく、育成にも時間がかかる。
 どうにか使えるまでに成長しても、魔法の威力そのものは、賢者の半分にも満たない。それでも物理攻撃に耐性の高い魔物もいて、相手は魔術師でないと無理だ。

 ヘルハウンドの爪は、硬い煉瓦を抉り、城壁を登ってくる。一体が成功すれば、その爪痕を利用すれば、より早く登ってこられた。

 魔術師の一人を殺した一体にも手間取る。
 その間に、また別の個体が超えてくるのだ。
 これでは、魔術師が狙われやすい場所に立たせられない。

 更に最悪の事に、ズシンと思い足音が聞こえてきた。
 闇からその姿が見えてくる。

 刹那、ベテランでさえも恐怖と驚きに行動を止めてしまった。
 そいつはオルトロス。双頭の犬の魔物は、教本に書かれた説明よりもずっと巨大であったのだ。
 全身に刻まれた古い傷が歴戦の証。生き残り、黒の森で力を蓄え、その身を竜の如くに巨大化させて、人類の前に現われた。
 誰が、あんなのに対抗できる?

「て……」

 撤退を叫ぼうとして、踏み止まった。
 町を守るのが自分の仕事なのである。
 既に異変は町の人々に伝えられている頃であろうか。それでもとても避難できている時間は経過していない。

「うわぁあああ――――」

 恐怖に立ち向かう勇気が勢いになって、一体のヘルハウンドの首を斬った。
 だが、殺すよりも上がってくる魔犬の数が多く、部下が目の前で倒れていくのだ。

 地獄絵図が始まろうとしている。

「ああ、勇者様、どうか……」

 子供の頃から憧れた存在に祈る。
 この期に及んで都合のいい夢を見た。
 我らの嘆きと悲鳴が天に届く時、神により勇者が使わされ、魔を払ってくれる。

 僅かに呆然としたその隙に、一体のヘルハウンドが襲い掛かってきた。
 迫りくる死。
 脳裏に浮かぶ、愛する家族の姿。

 ズバ――――ッ! 血飛沫が舞った。

 痛みはない。

「腕を振るえ! 抗い続けろ!」

 知らない男が立っていた。
 彼は美しい細身の剣を持ち、疾風の速さで、城壁の上を駆けていく。男の過ぎ去ったそこには、ヘルハウンドらの死骸が出来上がっていったのだ。

「な……、あの男は……、いったい……」

 誰だかは分からない。味方であるのは間違いない。
 そして、一撃で魔犬を斬り捨てていくその姿は、兵らに希望と活力を与えるのだ。

「生き残れるかもしれん。いや、勝てるのか?」

 希望が動き回っているように見えた。
 傷ついた部下を助け起こす。

「しっかりしろ。まだ、動けるか?」

「はい。こ、このくらい、まだまだ」

 地獄のように思えた戦場で、若者の笑みが見えた。

「ならば、剣を握れ。だが、無理はするなよ」

「ええ。あの御仁はいったい?」

「分からない。だが、もしかしたら……、我らの願いが、天に通じたのかもしれない」

「願い?」

 重々しい足音が聞こえ、オルトロスが近付いてくるのを感じる。
 すると、スキンヘッドの男が、城壁から飛び降りたのだ。

「お、おい……」

 この高さから飛び降りたのも驚きであったが、そこは魔犬の群がいる場所である。
 颯爽と現われ、登ってきたヘルハウンドどもを一掃した男が、自殺?

 しかし見たのは、更に驚愕の光景であった。
 彼の降り立った場所を中心に、次々と魔犬の首が刎ねられていく。

 混乱したのはヘルハウンドらで、城壁を襲うのを一瞬、忘れてしまったように見えた。

 一体を踏み台にして、彼が跳躍した。
 とても人間技とは思わない高さまで跳び上がると、懐から何かを飛び出して、ばら撒いていく。

「何だ? 葉っぱ?」

 木の葉が舞っていた。
 それがヘルハウンドに接触すると、姿が男のそれに変わるのだ。

 突然、目の前に人間の男が現われて、魔犬は慌てて襲っていく。
 しかし、その正体は同種のヘルハウンドだ。

 魔犬以上の素早さで、スキンヘッドの男は、敵の中を走り回り、跳躍しては、また木の葉を撒いていく。
 結果、ヘルハウンド同士が、殺し合ってくれる。

 スキンヘッドの男の援護を支持するベテランに若い兵が聞いた。

「あれは、いったい?」

「分からんが、幻術の一種じゃないのか? あんな戦い方もあるのか」

 彼が木の葉を撒いただけ、魔物同士で潰し合ってくれる。敵の数は一気に減少し、城壁を守る衛兵の負担も減った。
 だからと言って、休むべきではない。

「よし、この機に、犬っころどもを残らず始末するんだ」

 絶望の中から、士気も上がりきって、魔術師らも戻ってきた。

「彼には当てるなよ。我らの希望だ」

 動き回るスキンヘッドの男のいない場所を狙って、矢を放ち、魔法を撃つ。これだけでも徐々に数を減らしていける。
 このままいけば、勝てる。

 嘲笑うかのような咆哮が空を揺らした。
 巨大なオルトロスが、月光の下、その姿を完全に見せる。

 道を開けるヘルハウンド。

 巨獣とスキンヘッドの男が、今、対峙した。
しおりを挟む

処理中です...