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茂川先生と私
茂川先生と私 その1
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私の通う専洋大学は、新座から遙か遠く離れた、東京都の文京区にある。
自分で言うのも何だが、私はそれなりに真面目な男であるので、土日を除いて大学には毎日きちんと通っている。またたとえ土日でも、レポートなどの課題があれば、大学の図書館まで足を伸ばすのも辞さない。
その日も私は大学へ向かうため、家のそばにあるバス停で、下へと運んでくれる空飛ぶバスを待っていた。見上げれば雲が浮かんでいるが、見たところ雨が降る心配はしばらく無さそうだ。新座の人間は天気の変化を匂いと肌で感じることが出来る。
やがてバスがやってきて私はそれに乗り込んだ。私以外に客は数人のサラリーマンがいるだけであった。その昔、片道270円の空飛ぶバスに客が数人だけでは経営が立ち行かないのではなかろうかと、子どもながらに思っていた私だが、中学生に上がった辺りで父から「新座の空飛ぶバス事業は国から補助金が出ているんだ」という話を聞いて納得した。利権という言葉もそこで覚えた記憶がある。
バスはいくつかの停留所を経て、やがて下へと針路をとった。感覚としては長いエレベーターに乗っている時と同じで、僅かではあるが胃が宙に浮くような感じがある。
もう慣れたものだが、私は昔この感覚が嫌いであった。気圧差で耳が嫌な感じがしてくるのも相まって、違う世界へ連れていかれているような気分にさせられるのかもしれない。
窓の外へ目をやると、新座にいる時は豆粒程度であったビルやマンションが瞬きする度に大きくなっていく。新座を避けて敷かれた西武池袋線の線路に、黄色い電車が走るのが見える。かつて新座があった場所は、とんでもなく大きな穴がぽかんと口を開けている。地獄への入り口なんてものがあるとすれば、きっとあんな感じだろうと、私はあれを見る度に思う。
バスは大泉学園駅前に着陸した。急行電車に乗り込んだ私は池袋で山手線に乗り換えて、そこから巣鴨まで行って三田線に再度乗り換えた。目的地である白山駅に着いたのは八時半を過ぎたころだった。
駅から大学へ歩く途中、私に「おーい」と声を掛けてくる人がいた。振り返ると、そこにいたのは茂川先生であった。
茂川先生は私の通う大学に勤める妙な人である。目上の人に対して妙な人と呼ぶのもどうかと思うが、妙なのは事実であるので仕方がない。
彼は文学部哲学科の准教授でありながら、新座が空に浮かぶメカニズムを探ることに命を懸けている。もしかしたら、ひねくれ者の巣窟である哲学科の准教授にまでなった人だからこそ、こういった神秘に興味を持つのかもしれないが、結局のところそんなことはどうだってよい。傍から見れば妙な人は妙な人だ。
そんな妙な人が、何故私と知り合いかといえば、きっかけはやはり新座であった。
私が入学したてのころのことだった。生粋の新座市民が大学へやってきたという話をどこからか聞きつけた茂川先生は、経営学入門の授業を受けていた私の隣の席に突如として現れ、自分がいかに新座浮遊現象の謎解明に対して熱意を持っているかを語り、私を大変にうんざりさせた。
「もう来ないでください」
私はそう言い放ち、なんとか先生を追い払った。しかし翌日も、その翌日も先生は私の元にやってきて、溢れんばかりの熱意の押し売りをしてきた。
一週間と経たないうちに「だめだこりゃ」と根負けした私は、先生に「何がお望みですか」と訊ねた。
「ひと月に一度、君の健康状態を調べさせて欲しい。代わりに、僕の授業の単位はあげるから」
単位の話は丁重に断った上で、私は先生の頼みを引き受けた。そんな薄汚れた単位をもらうことは、私のちっぽけなプライドに反する行為であった。
茂川先生は私の隣に並んで歩き始めた。
「おはよう在原くん。元気そうだね」
「はい、元気です。茂川先生はどうですか?」
「元気も元気だよ。今日も僕のアパートから、よぉく新座が見えたからね」
「新座を見て元気になれる人なんて、茂川先生以外には中々いませんよ」
「ならいいじゃないか。珍しいことは悪いことじゃない」
茂川先生は何故か自慢げにガッツポーズしてみせた。
「それでさ、在原くん。今日は確か、君は3限目で授業が終わる予定だったよね。よければ、授業後に僕の研究室に来てもらっていいかな」
「私の授業予定を先生が把握していることへの疑問はさておき、次の血液検査はまだのはずですよ」
「わかってるって。でもさ、浮遊について中々面白い仮説があるんだ。生粋の新座市民である君の意見を是非とも欲しくてね」
先生の誘いを丁重にお断りしようとしたその時、私の脳裏に思い浮かんだのは青前さんの顔だった。脳内の彼女は、私に「一緒に新座の謎を探るって約束したでしょ!」と人差し指を突きつけた。脳内の彼女が言うようにしっかりと約束した覚えはないが、オムライスとパフェとコーヒーをタダで頂いた負い目はある。
私は「わかりました」と頷いた。
「お邪魔させていただきます。お話聞かせてください」
自分で言うのも何だが、私はそれなりに真面目な男であるので、土日を除いて大学には毎日きちんと通っている。またたとえ土日でも、レポートなどの課題があれば、大学の図書館まで足を伸ばすのも辞さない。
その日も私は大学へ向かうため、家のそばにあるバス停で、下へと運んでくれる空飛ぶバスを待っていた。見上げれば雲が浮かんでいるが、見たところ雨が降る心配はしばらく無さそうだ。新座の人間は天気の変化を匂いと肌で感じることが出来る。
やがてバスがやってきて私はそれに乗り込んだ。私以外に客は数人のサラリーマンがいるだけであった。その昔、片道270円の空飛ぶバスに客が数人だけでは経営が立ち行かないのではなかろうかと、子どもながらに思っていた私だが、中学生に上がった辺りで父から「新座の空飛ぶバス事業は国から補助金が出ているんだ」という話を聞いて納得した。利権という言葉もそこで覚えた記憶がある。
バスはいくつかの停留所を経て、やがて下へと針路をとった。感覚としては長いエレベーターに乗っている時と同じで、僅かではあるが胃が宙に浮くような感じがある。
もう慣れたものだが、私は昔この感覚が嫌いであった。気圧差で耳が嫌な感じがしてくるのも相まって、違う世界へ連れていかれているような気分にさせられるのかもしれない。
窓の外へ目をやると、新座にいる時は豆粒程度であったビルやマンションが瞬きする度に大きくなっていく。新座を避けて敷かれた西武池袋線の線路に、黄色い電車が走るのが見える。かつて新座があった場所は、とんでもなく大きな穴がぽかんと口を開けている。地獄への入り口なんてものがあるとすれば、きっとあんな感じだろうと、私はあれを見る度に思う。
バスは大泉学園駅前に着陸した。急行電車に乗り込んだ私は池袋で山手線に乗り換えて、そこから巣鴨まで行って三田線に再度乗り換えた。目的地である白山駅に着いたのは八時半を過ぎたころだった。
駅から大学へ歩く途中、私に「おーい」と声を掛けてくる人がいた。振り返ると、そこにいたのは茂川先生であった。
茂川先生は私の通う大学に勤める妙な人である。目上の人に対して妙な人と呼ぶのもどうかと思うが、妙なのは事実であるので仕方がない。
彼は文学部哲学科の准教授でありながら、新座が空に浮かぶメカニズムを探ることに命を懸けている。もしかしたら、ひねくれ者の巣窟である哲学科の准教授にまでなった人だからこそ、こういった神秘に興味を持つのかもしれないが、結局のところそんなことはどうだってよい。傍から見れば妙な人は妙な人だ。
そんな妙な人が、何故私と知り合いかといえば、きっかけはやはり新座であった。
私が入学したてのころのことだった。生粋の新座市民が大学へやってきたという話をどこからか聞きつけた茂川先生は、経営学入門の授業を受けていた私の隣の席に突如として現れ、自分がいかに新座浮遊現象の謎解明に対して熱意を持っているかを語り、私を大変にうんざりさせた。
「もう来ないでください」
私はそう言い放ち、なんとか先生を追い払った。しかし翌日も、その翌日も先生は私の元にやってきて、溢れんばかりの熱意の押し売りをしてきた。
一週間と経たないうちに「だめだこりゃ」と根負けした私は、先生に「何がお望みですか」と訊ねた。
「ひと月に一度、君の健康状態を調べさせて欲しい。代わりに、僕の授業の単位はあげるから」
単位の話は丁重に断った上で、私は先生の頼みを引き受けた。そんな薄汚れた単位をもらうことは、私のちっぽけなプライドに反する行為であった。
茂川先生は私の隣に並んで歩き始めた。
「おはよう在原くん。元気そうだね」
「はい、元気です。茂川先生はどうですか?」
「元気も元気だよ。今日も僕のアパートから、よぉく新座が見えたからね」
「新座を見て元気になれる人なんて、茂川先生以外には中々いませんよ」
「ならいいじゃないか。珍しいことは悪いことじゃない」
茂川先生は何故か自慢げにガッツポーズしてみせた。
「それでさ、在原くん。今日は確か、君は3限目で授業が終わる予定だったよね。よければ、授業後に僕の研究室に来てもらっていいかな」
「私の授業予定を先生が把握していることへの疑問はさておき、次の血液検査はまだのはずですよ」
「わかってるって。でもさ、浮遊について中々面白い仮説があるんだ。生粋の新座市民である君の意見を是非とも欲しくてね」
先生の誘いを丁重にお断りしようとしたその時、私の脳裏に思い浮かんだのは青前さんの顔だった。脳内の彼女は、私に「一緒に新座の謎を探るって約束したでしょ!」と人差し指を突きつけた。脳内の彼女が言うようにしっかりと約束した覚えはないが、オムライスとパフェとコーヒーをタダで頂いた負い目はある。
私は「わかりました」と頷いた。
「お邪魔させていただきます。お話聞かせてください」
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