あなたとぼくと空に住むひと

シラサキケージロウ

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茂川先生と私

茂川先生と私 その5

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 ドン・キホーテを後にした私たちは、再び空飛ぶ車に乗り込んで、茂川先生の運転の元、新座市役所の近くにある喫茶店へと向かった。

 新座に飲食チェーン店の類は一切無いが、代わりに、アンリのような個人経営の喫茶店や飲食店は数多くある。〝天空のまちの喫茶店〟というロマンだけを求めて、店を開く人がそれほど多いということである。

 茂川教授はアメリカンコーヒーをすすりながら、傍らに置いたかごの中で老描のようにじっと落ち着き払っているレプリカモメとやらについて説明しだした。

「コイツはね、いま世界中に飛んでいるカモメの祖のようなものなのさ。湘南のカモメも、ハワイのカモメも、バロー岬のカモメも、コイツがいなけりゃ生まれなかったんだ」
「そうなんですか。てっきり、レプリカのカモメだからレプリカモメなんだとばかり」と私は先生の話を半分聞き流す。
「違う違う。カモメのレプリカを無限に生み出せるからレプリカモメなんだ。いわばオリジナルカモメだね。それこそ、くりまんじゅうみたいにポンポン増えるぞ、コイツは」
「くりまんじゅうは増えないでしょう。何を言ってるんだか」
「……もしかして在原くん、ドラえもんを見たことがない?」

「ほとんど」と私が答えると、茂川先生は「ジェネレーションギャップだなあ」とぼやいた。

「それで、そのレプリカモメはなんで連れてきたんですか?」
「僕の仮説を証明するためさ」
「仮説っていうのは例の、新座は天からつり上げられてるんだってアレですか」

「そうさ」と先生は胸を張った。

「1000mを超える高度に浮いているにも関わらず、新座のライフラインはぴんぴんしている。春には桜が咲き乱れ、秋には紅葉が風に舞う。新座は空にありながら、天候に激しい変化があることと交通の便が悪いことを除けば、何の変哲もない埼玉の一市であった時とほとんど変わりがないんだ」
「私の友人も言っていました」
「見込みがある人だ。是非とも会いたいものだね」

「駄目です」と私が即答すると、茂川先生は「ちぇっ」と舌を鳴らした。

「さて――僕はこの不思議な現象に宇宙人が関係していると考えた。宇宙人の持つ未知のテクノロジーがあれば、そこに住む人の環境を変えないまま新座を空へとつり上げることも不可能じゃないだろう?」

 何やら突拍子もない話になってきたぞと思いながら、私は「なんで宇宙人がわざわざ新座を空へとつり上げる必要があるんですか」と正論をぶつけてみる。しかし先生は怯まず答える。

「見やすい位置で人類を観察したかったという理由は確かなんだろうけど、新座を選んだ理由はわからない。ゾウキリンが好きだったんじゃないかな」

 レプリカモメといい宇宙人といい、先ほどから先生の話は荒唐無稽にもほどがある。起きたまま夢でも見ているのではなかろうか。頭の奥がずきずきと痛くなってくるのを感じた私はたまらず席を立った。

「色々お話聞けて楽しかったです。では、そろそろ帰りますね。実験がんばってください」
「ま、ま、待ちなよ。せっかくここまで話を聞いたんだ。どうせなら最後まで付き合おうよ」
「いいえ結構。NNSとやらが作った地下空間は興味深かったですが、先生の仮説にはサッパリ興味がわきません」

 私がそう言い放つと、先生は仕方ないと言いたげな表情で鼻から大きく息をついた。その表情に私は妙に腹が立った。

 先生はおもむろに懐からジョニーウォーカーの瓶を取り出した。先ほど、ドン・キホーテで買っていたものである。何をするのかと思っていると、先生はティースプーンを器用に使って、かごの中のレプリカモメの額にウイスキーを数滴垂らした。

 そんな狼藉を受けてなお、カモメは怒るどころか、相変わらずのすました顔で毛づくろいを始めた。大したカモメである。

 やがてカモメの身体から羽根が一本抜け落ちた。かごに手を突っ込んで羽根を拾った先生は、それに息を吹き付けて宙へと舞わせた。

 ふわりと浮き上がった羽根は、突如マシュマロのようにぷっくり膨らんだ。それはまるでミルク石鹸を泡立てていくかのように、見る見るうちに自己増殖を繰り返し――十秒ともしないうち、あろうことかカモメへと姿を変えた。

 何の前触れもなく現れたカモメに店内は騒然となった。店主は奥から持ってきたほうきを振り回し、私達以外の客はきゃあきゃあと喚いた。

 そんな騒がしい中で、私は本日二度目の「あり得ない」に言葉を失っていた。

 私は青前さんや茂川先生と違って、不思議な現象にそこまでロマンを求めるタイプではない。しかし心とは裏腹に、こうなると三度目もあるのではという期待が否応なしに湧いてくる。

 私が「どんな実験をするのですか」と、らしくないことを本心から言うまで、それほどの時間を必要としなかった。

「ようやく本当にやる気みたいだね」と先生は微笑んだ。





 喫茶店を出た私たちは空飛ぶ車に乗り込んで、六十年前に閉鎖された新座の駅へ向かった。駅周辺は閑散としており、目に付くのは文字の掠れた居酒屋の看板だとか、ぼろぼろになった水車のレプリカだとか、とにかく廃れた印象を持たせるものばかりである。そう離れていないところに大きなマンションがあるというのに、ここへ人の来る気配がないのは、いくら待っても電車が来ない駅というのは生きるにおいて全く無用の存在であるからだろう。

 閉じ切りの自動改札をひょいと乗り越え、階段を昇って駅のホームに立った私たちはそろって空を見上げた。空の遠くの方には灰色の濃い雲が広がっているのが見える。もう十分もしないうち、新座は雨に包まれることだろう。

 茂川先生はかごを開け放つと、レプリカモメをひょいと抱え上げた。カモメは悟りを開いたような顔で虚空を見つめてばかりである。先ほどまでは何も考えていないように見えたその表情も、彼が起こした奇跡とも呼ぶべき事象を目の当たりにした今となっては、やたらと神秘的に映る。

 はっきり言えば私にとって、宇宙人がどうだとか新座が空を飛ぶ理由だとかはどうでもよい。青前さんには少し申し訳ないが、現在の私にあるのは、レプリカモメが増える様をまた見てみたいという、小学生以来失いかけていた純粋な知的好奇心ばかりである。

「早いところレプリカモメをくりまんじゅうみたいに増やしましょうよ」

「わかってるさ」と答えた先生は、カモメをそっとホームにおろし、おすまし顔の彼の全身にゆっくりとジョニーウォーカーを振りかけていった。

 カモメは寒そうに全身を震わせた。ジョニーウォーカーのしずくが辺りに飛び散り、スモーキーな香りが風に乗って口元まで漂ってきて、それだけで酔いそうになる。

 やがてレプリカモメの羽根が一枚、また一枚と抜け落ち始め、それら全てが先のように自己増殖を繰り返して次々とカモメに姿を変えていく。さらに増えたカモメからもまた羽が抜け落ち、やがてそれもまた別のカモメへと姿を変えていき――駅のホームは一分足らずでカモメに溢れ、足の踏み場も無いほどになった。

「クークー」という止まない彼らの鳴き声に囲まれながら、私は「すごいな」と呟いた。理解の範疇を楽々と超えた出来事の前には、その程度の言葉しか出てこなかった。

「しかしこのカモメたちで、新座浮遊の原因が宇宙人の仕業だと、どうやって証明するつもりですか」

 レプリカモメへ向けられていた好奇心が、とうとう私にそんな質問までさせた。すると茂川先生は嬉々とした表情で語り出した。

「宇宙人の目的が新座市内に住む人間の観察だとすれば、彼らはきっと超長距離用の望遠鏡のようなものを使って僕らの生活を覗き見ているはずだろう。だったら、新座を彼らから見えないようにしてやれば、なんらかのアクションを僕たちにもわかるように起こすはずさ」

「つまり、彼らをおちょくって、どのような出方をするのか伺うんですね?」
「まあ、身も蓋もなく言えばそうなるかな」

 にやりと笑った先生は、「さあ頼んだぞ」と声を張り上げ指を鳴らした。するとホームにいた全てのカモメは面倒くさそうにバタバタと翼を羽ばたかせ、空へ向かって一斉に飛んでいった。

「アイツはお酒が大好きでね。ウイスキーを飲ませれば、たいていのお願いは聞いてくれるんだ」
「飲んだというより、浴びただけのように見えましたけど」
「よく言うだろう、浴びるように飲むって」

 先生がそんなつまらない冗談を言う最中にも、レプリカモメは空で絶えず増殖を繰り返しいく。やがて彼らは連隊を組み、新座上空で旋回してカモメの天井を形成し始めた。煙草の灰を水に溶かしたような色の雲の代わりに、幾重にも重なった白の翼がわさわさとうごめく様が空の景色を占拠する。町全体がみるみるうちに影に覆われていくのがわかる。

 事はそれだけに終わらなかった。カモメは空だけではなく、宙に浮く新座それ自体を包み込み始めたのである。まだ日も高いうちだというのに、瞬きひとつする度に、新座は星と月の無い夜になっていく。

「少しやりすぎではないでしょうか」
「やりすぎなくらいがちょうどいいのさ!」と先生は高らかに笑った。

「さあ、どんどんやってくれ!」

 空気がどんどん生ぬるくなっていく。闇の中にごうごうと羽ばたく音ばかりが聞こえる。黒い台風に飲み込まれたような気分になる。

 もしや地球はこのままレプリカモメに埋め尽くされるのではと、私が危惧した時のことだった。空気を裂くような轟音と共に、カモメのドームに大穴が空いた。

「なんだぁ?!」と茂川先生が叫んだ。もう一度轟音が響き、天井にもうひとつ大穴が空いた。穴からは黒い雲が広がっているのが見える。音の正体は雷だった。

 カモメたちは穴を塞ぐように再び連隊を組む。しかしそんな努力をあざ笑うかのように、雷は幾度と彼らを貫いた。虫食いになったカモメの天井からは強い雨が吹き込んだ。

 やがて一匹のカモメがこちらに向かって逃げるように飛んでくるのが見えた。彼はなだらかな下降線を引きながら高度を下げていくと、新座駅のホームへと軽やかに滑り降り、それから「クークー」と高い声で鳴いた。

 するとどうしたことだろうか。新座を落雷から守るかの如く上空を飛んでいたカモメは、見る見るうちに姿を消していった。一分もせずにカモメ達は残らず消え失せ、空には黒い雨雲が見えるようになる。残ったのはただ一匹、駅のホームで呑気に毛づくろいをする彼ばかりである。あの大物加減は、間違いなくレプリカモメの本体であろう。

 毛づくろいを終えた彼は、私達の元にひょこひょこと近づいてくると、先生の足下に置いてあったかごの中に自ら飛び込んだ。羽根の一部分が焦げていること以外、彼の見た目は増殖を開始する前と遜色変わりなかった。

 その時、ふいに茂川先生が「成功だッ!」と拳を突き上げたので、私は心底驚いた。

「……どこも成功のように見えませんが」

 そう言いながら私は空を見上げた。

「先生の話では、宇宙人がアクションを起こすはずでしょう。でも結果は、カモメに雷が落ちただけでした」
「馬鹿だなあ、在原くん。いくら新座は落雷の被害が多いからって、こんなタイミングで雷が発生するわけがないだろう? これはきっと、宇宙人が自分たちの存在を悟られたくなくって、雷発生装置でも使ったんだろうさ」
「元々雨は降りそうでしたよ。十中八九、偶然だと思いますけどね」
「認めたくないのもわかるけどね。でも、君が目を逸らしたところで、真実が変わることはないんだよ」

 茂川先生はにんまりと笑った。

 それから十分ともせずに雨も雷も止んだので、先生はますます有頂天になった。





 実験が終わってから、私は茂川先生と新座駅で別れた。先生はこれからNNSのメンバーと共に、今日の実験結果について夜中まで語り合う予定らしい。先生は私に「一緒に来ないか」と言ってその宴席に誘ったが、さすがにそれは断った。先生のような人が複数人いる場に引っ張られて正気を保つ自信は私には無い。それこそ先のレプリカモメのように、ジョニーウォーカーを浴びるように飲まなければやっていられないだろう。

「じゃあ、在原くん。また大学でね」

 茂川先生はそう言って手を振って、デロリアンを発進させた。そのまま時でも超えるのだろうかと思って見ていたが、時空が裂けて車が消える――などということは起きず、普通にどこかへと飛んでいった。

 私は駅から自宅までの道のりをのんびり歩いた。レプリカモメの増殖する様を見た時の余韻を大事にしたくて、あえてバスは使わなかった。

 雨上がりに吹く風は冷たくて頭がよく冴える。耳たぶも頬も痛いほど熱い。しかしどれだけ風が冷たく吹き付けようと、私の中にあるふわふわとした高揚感がどこかへ飛んで消えていくということは無かった。今日は家に帰っても、何も手に着かないかもしれない。

 その時、私の背後からチリンチリンと自転車のベルの鳴る音がした。振り返ってみると、そこには自転車に乗った青前さんがいた。彼女は頬を赤らめ、走り出した機関車のように鼻からふんふんと白い息を吐きだしていた。

「ナリヒラくんっ! さっきの見てた?! 何が起きたのかなっ! もしかして、新座浮遊に関係あったりするのかなっ!」
「さっきのというと、新座を覆ったアレのことですか」
「それ以外に何があるのさっ! ああもうホントすごかった! 思わずお店飛び出してきちゃったもん! というか、なんでそこまで落ち着いてるのっ!」
「落ち着いてるわけじゃありません。余韻に浸っているんです」

 私は青前さんに微笑んだ。

「青前さん、レプリカモメってご存知ですか?」

「知らない。ナニソレ」と彼女はぽかんとした表情を見せる。

「さあ、私にもわかりません」

「意味わっかんないっ!」と青前さんは頬を膨らませて空へと叫んだ。雨上がりの澄んだ空へとその声は消え、新座の大気をわずかに震わせた。
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