あなたとぼくと空に住むひと

シラサキケージロウ

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佐和田さんと私

佐和田さんと私 その7

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 アンリまで戻った私達が店内でコーヒーを飲んでいると、二階の居住スペースから降りてきたマスターが、私達を見て不思議そうに目をぱちくりさせた。無理もないことだ。これほど早く青前さんが戻るとは思ってもいなかっただろうし、成人式には出ていないはずの私までいるのだから。

 マスターはしばらく白昼夢でも見たかのように固まっていたが、青前さんが「ただいま」と言ってからの行動は早かった。彼は青前さんの肩をぽんと叩くと、「着替えてらっしゃい」と優しく促した。小さく頷きそれに従った青前さんは、二階へと続く細い階段を窮屈そうに昇っていった。

 青前さんの後姿を見送ったマスターはホッとしたようにため息を吐いた。

「在原くん。娘に何があったのかな」
「ちょっとした意見のすれ違いです。どうやら、彼女の友人とこの町について言い合いになったらしくて」
「なるほど。あの子らしいといえばあの子らしい」

 マスターは私達が飲みかけていた温いコーヒーを片づけると、新しいコーヒーを淹れにかかった。コーヒーをカップに注ぎながら、「落ち込んだ時にはあったかいものさ」と言った彼は、それをトレーに乗せて私に手渡した。

「それに、甘いものも必要だ。ホットケーキを焼いてあげることにしよう。フルーツと生クリーム、それにハチミツたっぷりの。在原くんは、上で娘と待っていて貰えるかな」

「かしこまりました」と言って私はトレーを受け取った。

 細い階段を昇った先にある廊下の左右には、等間隔で扉がふたつずつ並んでおり、それぞれトイレ、リビング、風呂、青前さんの部屋へと繋がっている。マスターの部屋や物置などは三階にある。

 私は階段を昇って左奥にある青前さんの部屋をノックした。

「青前さん、コーヒーをお持ちいたしました。じきにホットケーキも焼きあがります。入ってもよろしいでしょうか」
「レディーの部屋に入るつもり?」
「入るなというのならば、部屋の前で待たせていただきます」

 それから少し間があって、部屋の扉が不満そうにキィと音を立てて開いた。「失礼します」と言いながら部屋に入ると、彼女は床にどっさり腰を下ろし、テーブルに頬杖を突いて窓の方を眺めていた。うぐいす色の振袖が窓際のベッドに放り出されており、彼女は上下黒のジャージ姿に着替えていた。

 青前さんの部屋に入るのはおよそ半年ぶりのことである。以前ここに訪れた時には、彼女と共に「マンマミーア」という映画を観た。

 彼女の部屋はやや煩雑としている。窓際にはピンクのシーツが敷かれたベッド、中央には丸い机がひとつ。その両方に読みかけの雑誌やら、開いたままのDVDのパッケージなどが置いてある。壁際には大きなテレビと、低音がよく響く大きめのオーディオ機器。天井ほどの高さまであるスライド式の本棚には、小説やゲーム、映画のブルーレイなどがぎっしり詰まっている。

 変わらない景色を横目に、私は彼女の前に腰を下ろしてコーヒーを手渡した。

「天岩戸にならなくて何よりです。ご気分いかがですか?」
「気分はいいけど機嫌は悪い」
「だろうと思いました」

 それから十分ほどした後、マスターが一階から「出来たよーう」と私達に呼びかけた。下で食べるかここで食べるかを青前さんに尋ねたところ、彼女は「ここ」とだけ呟き、それを答えとした。

「では、お持ちしましょう。少々お待ちください」と言って私は部屋を出た。

 フルーツと生クリームがいっぱい乗せられたホットケーキをマスターから受け取って部屋まで戻ってくると、青前さんは少し表情を明るくした。同時に、くぅと腹の鳴る音が微かに聞こえる。どうやらよほど空腹であったらしい。

「甘いものをお腹いっぱいに食べれば、きっと機嫌もよくなります」

 テーブルにホットケーキを置くと、青前さんはすかさずフォークとナイフを取ってそれを食べ始めた。ホットケーキ程度で機嫌を直したと思われたくないのか、食べている間、彼女は努めて表情を変えないようにしていたが、その努力も半分ほど食べ進めたところですっかり形を潜めた。

 表情を笑顔に変えた青前さんは、口元のクリームを紙ナプキンで拭いつつ、「ナリヒラくんも食べるかい?」と訊ねてきた。

「遠慮しておきましょう。しかし、この部屋も変わりませんな」
「こら。女の子の部屋をじろじろ見ないの」

 幸せそうにホットケーキを頬に詰める青前さんは、ふと私の胸元をじっと見た。彼女の視線の先にあるのは、例のゾウキリンネックレスであった。

 彼女は口の中に残っていたものをコーヒーで喉の奥まで流し込むと、私のネックレスを右手のナイフで差した。

「もうそんなの売ってるんだ。思ってたより商売っ気盛んなんだねぇ、新座って」
「いえ。これは売り物ではないのです。貰い物でして」
「ふぅん。誰から貰ったの、そんなの」
「アマメですよ。お祭りのお礼に、と」
「そうなんだ。小学校の授業かなにかで作ったのかな」
「こんな凝ったものを、ですか? まさか」
「あたしだって、小学校の工作の授業でゾウキリンの貯金箱作ったことあるんだよ。紙粘土に色塗ってさ。今だったら、ネックレスくらい作ってもおかしくないんじゃない?」

 同じゾウキリンをモチーフにしたものとはいえ、紙粘土の貯金箱と金属製のネックレスを同等に置いてよいものか。そんな私の迷いを余所に、青前さんの意識はネックレスからは既に遠く離れてしまったようで、彼女は何かを思案するように指であごをつまんで何やらぶつぶつ呟いている。

 やがて彼女はフォークとナイフを皿の上に置くと、「行こうか」と言って腰を浮かせた。

「どこへ行くのです?」
「思い出を探しに。〝おしいれのぼうけん〟だよ」

 やけに詩的なことを言った彼女は、自らの言葉に自分で恥ずかしくなったのか僅かに頬を赤く染めた。





〝おしいれのぼうけん〟という絵本がある。保育園の先生に叱られ、押入れに閉じ込められたふたりの少年が、押入れの奥へと繋がっていたトンネルの向こうへ冒険に赴くという話だった気がするが、それ以上の詳しい内容は覚えていない。間違いなく覚えているのは、少なくとも二十歳前後の若者達が、遠い日の思い出を探しに押入れを開けるような話ではなかったということばかりである。

 三階に昇った私達は、一番奥の物置となっている部屋の扉を開けた。こまめに整理されているらしく、ほとんどの物はクリアボックスや木製のチェストに収納され、部屋には秩序が与えられていた。しかし奥まったところにある押入れとなれば別である。

 小学校高学年のころ、一度その押入れの戸を青前さんと共に開けたことがある。あの時は大変な目に遭った。戸を開けた瞬間、押入れの奥で自己増殖を繰り返した思い出の品々が部屋に溢れ出し、整理するのにのべ三日は必要とした。要するに、不要なものも必要なものも、全て〝思い出〟と称してあの中に詰め込んであるのだ。

 青前さんは押入れの戸に手を掛けると、私に振り返って神妙な顔で「覚悟はいい?」と尋ねてきた。

「もしかしたら、開けたら最後。増えすぎた思い出が部屋に溢れ出して、窓を突き破って、新座を覆うかもしれないよ」
「まさか、そのようなことあり得ませんよ」
「だといいんだけど」

 青前さんは静かに押入れの戸を開けた。その瞬間、押し込められていた埃とカビの匂いが部屋中に充満する。私は慌てて窓へと駆け寄り、勢いよく開いた。冷たい空気が吹き込んできたが、匂いを我慢するよりはずっとマシである。

「いやあ、酷い匂いだねぇ」

 青前さんは鼻をつまみながらけらけらと笑う。

「定期的に掃除しなきゃダメだね、これは」
「そんなことよりも、思い出の腐海を泳いでどのようなお宝を探すおつもりですか」
「さっき話した貯金箱。あれを探そうと思ってさ」

 彼女の行動は相変わらず気まぐれかつ突発的であったものの、今回ばかりはその裏にある意図を読み取るのは容易かった。

 今日の青前さんは成人式に出席した。本来なら、その後の集まりにも参加するつもりであった。彼女はそこで、小、中学生時代の思い出話に花を咲かせるつもりであったに違いない。同級生の失敗談や叶わなかった淡い初恋などの四方山話を並べ立てるつもりであったに違いないのだ。しかし彼女の目論見はあえなく空を切ることになる。そもそも彼女の周りには、思い出話など御免被りたいという人が多かったのだ。

 過ぎ去りし日を懐かしむ気持ちで過充電になった彼女の身体は、いままさに爆発寸前である。発散する場所がなければどこかで暴発する。ならばこの場合、私が彼女のお相手になるのが最善であろう。

「わかりました」と私は頷いた。

「なら、早速探しましょう」

 物置からは紙粘土で作られたゾウキリンの貯金箱以外にも様々なものが出てきた。

 弾まなくなったゴムボール、使いかけのボールペン、いつか観た映画のパンフレットと、そこに挟まったチケットの半券、チョコレートフレーバーの消しゴム、綺麗な貝、丸っこくてつやつやした石、動かない懐中時計……。青前さんはそれらひとつひとつに込められた思い出を、まるで昨日起きたことであるかのように語っていく。楽しいこと、悲しいこと、驚いたこと、嬉しかったこと。寄せては返す思い出の波に揺られるまま、私達はしばらく過ごした。

 やがて青前さんが見つけだしたのは一冊のスケッチブックであった。色あせたオレンジ色の表紙のそれは、ずいぶん古びていてボロボロである。相当年期の入ったものらしく、ひらがなで書かれた名前がすっかり掠れて全く読み取ることが出来ない。

 さて、ここにはどんな思い出が詰まっているのであろうと思いきや、それは彼女にとっても見覚えがないものらしく、「なんだろコレ」と首をひねるばかりであった。

「ご存じ無いのですか?」
「うん。初めて見た。中見れば何かわかるかな」

 そう言いながら青前さんはスケッチブックを開く。しかし中身を見てもやはりわからないようで、彼女は目を細くして両手の人差し指でこめかみの辺りをぐりぐりとマッサージした。

「わっかんないなあ。大抵はあたしのもののはずなんだけど」
「私にも見せてもらってもいいですか?」

 スケッチブックを開いてみると、主にクレヨンを使って描かれた幼いタッチの絵がいずれのページにも並んでいた。描かれているものは様々で、いちごやみかんの果物だとか、大きな白い蛇だとか、林で遊ぶふたりの女の子だとか、髭を蓄えた大男だとか、黄色い馬だとか、そこに規則性は感じられなかった。この無軌道加減がいかにも青前さんの子ども時代らしいのだが、彼女のものでないということは、さて。

「お母さんのヤツかな」と言いながら、青前さんは床に開いたスケッチブックをぱらぱらとめくっていく。やがて彼女がその指を止めたのは、ページいっぱいの大きさでゾウキリンが描かれたページに差し掛かった時のことだった。

「ゾウキリンですか」
「みたいだね。誰が描いたのかは知らないけど、どれだけ好きなんだか」

 呆れたように青前さんは言ったが、その実、彼女の声はどこか嬉しそうに弾んでいた。





 青前さんはすっかり機嫌を良くして、私はマスターからそのお礼にと夕食をご馳走になることとなった。見返りが欲しくてやったことではないが、もう三人分用意してしまったとのことだったので、素直にお呼ばれすることにした。

 貸し切りになったアンリの店内で、私はふたりと夕食を共にした。テーブル席にはスモールピザやチキンソテーのガーリックソース掛け、それに、私がいつも注文するオムライスが乗っていた。

 食事の最中、例のスケッチブックについて口にしたのは青前さんだった。

「ねえ、お父さん。お母さんって絵を描くのとか好きだったのかな」
「いや、君によく似て芸術よりも体育って感じの人だったけど……それがどうしたんだい?」
「押入れを漁ってたら見覚えの無いスケッチブックを見つけてさ。お母さんが描いたのかなって」
「ちょっと見せてもらってもいいかな?」

 青前さんは上の階からスケッチブックを持ってきて、それをマスターに手渡した。彼はそれをまじまじ見た後、「おばあちゃんのかな」と言った。

「これ、おばあちゃんが描いたんだ」
「僕にとってのね。つまり、君にしてみたらひいおばあちゃんが描いたものになる」

 マスターはしみじみ言った。「それにしても、こんなものがまだ残ってたんだなあ」

 青前さんは「そっか」と呟き、スケッチブックをきゅっと抱きしめた。
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