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佐和田さんと私
佐和田さんと私 その8
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翌日の午後三時過ぎ。大学から帰った私を駅で出迎えたのは、デロリアンに乗った茂川先生と佐和田さんであった。私の記憶が正しければ、茂川先生は五時限目にも授業を受け持っていたはずだが、どうしたのだろうか。
「授業なら心配しないでいい。休講にしたんだ」
私の心を読んだかのように茂川先生はそう言った。
「どうせ生徒数の少ない授業だしね」
「それは構いませんが、何をしに来たのでしょうか」
「私の家に招待しようかと思ってね」と私の問いに答えたのは助手席に乗る佐和田さんである。
「家を買ったんだ。中古だが、なかなか気に入ってる。君の予定はどうかな?」
「夜からであれば是非とも。この後はバイトが入っているものでして」
「なら、そうしよう。また連絡を入れるよ」
佐和田さんが「バイ」と二本指の敬礼をすると共に、先生が車を発進させた。空に飛び立つそれを、私は手を振って見送った。
その日のアンリもほどほどに盛況であった。しかし悲しいことに、マスター考案の〝ゾウキリンライス〟は片手で数えられるほどしか注文されなかった。「だからヘンな色気なんて出さなくってもいいの!」と青前さんに叱られて、残念そうに笑う彼の顔が妙に印象に残った。
夕方の五時過ぎに手伝いを終えてアンリを後にした私が、帰路の道すがら茂川先生に連絡すると、家に到着すると同時にデロリアンに乗った先生が私を迎えに来た。その速さに少々驚きながら、「ずいぶん早い到着ですね」と私が言うと、彼は「ずっと新座にいたからね」などと平然と口にした。
「なんと。それは申し訳ないことをしました」
「構わないよ。佐和田さんの家は新座にあるんだからね」
「新座に家を買ったんですか? なんて物好きな」
「物好きなのはわかりきったことじゃないか」と茂川先生は大口を開けて笑った。
「さあさあ在原くん。乗って乗って。彼女が首を長くして待ってるよ」
茂川先生がデロリアンを飛ばしたのは、新座の端の菅沢という名の地域である。東京の清瀬市との境にあり、かつては十文字学園女子大学という歴史ある学校があった場所だが、その学校も新座が空への浮遊を始めてからは早々にこの地からの撤退を余儀なくされた。いくら太い幹を持つ木でも大地震には耐えられないのと同じように、理不尽に大きな力の前では積み重ねてきた歴史は無意味である。
やがて私達が辿り着いたのは、菅沢の端にある、背の低い三階建てのビルであった。ここまで来ると新座の端はもう目と鼻の先で、この町を囲う高いフェンスが家からでも見える距離である。
しかし何より注目すべきは屋上のオブジェクトであろう。どんな目的で設置されたのかは知る由もないが、古い恐竜図鑑に描かれたような緑色のティラノサウルスの首から上だけの模型が、屋上にでんと構えている。入口となる扉の隣に大きなシャッター扉があったり、広い窓には中が見えないようにカーテンが固く閉ざされていたりと、全体的に怪しくいかにも秘密基地めいた気配がする。
茂川先生が屋上のオブジェクトを指さしながら説明した。
「アレは佐和田さんの趣味じゃなくて、元々この家にあったものでね。彼女のことだから、じきにゾウキリンに変えることだろうさ」
私はこの家の屋上にゾウキリンが立つ姿を想像した。ぼんやりとした表情でどこを見るでもなく立ち続ける彼の姿は、どこか仙人のようである。川越街道のドンペンに代わり、新座を見守り続ける新たなる守護者となってくれるに違いないとまで思わせた。
「そんなことをすれば、きっとここが新座の名所になりますよ」
「だろう? その時がくるのが楽しみでしかたないよ」
茂川先生に案内されながら、私は家の中へと足を踏み入れた。一階はコンクリート打ち放しの広い部屋で、ビーカーやフラスコなどの実験器具や、ドラム式洗濯機をふた回り大きくしたような無骨な機械。常にヴーンと低い音を立てながら振動を続けるたくさんのツマミがついた電子レンジのような機械などがあり、謎めいた研究室という様相であった。
階段を昇って二階に上がると、そこは一階とは打って変わって全面フローリング貼りのモデルルームのような部屋であった。ソファーやチェスト、テーブルなどの家具はシックなデザインで統一され、まるで彼女の内面を表しているかのように整然と並んでいる。
ソファーに座って待っていると、やがて佐和田さんが料理皿を両手に持って階段を降りてきた。ゾウキリンがプリントされたパーカーを羽織っているが、例のスウェットと比べればそこまで派手ではない。
彼女は料理皿を次から次へとテーブルに並べた。麻婆豆腐や餃子、春巻き、エビチリなどの中華料理が皿の上で美味しそうに湯気を立てている。「作ったのですか」と私が尋ねると、彼女は「レンジでチンさ。便利な時代になったものだ」と言ってウインクした。ある意味、手料理を持ってくるよりも彼女らしいといえば彼女らしい。
やがて各々のグラスに赤ワインが注がれ、乾杯の時となった。乾杯の音頭を取ったのは佐和田さんだった。
「茂川、君の新座への情熱は目を見張るものがある。君と共に過ごした日々が私を成長させた。そして在原くん。私は本当に君に感謝している。君の協力がなければ今日という日は無かっただろう。さて、とりあえずは乾杯だ。私達の出会いと、今日という日に」
私達はグラスをぶつけ合った。値が張るグラス特有の、チンという高い音が響いた。
その日、私は生まれて初めて赤ワインというものを口にした。葡萄を使った酒だということは知っていたので、てっきり甘みがあるものかと思っていたがそうではなかった。コーヒーとはまた違った苦さ――いや、これは渋さと呼ぶのであろう。とにかくそれがなんとも複雑な香りと共に口の中に広がり、私は思わず首を捻った。
「お口に合わなかったかな」と佐和田さんは言った。
「いえ、そんなことは。ただ、赤ワインを飲むのは初めてでしたので。てっきり甘みのあるものだとばかり」
「私も昔はそう思っていた。甘い酒が良ければサワーなんかも用意してるが、どうする?」
「このままで構いません。少し慣れればきっと美味しくなります」
「焦らなくてもいい。苦いものを飲むことばかりが大人への近道ではないのだからね」
それから私達は、電子レンジが甲斐甲斐しく調理した中華料理を口にしながらワインを飲んだ。茂川先生と佐和田さんは思っていたよりも飲むペースが早く、一時間経たないうちに二本のワインボトルが空になったので驚いた。
アルコールに顔を赤らめた茂川先生が、佐和田さんの肩をばしばし叩いて笑った。彼は酔うと面倒くさくなるタイプの笑い上戸であった。
「しかし、佐和田さんの研究は実に見事だ。いつだって君は僕の想像の遥か上を行ってくれる。すばらしいよ、本当に」
「褒めすぎではあるが、悪い気はしないな」と佐和田さんは微笑を浮かべる。彼女の場合は多少酔っても頬を僅かに赤らめるだけで、見た目だけならいつもと大して違いはない。
「いやいや、謙遜することはない。本当に見事だよ。今回の件だって、まさかここまで上手くいくとは思ってもいなかったんだから」
「私だけの力ではここまでやれることはなかったさ。茂川と、それに何より在原くんがいてくれたからだよ」
「私は何もやってはいませんよ」
「忘れたとは言わせないぞぅ」と茂川先生は私の頬をツンツンと突く。
「松ぼっくりと放生池の水を持ってきてくれたじゃないか」
「それがなんだというんです。そもそも、〝今回の件〟とは何を指すんですか?」
「そういえば、説明がまだだったね」
佐和田さんはグラスの中に残っていたワインを一気に仰ぐと、とんでもないことを口にした。
「いま世間を騒がせているゾウキリンは私が創り出した。君が持ってきてくれたふたつの材料を使ってね」
〇
佐和田さんが詳しい説明をしてくれることになったため、私達は宴会を一旦中止し共に一階へと降りて行った。
そもそも彼女の「ゾウキリンは私が創り出した」という言葉は信じてもいいものなのだろうか。彼女は嘘を吐くような人ではないとは思う。茂川先生も同じだ。しかし、酒を飲みすぎて夢と現実の境があやふやになっているだけという可能性だってある。
そんな私の心配を余所に、鼻歌まで歌ってすっかり上機嫌の佐和田さんは何やらせっせと準備を進めている。家に入った際にちらりと目にした器具や機械を、時に組み立てて時に重ねて複雑怪奇な装置を作り上げていくその姿は、何かレゴブロックで遊んでいる少女のようにさえも見える。
「佐和田さんはああやっている時が一番輝いているよ。素敵だなあ」
茂川先生は頬を赤く染めながらそう言った。その赤さは赤ワインのせいだけではないようであった。
「もしかして、茂川先生は佐和田さんのことを好きなのですか」
「もしかしなくてもその通り。好きだよ、首ったけだ」
茂川先生は少しも恥ずかしがることなく、楽しそうに笑いながらそう言った。見ているこちらが却って恥ずかしくなってしまった。
ワインだけではなく、焼酎、日本酒、ウイスキー、ブランデー……世界中にごまんと種類がある酒という飲み物は、きっと大人を精神だけ子どもの時まで戻す魔法の液体なのだ。でなければ、いい歳をしたオジサンである茂川先生が少年のように目を輝かせて、「好きだ」なんて平然と言ったことへの説明がつかない。
小一時間ほどして装置が完成した。それは大掛かりな実験器具というより、もはや小ぶりの城である。素人目に見ては、電子レンジやらブラウン管テレビやら冷蔵庫やらパソコンのキーボードやらが、何かの手違いでひとつにされてしまったようにしか見えない。
怪しげな装置を背にした佐和田さんは、「いいかい」と人差し指を天に向けて立てると、〝ゾウキリンの作成方法〟について説明を始めた。
「まともに考えれば、松ぼっくりと放生池の水からゾウキリンを作るなんてことは不可能な話だ。例え図画工作にしたって、ゾウキリンを作ろうとしたらこの二つは選択肢に昇らないだろう。しかし、そもそも〝ゾウキリン〟という存在がまともではないのだ。まともでないものに対しては、まともでない方法でぶつからねばなるまい」
茂川先生が「ヨッ」と妙な合いの手を入れたが、佐和田さんはそれに構わず続けた。
「身体というものは記憶に追随する。生きているものも生きていないものも、それは変わらない。私は松ぼっくりに放生池の記憶を注入することにより記憶の齟齬を発生させ、細胞の自己崩壊を人為的に発生させた。そのタイミングで注入するのがゾウキリンという偽の記憶だ。するとどうなるか。驚くことに松ぼっくりは、与えられたゾウキリンの記憶こそが本当の自分であると思い込み、自らの細胞をゾウキリンのように組み替えるんだ」
佐和田さんが一息ついたタイミングで、私はすかさず「待った」を掛けた。言っていることがあまりに荒唐無稽すぎて、ついて行けそうにもなかったためである。
「わかっているさ。論より証拠。故事成語に従って、君からの疑いを見事に晴らしてみせようじゃないか」
冷蔵庫から松ぼっくりをひとつ取り出した佐和田さんは、装置の下部にある電子レンジのような扉を開けて、そこにそれを突っ込んだ。それから彼女がキーボードをカタカタと叩き始めると、装置は小さな振動を始めた。そのまま煙を上げて爆発でもするような雰囲気である。
やがて装置の振動が収まり、「レディー」という機械音声が響く。装置のレバーを握った佐和田さんは、「光あれ」と神様のようなことを言ってそれを引き下げた。
瞬間、再び装置の振動が始まる。しかも先ほどよりも大きい。装置の頭に鬼の角のように生えた二本の電極棒の間に、青白い閃光がぱちぱちと走る。
――やはり、爆発か。そうなのか。
装置が黒い煙を上げて爆発し、皆の髪型が一時的にアフロヘアーになり、佐和田さんが「失敗失敗」と舌を出す。酔いのせいなのか、そのようなアニメチックな妄想が私の頭を駆け巡ったその時、装置の振動がぴたりと止まると共に、松ぼっくりを放り込んだ扉が静かに開いた。
「よいしょよいしょ」とでも言うかのように、その扉からよちよち歩いて出てきたのはゾウキリンであった。彼は部屋をぐるりと見回した後、生みの親たる佐和田さんを見つけると、彼女の元に駆けていった。両手を広げてそれを待ちかまえ、まるで人形を抱く少女のようにゾウキリンを強く抱きしめた佐和田さんは、「すごいだろう?」と胸を張った。
それはすごいというよりもあまりに支離滅裂で、あらゆる物理法則の赤信号をアクセルベタ踏みで無視して突っ切っているようにしか思えず、私はただ唖然とする以外無かった。
頭の奥が痛くなってくるのを我慢しながら私は言った。
「……この際、ゾウキリン誕生の原理については考えないことにします。頭が痛い。しかし気になるのは、佐和田さんがゾウキリンを日本各地に放りだした理由です。なぜ、あのようなことをしたのですか?」
「ゾウキリンが各地で発見され、それが新座のマスコットキャラクターだとわかれば、きっと多くの人が新座に訪れる。ここへ来た人たちの中で、一人でも新座の魅力についてわかってくれる人がいればいいと思ったんだ」
どこか遠くを見つめてそう言った佐和田さんは、表情を緩めて鼻の頭を掻いた。
「私は新座が好きなんだ。妙に思われるかもしれないがね」
「授業なら心配しないでいい。休講にしたんだ」
私の心を読んだかのように茂川先生はそう言った。
「どうせ生徒数の少ない授業だしね」
「それは構いませんが、何をしに来たのでしょうか」
「私の家に招待しようかと思ってね」と私の問いに答えたのは助手席に乗る佐和田さんである。
「家を買ったんだ。中古だが、なかなか気に入ってる。君の予定はどうかな?」
「夜からであれば是非とも。この後はバイトが入っているものでして」
「なら、そうしよう。また連絡を入れるよ」
佐和田さんが「バイ」と二本指の敬礼をすると共に、先生が車を発進させた。空に飛び立つそれを、私は手を振って見送った。
その日のアンリもほどほどに盛況であった。しかし悲しいことに、マスター考案の〝ゾウキリンライス〟は片手で数えられるほどしか注文されなかった。「だからヘンな色気なんて出さなくってもいいの!」と青前さんに叱られて、残念そうに笑う彼の顔が妙に印象に残った。
夕方の五時過ぎに手伝いを終えてアンリを後にした私が、帰路の道すがら茂川先生に連絡すると、家に到着すると同時にデロリアンに乗った先生が私を迎えに来た。その速さに少々驚きながら、「ずいぶん早い到着ですね」と私が言うと、彼は「ずっと新座にいたからね」などと平然と口にした。
「なんと。それは申し訳ないことをしました」
「構わないよ。佐和田さんの家は新座にあるんだからね」
「新座に家を買ったんですか? なんて物好きな」
「物好きなのはわかりきったことじゃないか」と茂川先生は大口を開けて笑った。
「さあさあ在原くん。乗って乗って。彼女が首を長くして待ってるよ」
茂川先生がデロリアンを飛ばしたのは、新座の端の菅沢という名の地域である。東京の清瀬市との境にあり、かつては十文字学園女子大学という歴史ある学校があった場所だが、その学校も新座が空への浮遊を始めてからは早々にこの地からの撤退を余儀なくされた。いくら太い幹を持つ木でも大地震には耐えられないのと同じように、理不尽に大きな力の前では積み重ねてきた歴史は無意味である。
やがて私達が辿り着いたのは、菅沢の端にある、背の低い三階建てのビルであった。ここまで来ると新座の端はもう目と鼻の先で、この町を囲う高いフェンスが家からでも見える距離である。
しかし何より注目すべきは屋上のオブジェクトであろう。どんな目的で設置されたのかは知る由もないが、古い恐竜図鑑に描かれたような緑色のティラノサウルスの首から上だけの模型が、屋上にでんと構えている。入口となる扉の隣に大きなシャッター扉があったり、広い窓には中が見えないようにカーテンが固く閉ざされていたりと、全体的に怪しくいかにも秘密基地めいた気配がする。
茂川先生が屋上のオブジェクトを指さしながら説明した。
「アレは佐和田さんの趣味じゃなくて、元々この家にあったものでね。彼女のことだから、じきにゾウキリンに変えることだろうさ」
私はこの家の屋上にゾウキリンが立つ姿を想像した。ぼんやりとした表情でどこを見るでもなく立ち続ける彼の姿は、どこか仙人のようである。川越街道のドンペンに代わり、新座を見守り続ける新たなる守護者となってくれるに違いないとまで思わせた。
「そんなことをすれば、きっとここが新座の名所になりますよ」
「だろう? その時がくるのが楽しみでしかたないよ」
茂川先生に案内されながら、私は家の中へと足を踏み入れた。一階はコンクリート打ち放しの広い部屋で、ビーカーやフラスコなどの実験器具や、ドラム式洗濯機をふた回り大きくしたような無骨な機械。常にヴーンと低い音を立てながら振動を続けるたくさんのツマミがついた電子レンジのような機械などがあり、謎めいた研究室という様相であった。
階段を昇って二階に上がると、そこは一階とは打って変わって全面フローリング貼りのモデルルームのような部屋であった。ソファーやチェスト、テーブルなどの家具はシックなデザインで統一され、まるで彼女の内面を表しているかのように整然と並んでいる。
ソファーに座って待っていると、やがて佐和田さんが料理皿を両手に持って階段を降りてきた。ゾウキリンがプリントされたパーカーを羽織っているが、例のスウェットと比べればそこまで派手ではない。
彼女は料理皿を次から次へとテーブルに並べた。麻婆豆腐や餃子、春巻き、エビチリなどの中華料理が皿の上で美味しそうに湯気を立てている。「作ったのですか」と私が尋ねると、彼女は「レンジでチンさ。便利な時代になったものだ」と言ってウインクした。ある意味、手料理を持ってくるよりも彼女らしいといえば彼女らしい。
やがて各々のグラスに赤ワインが注がれ、乾杯の時となった。乾杯の音頭を取ったのは佐和田さんだった。
「茂川、君の新座への情熱は目を見張るものがある。君と共に過ごした日々が私を成長させた。そして在原くん。私は本当に君に感謝している。君の協力がなければ今日という日は無かっただろう。さて、とりあえずは乾杯だ。私達の出会いと、今日という日に」
私達はグラスをぶつけ合った。値が張るグラス特有の、チンという高い音が響いた。
その日、私は生まれて初めて赤ワインというものを口にした。葡萄を使った酒だということは知っていたので、てっきり甘みがあるものかと思っていたがそうではなかった。コーヒーとはまた違った苦さ――いや、これは渋さと呼ぶのであろう。とにかくそれがなんとも複雑な香りと共に口の中に広がり、私は思わず首を捻った。
「お口に合わなかったかな」と佐和田さんは言った。
「いえ、そんなことは。ただ、赤ワインを飲むのは初めてでしたので。てっきり甘みのあるものだとばかり」
「私も昔はそう思っていた。甘い酒が良ければサワーなんかも用意してるが、どうする?」
「このままで構いません。少し慣れればきっと美味しくなります」
「焦らなくてもいい。苦いものを飲むことばかりが大人への近道ではないのだからね」
それから私達は、電子レンジが甲斐甲斐しく調理した中華料理を口にしながらワインを飲んだ。茂川先生と佐和田さんは思っていたよりも飲むペースが早く、一時間経たないうちに二本のワインボトルが空になったので驚いた。
アルコールに顔を赤らめた茂川先生が、佐和田さんの肩をばしばし叩いて笑った。彼は酔うと面倒くさくなるタイプの笑い上戸であった。
「しかし、佐和田さんの研究は実に見事だ。いつだって君は僕の想像の遥か上を行ってくれる。すばらしいよ、本当に」
「褒めすぎではあるが、悪い気はしないな」と佐和田さんは微笑を浮かべる。彼女の場合は多少酔っても頬を僅かに赤らめるだけで、見た目だけならいつもと大して違いはない。
「いやいや、謙遜することはない。本当に見事だよ。今回の件だって、まさかここまで上手くいくとは思ってもいなかったんだから」
「私だけの力ではここまでやれることはなかったさ。茂川と、それに何より在原くんがいてくれたからだよ」
「私は何もやってはいませんよ」
「忘れたとは言わせないぞぅ」と茂川先生は私の頬をツンツンと突く。
「松ぼっくりと放生池の水を持ってきてくれたじゃないか」
「それがなんだというんです。そもそも、〝今回の件〟とは何を指すんですか?」
「そういえば、説明がまだだったね」
佐和田さんはグラスの中に残っていたワインを一気に仰ぐと、とんでもないことを口にした。
「いま世間を騒がせているゾウキリンは私が創り出した。君が持ってきてくれたふたつの材料を使ってね」
〇
佐和田さんが詳しい説明をしてくれることになったため、私達は宴会を一旦中止し共に一階へと降りて行った。
そもそも彼女の「ゾウキリンは私が創り出した」という言葉は信じてもいいものなのだろうか。彼女は嘘を吐くような人ではないとは思う。茂川先生も同じだ。しかし、酒を飲みすぎて夢と現実の境があやふやになっているだけという可能性だってある。
そんな私の心配を余所に、鼻歌まで歌ってすっかり上機嫌の佐和田さんは何やらせっせと準備を進めている。家に入った際にちらりと目にした器具や機械を、時に組み立てて時に重ねて複雑怪奇な装置を作り上げていくその姿は、何かレゴブロックで遊んでいる少女のようにさえも見える。
「佐和田さんはああやっている時が一番輝いているよ。素敵だなあ」
茂川先生は頬を赤く染めながらそう言った。その赤さは赤ワインのせいだけではないようであった。
「もしかして、茂川先生は佐和田さんのことを好きなのですか」
「もしかしなくてもその通り。好きだよ、首ったけだ」
茂川先生は少しも恥ずかしがることなく、楽しそうに笑いながらそう言った。見ているこちらが却って恥ずかしくなってしまった。
ワインだけではなく、焼酎、日本酒、ウイスキー、ブランデー……世界中にごまんと種類がある酒という飲み物は、きっと大人を精神だけ子どもの時まで戻す魔法の液体なのだ。でなければ、いい歳をしたオジサンである茂川先生が少年のように目を輝かせて、「好きだ」なんて平然と言ったことへの説明がつかない。
小一時間ほどして装置が完成した。それは大掛かりな実験器具というより、もはや小ぶりの城である。素人目に見ては、電子レンジやらブラウン管テレビやら冷蔵庫やらパソコンのキーボードやらが、何かの手違いでひとつにされてしまったようにしか見えない。
怪しげな装置を背にした佐和田さんは、「いいかい」と人差し指を天に向けて立てると、〝ゾウキリンの作成方法〟について説明を始めた。
「まともに考えれば、松ぼっくりと放生池の水からゾウキリンを作るなんてことは不可能な話だ。例え図画工作にしたって、ゾウキリンを作ろうとしたらこの二つは選択肢に昇らないだろう。しかし、そもそも〝ゾウキリン〟という存在がまともではないのだ。まともでないものに対しては、まともでない方法でぶつからねばなるまい」
茂川先生が「ヨッ」と妙な合いの手を入れたが、佐和田さんはそれに構わず続けた。
「身体というものは記憶に追随する。生きているものも生きていないものも、それは変わらない。私は松ぼっくりに放生池の記憶を注入することにより記憶の齟齬を発生させ、細胞の自己崩壊を人為的に発生させた。そのタイミングで注入するのがゾウキリンという偽の記憶だ。するとどうなるか。驚くことに松ぼっくりは、与えられたゾウキリンの記憶こそが本当の自分であると思い込み、自らの細胞をゾウキリンのように組み替えるんだ」
佐和田さんが一息ついたタイミングで、私はすかさず「待った」を掛けた。言っていることがあまりに荒唐無稽すぎて、ついて行けそうにもなかったためである。
「わかっているさ。論より証拠。故事成語に従って、君からの疑いを見事に晴らしてみせようじゃないか」
冷蔵庫から松ぼっくりをひとつ取り出した佐和田さんは、装置の下部にある電子レンジのような扉を開けて、そこにそれを突っ込んだ。それから彼女がキーボードをカタカタと叩き始めると、装置は小さな振動を始めた。そのまま煙を上げて爆発でもするような雰囲気である。
やがて装置の振動が収まり、「レディー」という機械音声が響く。装置のレバーを握った佐和田さんは、「光あれ」と神様のようなことを言ってそれを引き下げた。
瞬間、再び装置の振動が始まる。しかも先ほどよりも大きい。装置の頭に鬼の角のように生えた二本の電極棒の間に、青白い閃光がぱちぱちと走る。
――やはり、爆発か。そうなのか。
装置が黒い煙を上げて爆発し、皆の髪型が一時的にアフロヘアーになり、佐和田さんが「失敗失敗」と舌を出す。酔いのせいなのか、そのようなアニメチックな妄想が私の頭を駆け巡ったその時、装置の振動がぴたりと止まると共に、松ぼっくりを放り込んだ扉が静かに開いた。
「よいしょよいしょ」とでも言うかのように、その扉からよちよち歩いて出てきたのはゾウキリンであった。彼は部屋をぐるりと見回した後、生みの親たる佐和田さんを見つけると、彼女の元に駆けていった。両手を広げてそれを待ちかまえ、まるで人形を抱く少女のようにゾウキリンを強く抱きしめた佐和田さんは、「すごいだろう?」と胸を張った。
それはすごいというよりもあまりに支離滅裂で、あらゆる物理法則の赤信号をアクセルベタ踏みで無視して突っ切っているようにしか思えず、私はただ唖然とする以外無かった。
頭の奥が痛くなってくるのを我慢しながら私は言った。
「……この際、ゾウキリン誕生の原理については考えないことにします。頭が痛い。しかし気になるのは、佐和田さんがゾウキリンを日本各地に放りだした理由です。なぜ、あのようなことをしたのですか?」
「ゾウキリンが各地で発見され、それが新座のマスコットキャラクターだとわかれば、きっと多くの人が新座に訪れる。ここへ来た人たちの中で、一人でも新座の魅力についてわかってくれる人がいればいいと思ったんだ」
どこか遠くを見つめてそう言った佐和田さんは、表情を緩めて鼻の頭を掻いた。
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