あなたとぼくと空に住むひと

シラサキケージロウ

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青前さんと僕

青前さんと僕 その10

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 NNSが平林寺から出入り禁止を申し付けられたのは、新座浮上から十五年後のことだった。その当時のNNS内では、新座浮上の原因は平林寺の僧が行う禅問答によるものだというふざけた考えが支配的であった。日常的感覚、一般常識からの解脱を一途に目指す者が市内に多すぎたせいで、新座までもが「重力なんぞに縛られてはならぬ」という常識はずれなことを思い始め、この地は天に昇ってしまったのだと。

 しかし、誰もがその説を決定的なものにするための証拠を提示できない。そこでとあるNNS会員が平林寺に乗り込んだ。彼は十八歳未満の子どもには閲覧が禁止されている、色欲を孤独に満たすための官能的な書物――平たく言えば成人雑誌を寺の敷地内にありったけばら撒いた。新座を煩悩の洪水によって満たしたその時、色欲によって堕落した新座が空から落ちるのかどうかを試そうとしたのだ。

 結果として、新座が空から落ちることはなかった。ことはそれだけに終わらなかった。

 平林寺の僧によって捕らえられた成人雑誌ばら撒き男は、自らをNNSという秘密組織の会員だと律義に名乗り、そのせいでNNS会員は平林寺を出入り禁止になった。

 その日以来、NNSの会員規則に『平林寺に立ち入らないこと。これを破れば会から除名とする』という項目が加えられた。この件を警察沙汰にしなかった平林寺へのNNSなりのけじめのつけ方だったのだろう。

「でも、そんなものに構ってられるもんか」と茂川先生は言って、固く閉じられた平林寺の表門をよじ登った。今の彼は男らしさの権化である。

 こんな非常事態にも関わらず、いつもと変わらずひっそりとしている境内を、私達は全力で走った。白い息を吐きながら、「佐和田さん!」と彼女の名前を叫ぶやかましい私達を咎める住職も今はいない。

「佐和田さん! ここにいるんだろう! 君と話がしたいんだ!」
「お願いです! 出てきてください!」

 緑の葉に隠れた灰色の空にふたりの声が虚しく響く。その時、それに呼応するように馬の嘶きが聞こえてきた。私達の頭上を大きな影が一瞬だけ通り過ぎ、僅かに気を取られた次の瞬間にそれは私達の目前に着地していた。鬼鹿毛に乗る郡司氏であった。

「犯人のいる場所がわかるとは、上出来だぞ、ユキヒト。だが、あとは俺に任せるんだ。新座の守り人である俺があの女を成敗する」
「お待ちください、郡司さん。私達は彼女と話をしに来たのです」
「待たん。奴は新座を爆破させようとした大罪人。俺が裁かず誰が裁く」

 久方ぶりに英雄的な仕事が出来るため張り切っているのか、郡司氏は一歩も譲らない様子。どうやら説得に応じる気は毛頭なさそうだが、だからといって私達程度が強行突破できるほど彼は甘くない。

 ならば、ここは私が囮になる他あるまい――と、覚悟した私が一歩踏み出そうとしたその時、私より先に茂川先生が郡司氏と対峙した。

「そこの方。どうか僕達に道を譲ってもらえないでしょうか」
「誰に対して物を言っている? 俺は新座の英雄だぞ」
「こちとら愛の戦士だ。英雄如きなんて屁でもない」

 彼は両手をわき腹に当て、さながらボディービルダーのようなポーズを取ってみせる。対する郡司氏も対抗するように同じポーズを取ったので、ふたりの筋肉量の差が如実に表れる。片や現代のヘラクレス、片やもやしの擬人化である。

 だというのに茂川先生は微塵も臆した様子を見せなかった。愛を語る人のなんと厚かましく、またなんと勇ましいことか。大人になった時は是非ともこうありたいと思わせてくれる姿がそこにある。

 やがて、郡司氏は空に向かって咆哮した。その姿は私の目には、負け惜しみの強い中学生男子のように映った。

「あの女は業平塚にいるはずだ。……行けっ!」
「ありがたいっ!」
「ただし! お前が失敗すれば今度は俺の番だ! 俺は容赦をしない男だからな!」

「ご心配なく」と茂川先生はウインクした。

「愛に不可能はないんだから!」

 郡司氏はもう一度、今度は先ほどよりも大きく吠えた。





 砂利を踏みつけ散歩道をしばらく走ると野火止塚に出る。それを横に見ながらもう少し道なりに進むと、左手に整備されていない脇道が伸びている。その先にあるのが業平塚である。かの在原業平が京から武蔵野へ来た際、ここで足を止めて休んだということにこの名前が由来している。

 佐和田さんは言い伝えに残る在原業平のように、塚に立膝で腰掛けていた。彼女の全身には黒く光る球状の何かがびっしりと付いたベルトが巻かれている。恐らくあれが爆弾なのだろう。ひとつひとつはピンポン玉程度の大きさで、一目見ただけではあれがとても新座を消すほどの威力を秘めているとは思えないが、彼女が覚悟を持ってやることだ。まず間違いないと思っていいだろう。

 彼女は私達の姿を一瞥すると、右手を挙げて呑気に「やあ」と言った。これから間もなくして死ぬ人間の挨拶とは思えなかった。

「在原くんに茂川じゃないか。しかし、茂川はよくここへ入ってきたものだね。NNSを捨てるというわけかい?」
「それだけ本気ということだよ。佐和田さん、僕の話を聞いて欲しい」

 ゆっくりと彼女に歩み寄る茂川先生を、「近づくな」と無機質にはね付けた佐和田さんは、左手に持っていた赤いスイッチを見せつけた。

「時を待たずともこれを押せば新座は粉微塵だ。君らだってそれは避けたいだろう?」

 その言葉に私達は足を止めざるを得なかった。

 歩みを止めた私達を見た佐和田さんは、フッと笑ってスイッチを手元に置いた。

「心配しないでくれ。話くらい聞くつもりはあるさ」
「それなら聞かせて欲しいのです。貴女はなぜ新座を爆破しようとするのですか?」
「簡単さ。私は新座を愛している。しかし私の愛は伝わることが無かった。ゆえに心中を図ったというだけのことだ。古典芸能めいているだろう? あるいは、ロミオとジュリエットかな」
「愛しているというのになぜ壊すのですか? 無くなってしまえばすべては終わりなんですよ」
「以前、在原くんには言っただろう。愛とは与え合うものではなく、押し付けるものだからね。私の愛を押し付けた結果が爆破というだけの話さ」

 彼女は説得に応じる素振りを少しも見せない。タイムリミットまでの猶予は十分と無い。いざとなった時に郡司氏が駆けつけてくることを考えれば、残された時間はさらに短いことだろう。

 どうやら私には彼女を説得できない。もちろん、郡司氏にだって無理だ。いま新座にいる人間の中で佐和田さんを説得できるのはただ一人。茂川先生しかありえない。

 先生は私の一歩前に立つと、「佐和田さんっ!」と彼女の名前を腹の底から叫んだ。彼の声を聞いた小鳥が梢を揺らして飛んで行った。

 先生の声量に驚いた佐和田さんが、やや表情を強張らせながら「何かな」と返す。

「生まれてこの方、僕は〝愛とはなんぞや〟なんてこと、一度も考えたことは無かった。しかし今、ようやくわかったよ。確かに君の言う通り、愛とは押し付けるものだ」
「わかってくれて何よりだ。それなら、私がこれからすることを止めようとは――」
「しかし! 僕は君の行いを否定する! なぜなら僕は君に助かって欲しいからだ!」
「勝手なことを言う男だな。なぜそんなことを言われなければならないんだい」
「愛とは押し付けるものなんだろう? それが答えだ!」

 茂川先生は拳を天に突き上げた。

「僕は君を愛している! だから君に新座と心中などして欲しくない!」

 茂川先生一世一代のやけっぱちな告白に、さすがの佐和田さんも言葉を失った。

 目を点にして先生のことを眺めていた彼女は、やがてその不健康なほどに白い肌を赤らめていく。彼女の顔が火照った色に変わるのは、それから一分ほど後のことだった。

 口をぱくぱくとさせるばかりで次の言葉が紡げない彼女は、過呼吸気味になりながら「なぜだ」という言葉を辛うじて捻りだした。

「なぜ、こんな女を愛していると言える」
「なぜってそんなこと知るわけないだろう! 君の全てを愛している! そこに理由を求めるだなんて無粋な話じゃないか!」
「こんなくだらなくて、こんな生活能力が無くて、こんな可愛げのない女を愛しているなんて、君は馬鹿なのか?」
「口を閉じるんだ! 僕の愛している人をこれ以上悪く言わないでくれ!」

 茂川先生の叫びはあまりに情熱的過ぎて、私は途中から両手で顔を覆っていた。第三者として愛の告白を生で見ていること以上に、心がこそばゆくなることがあろうか。

 先生の熱さに感化されたのか、灰色の空にちらついていた雪はいつの間にか止んでいる。冷たかった風はいつの間にか暖気を伴ってきた。目の前の光景と相まって暑さに耐え切れなくなった私は、上着を脱いで投げ捨てる。

 茂川先生は佐和田さんの方へ少しずつ歩み始める。彼女はそれを止めようとせず、ただ黙って彼のことを見つめている。ついに手を伸ばせば届く距離まで佐和田さんに近づいた茂川先生は、何も言わずに彼女を抱きしめた。佐和田さんは何も言わずにそれを受け入れた。

 それを見ていた私が「愛の力は偉大だなあ」などと呑気なことを呟いていると、いつの間にか私の背後にいた郡司氏が「言ってる場合かっ!」などと幸せな気分に横やりを入れてきた。

「もう時間は五分と残されていないんだぞっ!」

 そうだ。ここで佐和田さんの仕掛けた爆弾が爆発してしまえば、恋の成就など意味をなさない。

 私はお邪魔虫であることなど百も承知で、熱い抱擁を交わす彼らに「お忙しいところ申し訳ありません」と声を掛けた。

「佐和田さん、もう時間は残されていないのです。早いところ爆弾を解除して頂かないと」

 しかし私の呼びかけにも彼女は一向に無反応である。このまま黙って時間切れではどうしようもないので、抱きしめ合うふたりを仕方なく引き剥がすと、なんとふたりは揃って気絶していた。その幸せそうな顔つきから、愛の言葉に沸騰した頭がついに臨界点を超えたのだということは簡単に想像がついた。

 愛の力は偉大だ。しかし、空回りすることがしばしばある。「何もこんな時に」と私は頭を抱えた。

「悩んでいる暇はないぞ、ユキヒト。コイツをどうにかしなくちゃならん」

 鬼鹿毛から降りた郡司氏が私の横に並び、佐和田さんの身体に巻かれた爆弾を指してそう言った。

「しかし、どうにかすると言ってもどうしましょう」
「叩けばどうにかなるかもしれん」
「古いテレビではないのですから、叩いてどうにかなるとは思えません」
「それならどうする? なにかマトモな案はあるのか?」

 まともな案など、残された僅かな時間の中で思いつくはずもない。しかし〝まともでない〟案ならば話は別だ。それを実行するのに必要になるのは、勇気とやる気。それに――。

「……考えがあります。郡司さん、私に鬼鹿毛を預けてくれませんか?」
「構わんが、何をするつもりだ?」
「説明している時間はありません」

 佐和田さんの身体から爆弾のベルトを取り外した私は、それを自分の身体に巻き付け鬼鹿毛の背に乗った。

「では、行って参ります。青前さんによろしく伝えておいてください」
「……待て、ユキヒト。何を考えて――」

 私は郡司氏の問いかけから逃げるように、鬼鹿毛の尻をぴしゃりと叩いてその場から走り去った。言えるわけもない。これから私が命を捨てに行くなんて。
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