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第1話 パプリカ
パプリカ その2
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鹿間の野郎め、気取りやがって。なにが「ストライクゾーンを広げるのもほどほどに」だ。好きになる異性の対象が広範囲であればあるほど、人生は豊かになることが決まっているだろうに。そもそも俺は少女趣味などではない! ただ初恋の人がたまたま小学生だっただけだ!
『2045』を出た俺は、怒りの熱を帯びた鼻息を漏らしながらアパートへと戻り、大学のレポートらしきものをぐだぐだと片付け、くだらんテレビを眺めながら夕飯を作り、そして食い、風呂へ入らないうちにやけに眠くなってきて、まだ夜も浅いことは百も承知で眠気に誘われるまま布団へと潜った。
まぶたの裏に感じる光が、開いた窓から入り込む夜の気配が、近くを走る電車の音が、すべての現実がだんだんと遠のいていく。
〇
気づくと、俺は覚えのない部屋にいた。バスケットコート程度の広さはあるだろうか。天井からは豪奢なシャンデリアがぶら下がり、室内には暖色の光が満ちている。壁一面黒く塗られているが、白い点が無数に穿たれており、どこかプラネタリウムのようでもある。家具の類はなにひとつとして見当たらないが、薄い毛布が何枚か重なり部屋の隅で山のようになっているのが見えた。
黒いカーテンで遮られた窓があったので、近づいて開けてみると、あたりは深い緑に囲まれている。差し込む太陽の光がやたらと強い。目で見てわかるほど空気が澄んでいる。
俺はとりあえず頬をつねってみた。痛みを感じることはない。なんだかどこかふわふわした感じだ。そもそも、寝て起きて気づいたら見知らぬ場所にいたのだから、夢の中にいると考えた方が自然だろう。
「にしても、ずいぶんとはっきりした夢だな」と呟きながら窓枠に足を掛け、試しに外へと出ようとしたその瞬間、「待って」という微かな声が背中に聞こえた。振り返ってみたところで部屋に人影はない。こういう場合、恐ろしいと感じると同時に「正体を確かめてやろう」と考えてしまうのが人間のつまらない性だ。窓枠からゆっくりと足を下ろした俺は、忍び足で部屋の中央へと歩みを進めた。
「誰かいるのか?」
問いかけると、どこからともなく「いるよ」と声が返ってくる。声質からして少女のようだが、依然として姿は見えない。恐怖のせいか鮮明になった視界を右へ左へと動かしながら、「どこにいるんだ?」と声を上げる。
「こっちだよ、こっち」
その時、部屋の隅にあった毛布の山がごそごそと動いた。恐る恐る歩み寄って、一気に山をひっくり返してみれば、体育座りをした白いワンピース姿の少女が現れた。
その子は、大きくて丸い目をしていた。その子は、真っ直ぐ通った鼻筋を持っていた。眉からはきりりと力強さが垣間見えて、肩甲骨のあたりで髪を後ろでふたつ結びにしていて、肌には透明感があった。
「まさか」と震える声で言うと、その少女は「そのまさかだよ」と言って微笑む。
「外に行くんでしょ? それならわたしも一緒に連れていって、伊瀬冬くん」
笑顔の破壊力こそ記憶よりも幾分か低かったが、その少女こそ俺の初恋の人――源尾あいに間違いなかった。
〇
源尾と共に謎の家を出た俺は、一歩先を行く彼女に導かれるまま森の中を進んでいる。人の手が入っているのか、木の根が地表に飛び出ていたり、雑草が無暗に生い茂っていたりということはない。空を覆う木々の隙間からは陽光がこぼれ、時折、どこからともなく鳥の鳴き声が聞こえる。
源尾はいかにも機嫌良さそうに鼻歌を歌いながら跳ねるような足取りで道を進む。源尾の揺れる後ろ髪が視界に入るだけで、鼓動がやたらと早くなる。顔も熱い気がする。これは夢だぞ。落ち着け。しかし覚めないように注意しろ。
初恋の人との時間を少しでも長く過ごすために妙な集中力を発揮させていると、源尾がこちらへ視線を送りながら「ねぇ」と話しかけてきた。
「昨日も会ったよね、伊瀬冬くん」
「ああ。会った。会ったな」と応えたものの、次の言葉が続かない。これは夢の世界にいるせいで頭が働かないわけではなく、ただただ緊張しているだけである。
「どうしたの? もしかして、体調悪い?」
「いや、とくに」と首を横に振ると、源尾は「ヘンなの」と笑う。きらりと光る白い前歯に目が眩んだ。
「……それにしても、本当にリアルな夢だな」
「ほんとだね。もしかしたら、夢じゃないのかも」
「だったら、源尾が小学生のままでいることに説明がつかんだろ」
俺の言葉を薄く微笑んで受け流した源尾は、ふいに「行くよ」と言うと全速力で駆け出した。慌ててその後を追うが、うまく脚が動かない。おかげで、源尾の背中がぐんぐんと遠のいていく。
小さな背中が視界から消えた瞬間に世界が終わってしまいそうな気がして、俺は必死で源尾を追いかけた。やがて源尾が少し先で足を止めたのが確認できて安堵したものの、それでも走る速度を緩めることはできなかった。
息を切らしながらようやく追いついた俺を見て、源尾は「遅いよ」と言って笑う。走っているうちにいつの間にか森を抜けていたようで、空を覆っていた木々は周りにはなく、色とりどりの花々が周囲を囲んでいた。ネモフィラ、シクラメン、パンジー、ひまわり、アジサイと、季節感に統一性がない。
「どうしたんだよ、急に走り出して」という俺の言葉が聞こえなかったのか源尾は、「見てよ、あれ」と前方を指さす。見れば、揺らめく水面が花々に囲まれながら、鏡のように空の景色を映していた。あたりには青い羽根の小鳥が舞っており、その場の雰囲気は頭が痛くなるくらいにメルヘンだ。
「綺麗でしょ。お気に入りの場所なの。わたし以外に来るのは、伊瀬冬くんがはじめてだよ」
源尾は泉に歩み寄り、靴を脱いで素足を水につける。それから「つめたい」と言って無邪気に笑ったが、どういうわけかその表情は急に暗くなった。
「……ねぇ、伊瀬冬くん。私が転校した時のこと、覚えてる?」
「覚えてる。急だったな。お前が突然クラスメイトの前に出てきたと思ったら、『明日、転校します』だもんな。驚いたぞ」
「おかげで、さよならも言えなかったもんね。ほんとにごめんね、あの時は」
「いいんだよ、別に。でも、どうして急に転校なんてしたんだ?」
「ちょっと事情があって。それより伊瀬冬くん、ひとつお願いがあるんだ?」
「お願い?」
「そう。……その、手、繋いでもらってもいいかな?」
今の源尾は俺の記憶の中の姿と違いやけに積極的だ。しかしこれは夢の世界である。多少の違和感は水に流し楽しむべし。
俺は「おう」となるべく軽く答えながら源尾の手を取ろうとする。ふたりの指と指が触れ合うまさにその直前――耳元でベルの音が大きく鳴り響いた。
瞬間、世界は瞬く間に崩れ落ちて、「あっ」と思った時にはすでに、俺は見慣れた布団の中にいた。
〇
甘い世界から俺を引きずり出したのは、枕元に置いていたスマートフォンのアラーム音だった。「ふざけやがって」とひとり呟きながらアラームを止め、スマホを遠くへ投げ出し、俺は再度夢の中へと飛び込むべく、もっと言えば源尾と手を繋ぐべく、固くまぶたを閉じる。しかし興奮が先行しているせいか、いくら目をつぶっていてもちっとも眠れやしない。なんてことのない時は嫌でもやってくるクセに、大事な時に顔を出さないとは、眠気のヤツもなんとも勝手な性格だ。
夢への帰還を諦めた俺は、布団から出て窓のカーテンを開ける。朝の光が視界をくらます。紛れもなく現実だ、こんちくしょう。
それにしたって素晴らしい夢だった。夢の世界特有の脈絡のなさはさておき、先日見たものより遥かに鮮明で、遥かに自由度があった。目を閉じれば、今でも源尾の笑顔をまぶたの裏に描くことも容易い。脳内で声を再生することも容易だ。しかしこうなると、手を握れなかったことがますます惜しく思われる。握ったところでどうにもなるわけではないが、これから続く退屈な日常を過ごす励みにはなるだろう、たぶん。
「なんてもったいないことをしたんだ俺は」と後悔の念を垂れ流し続けながら、大学へ行くため着替えなど朝の支度を整えていると、床に投げ出したままだったスマホが振動して低い音を立てはじめた。拾い上げて確認してみると、知らない番号からの電話だ。こういう怪しい電話は出ないに限る。俺はスマホを再び投げ出してシャツのボタンを留める作業に戻った。
――と、その時、俺の頭にとある考えが浮かんだ。もしかして、いま電話を掛けてきているのは源尾なのではなかろうか――。
冷静な自分が「んなわけあるか」とこの考えを否定するより先に、スマホを拾い上げて通話ボタンを押す。恐る恐る「もしもし」と声を出してみると、やや間を置いた後、「もしもし」と返ってきた。
聞き間違いじゃない。源尾の声だ。
驚きと困惑と喜びで混沌とした感情を抑えつけながら、俺は「源尾か?」と問いかける。「伊瀬冬くん」という答えがすぐにあって、俺は思わず飛び上がりそうになった。
「久しぶりだな。どうしたんだよ、急に」と冷静を装いながらも、心臓は破裂寸前である。
「ううん。どうしてるかなって思って、昔のケータイから番号探してさ。かけちゃった」
乾いた笑い声を上げた源尾は、それからじっと黙ってしまった。こうなるとなんと言えばいいのかわからず、こちらも口を閉ざすしかない。
10秒ほど互いに沈黙が続いた後、源尾は歯切れ悪く喋り出す。
「その、変なこと言うけど……伊瀬冬くん、私の夢、見たでしょ?」
食い気味に「嘘だろ」と声が出てしまったのは失敗だと思ったが、こうなると止まれない。俺は働きの悪くなった脳みそをフル回転させて、精一杯言葉を絞り出す。
「見た、見たぞ。源尾の夢だった」
「……私と、泉の周りで話す夢?」
「おいおい。どうして知ってるんだよ」
「だって、その夢で見たのは私だから」
「そんな……冗談だろ?」
「冗談だったら、どうして私が伊瀬冬くんの夢の内容知ってたの?」
そりゃそうだ。こんなことが冗談で通るなら、世界のすべてが冗談で出来ている。『運命』という言葉まで早々に頭に浮かび、「いやいやまだそれは早い」とすぐさま心中で否定するものの、口元の笑みは未だ消えない。
「じゃあ本当に俺達は、夢の中で会ったってことなんだよな?」
「そうだよ。信じられないかもしれないけど」
「信じるよ。こうなりゃ、なんだって信じる」
「……うん。ごめんなさい、伊瀬冬くん」
「ごめんなさい」という想定していなかった言葉に首を傾げていると、源尾は「じゃあね」と細く呟いた。
「伊瀬冬くん。夢の私をよろしくね」
そこで通話はぷつんと切れた。慌てて源尾の番号へ電話を掛け直したが、無機質な呼び出し音が鳴り続けるばかりで、電話が繋がることは無かった。
『2045』を出た俺は、怒りの熱を帯びた鼻息を漏らしながらアパートへと戻り、大学のレポートらしきものをぐだぐだと片付け、くだらんテレビを眺めながら夕飯を作り、そして食い、風呂へ入らないうちにやけに眠くなってきて、まだ夜も浅いことは百も承知で眠気に誘われるまま布団へと潜った。
まぶたの裏に感じる光が、開いた窓から入り込む夜の気配が、近くを走る電車の音が、すべての現実がだんだんと遠のいていく。
〇
気づくと、俺は覚えのない部屋にいた。バスケットコート程度の広さはあるだろうか。天井からは豪奢なシャンデリアがぶら下がり、室内には暖色の光が満ちている。壁一面黒く塗られているが、白い点が無数に穿たれており、どこかプラネタリウムのようでもある。家具の類はなにひとつとして見当たらないが、薄い毛布が何枚か重なり部屋の隅で山のようになっているのが見えた。
黒いカーテンで遮られた窓があったので、近づいて開けてみると、あたりは深い緑に囲まれている。差し込む太陽の光がやたらと強い。目で見てわかるほど空気が澄んでいる。
俺はとりあえず頬をつねってみた。痛みを感じることはない。なんだかどこかふわふわした感じだ。そもそも、寝て起きて気づいたら見知らぬ場所にいたのだから、夢の中にいると考えた方が自然だろう。
「にしても、ずいぶんとはっきりした夢だな」と呟きながら窓枠に足を掛け、試しに外へと出ようとしたその瞬間、「待って」という微かな声が背中に聞こえた。振り返ってみたところで部屋に人影はない。こういう場合、恐ろしいと感じると同時に「正体を確かめてやろう」と考えてしまうのが人間のつまらない性だ。窓枠からゆっくりと足を下ろした俺は、忍び足で部屋の中央へと歩みを進めた。
「誰かいるのか?」
問いかけると、どこからともなく「いるよ」と声が返ってくる。声質からして少女のようだが、依然として姿は見えない。恐怖のせいか鮮明になった視界を右へ左へと動かしながら、「どこにいるんだ?」と声を上げる。
「こっちだよ、こっち」
その時、部屋の隅にあった毛布の山がごそごそと動いた。恐る恐る歩み寄って、一気に山をひっくり返してみれば、体育座りをした白いワンピース姿の少女が現れた。
その子は、大きくて丸い目をしていた。その子は、真っ直ぐ通った鼻筋を持っていた。眉からはきりりと力強さが垣間見えて、肩甲骨のあたりで髪を後ろでふたつ結びにしていて、肌には透明感があった。
「まさか」と震える声で言うと、その少女は「そのまさかだよ」と言って微笑む。
「外に行くんでしょ? それならわたしも一緒に連れていって、伊瀬冬くん」
笑顔の破壊力こそ記憶よりも幾分か低かったが、その少女こそ俺の初恋の人――源尾あいに間違いなかった。
〇
源尾と共に謎の家を出た俺は、一歩先を行く彼女に導かれるまま森の中を進んでいる。人の手が入っているのか、木の根が地表に飛び出ていたり、雑草が無暗に生い茂っていたりということはない。空を覆う木々の隙間からは陽光がこぼれ、時折、どこからともなく鳥の鳴き声が聞こえる。
源尾はいかにも機嫌良さそうに鼻歌を歌いながら跳ねるような足取りで道を進む。源尾の揺れる後ろ髪が視界に入るだけで、鼓動がやたらと早くなる。顔も熱い気がする。これは夢だぞ。落ち着け。しかし覚めないように注意しろ。
初恋の人との時間を少しでも長く過ごすために妙な集中力を発揮させていると、源尾がこちらへ視線を送りながら「ねぇ」と話しかけてきた。
「昨日も会ったよね、伊瀬冬くん」
「ああ。会った。会ったな」と応えたものの、次の言葉が続かない。これは夢の世界にいるせいで頭が働かないわけではなく、ただただ緊張しているだけである。
「どうしたの? もしかして、体調悪い?」
「いや、とくに」と首を横に振ると、源尾は「ヘンなの」と笑う。きらりと光る白い前歯に目が眩んだ。
「……それにしても、本当にリアルな夢だな」
「ほんとだね。もしかしたら、夢じゃないのかも」
「だったら、源尾が小学生のままでいることに説明がつかんだろ」
俺の言葉を薄く微笑んで受け流した源尾は、ふいに「行くよ」と言うと全速力で駆け出した。慌ててその後を追うが、うまく脚が動かない。おかげで、源尾の背中がぐんぐんと遠のいていく。
小さな背中が視界から消えた瞬間に世界が終わってしまいそうな気がして、俺は必死で源尾を追いかけた。やがて源尾が少し先で足を止めたのが確認できて安堵したものの、それでも走る速度を緩めることはできなかった。
息を切らしながらようやく追いついた俺を見て、源尾は「遅いよ」と言って笑う。走っているうちにいつの間にか森を抜けていたようで、空を覆っていた木々は周りにはなく、色とりどりの花々が周囲を囲んでいた。ネモフィラ、シクラメン、パンジー、ひまわり、アジサイと、季節感に統一性がない。
「どうしたんだよ、急に走り出して」という俺の言葉が聞こえなかったのか源尾は、「見てよ、あれ」と前方を指さす。見れば、揺らめく水面が花々に囲まれながら、鏡のように空の景色を映していた。あたりには青い羽根の小鳥が舞っており、その場の雰囲気は頭が痛くなるくらいにメルヘンだ。
「綺麗でしょ。お気に入りの場所なの。わたし以外に来るのは、伊瀬冬くんがはじめてだよ」
源尾は泉に歩み寄り、靴を脱いで素足を水につける。それから「つめたい」と言って無邪気に笑ったが、どういうわけかその表情は急に暗くなった。
「……ねぇ、伊瀬冬くん。私が転校した時のこと、覚えてる?」
「覚えてる。急だったな。お前が突然クラスメイトの前に出てきたと思ったら、『明日、転校します』だもんな。驚いたぞ」
「おかげで、さよならも言えなかったもんね。ほんとにごめんね、あの時は」
「いいんだよ、別に。でも、どうして急に転校なんてしたんだ?」
「ちょっと事情があって。それより伊瀬冬くん、ひとつお願いがあるんだ?」
「お願い?」
「そう。……その、手、繋いでもらってもいいかな?」
今の源尾は俺の記憶の中の姿と違いやけに積極的だ。しかしこれは夢の世界である。多少の違和感は水に流し楽しむべし。
俺は「おう」となるべく軽く答えながら源尾の手を取ろうとする。ふたりの指と指が触れ合うまさにその直前――耳元でベルの音が大きく鳴り響いた。
瞬間、世界は瞬く間に崩れ落ちて、「あっ」と思った時にはすでに、俺は見慣れた布団の中にいた。
〇
甘い世界から俺を引きずり出したのは、枕元に置いていたスマートフォンのアラーム音だった。「ふざけやがって」とひとり呟きながらアラームを止め、スマホを遠くへ投げ出し、俺は再度夢の中へと飛び込むべく、もっと言えば源尾と手を繋ぐべく、固くまぶたを閉じる。しかし興奮が先行しているせいか、いくら目をつぶっていてもちっとも眠れやしない。なんてことのない時は嫌でもやってくるクセに、大事な時に顔を出さないとは、眠気のヤツもなんとも勝手な性格だ。
夢への帰還を諦めた俺は、布団から出て窓のカーテンを開ける。朝の光が視界をくらます。紛れもなく現実だ、こんちくしょう。
それにしたって素晴らしい夢だった。夢の世界特有の脈絡のなさはさておき、先日見たものより遥かに鮮明で、遥かに自由度があった。目を閉じれば、今でも源尾の笑顔をまぶたの裏に描くことも容易い。脳内で声を再生することも容易だ。しかしこうなると、手を握れなかったことがますます惜しく思われる。握ったところでどうにもなるわけではないが、これから続く退屈な日常を過ごす励みにはなるだろう、たぶん。
「なんてもったいないことをしたんだ俺は」と後悔の念を垂れ流し続けながら、大学へ行くため着替えなど朝の支度を整えていると、床に投げ出したままだったスマホが振動して低い音を立てはじめた。拾い上げて確認してみると、知らない番号からの電話だ。こういう怪しい電話は出ないに限る。俺はスマホを再び投げ出してシャツのボタンを留める作業に戻った。
――と、その時、俺の頭にとある考えが浮かんだ。もしかして、いま電話を掛けてきているのは源尾なのではなかろうか――。
冷静な自分が「んなわけあるか」とこの考えを否定するより先に、スマホを拾い上げて通話ボタンを押す。恐る恐る「もしもし」と声を出してみると、やや間を置いた後、「もしもし」と返ってきた。
聞き間違いじゃない。源尾の声だ。
驚きと困惑と喜びで混沌とした感情を抑えつけながら、俺は「源尾か?」と問いかける。「伊瀬冬くん」という答えがすぐにあって、俺は思わず飛び上がりそうになった。
「久しぶりだな。どうしたんだよ、急に」と冷静を装いながらも、心臓は破裂寸前である。
「ううん。どうしてるかなって思って、昔のケータイから番号探してさ。かけちゃった」
乾いた笑い声を上げた源尾は、それからじっと黙ってしまった。こうなるとなんと言えばいいのかわからず、こちらも口を閉ざすしかない。
10秒ほど互いに沈黙が続いた後、源尾は歯切れ悪く喋り出す。
「その、変なこと言うけど……伊瀬冬くん、私の夢、見たでしょ?」
食い気味に「嘘だろ」と声が出てしまったのは失敗だと思ったが、こうなると止まれない。俺は働きの悪くなった脳みそをフル回転させて、精一杯言葉を絞り出す。
「見た、見たぞ。源尾の夢だった」
「……私と、泉の周りで話す夢?」
「おいおい。どうして知ってるんだよ」
「だって、その夢で見たのは私だから」
「そんな……冗談だろ?」
「冗談だったら、どうして私が伊瀬冬くんの夢の内容知ってたの?」
そりゃそうだ。こんなことが冗談で通るなら、世界のすべてが冗談で出来ている。『運命』という言葉まで早々に頭に浮かび、「いやいやまだそれは早い」とすぐさま心中で否定するものの、口元の笑みは未だ消えない。
「じゃあ本当に俺達は、夢の中で会ったってことなんだよな?」
「そうだよ。信じられないかもしれないけど」
「信じるよ。こうなりゃ、なんだって信じる」
「……うん。ごめんなさい、伊瀬冬くん」
「ごめんなさい」という想定していなかった言葉に首を傾げていると、源尾は「じゃあね」と細く呟いた。
「伊瀬冬くん。夢の私をよろしくね」
そこで通話はぷつんと切れた。慌てて源尾の番号へ電話を掛け直したが、無機質な呼び出し音が鳴り続けるばかりで、電話が繋がることは無かった。
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