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三十粒目 三人のカオル

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 気づけば、馨は『しまうま』にいた。いや正確に言えば、二週間前の『しまうま』にいた。目の前には、キッチンの奥から出てきたマスター室藤を「待ってました!」と拍手と共にやけに明るく迎える香。どうやら本当に過去に来ているらしいと馨が内心で理解したその瞬間、「カオルくん、聞こえる?」と頭の内側から声がしたものだから、彼は思わず「うわわ」と声を上げた。

 目の前の香は「どしたの?」と首を傾げている。マスター室藤も心配するように彼を見つめる。「なんだ今の」と思ううち、「落ち着いて」とまた頭の内側で声がした。

「わたしだよ、わたし。香」

 ああ、なるほど。お姉さんか。ならよかった。なんて落ち着けるわけがなく、馨は慌てて周囲を見回す。しかし当然、香は目の前にひとりしかいない。「どこにいるんです」と声に出して問えば、彼女からは「カオルくんの中だよ」などとたまげた答えが返ってきた。そんなアホなと馨は思ったが、そもそも時間を超越しているのだからアホなことでも信じる他ない。

「つまり、俺の身体にお姉さんの意識があるということですか?」
「そゆことになるね。なんかヘンなカンジだけど、気にしてるヒマはないよ。行かなくちゃ」

 馨は「ですね」と頷き、目を白黒させながらこちらを見るマスター室藤へ「行ってきます」と告げた。

「う、うん。悪いけど、よろしく」

 エプロンを外し、貴重品など最低限のものだけ持って店を飛び出す。目指すは自分が命を落とした場所、池袋。九月とさほど変わらぬ暑さの中、馨が早足で歩いていると、背後から現在の香が追いかけてきた。

 馨に並走した彼女は、彼の肩を「ねえねえ」と指で突く。

「どしたの急に。なんか、色々おかしいよ?」
「すいません。行かなきゃいけないところがあって」
「マスターさんから聞いた。弟さんのお店、手伝いに行くんでしょ? でも、それにしたってそんな急がなくてもいいじゃない?」
「あのですね。実は、あまり詳細は話せないんですけど、これからなかなか大変なことをしなくちゃいけなくて」
「そうなんだ。じゃ、手伝うよ? ヒマだし」
「あ、いや。ヒマだからとか、そういう軽い感じで手伝うのも危ないかもしれないことでして。とにかく、お姉さんには待っていて頂きたいんです」

「平気平気。ほら、行こう?」などと、彼女には話を聞く気が感じられない。とはいえ、たとえば急に走り出すなどして無理に撒こうとしても逆効果のように馨は思えて、どうしようかと思案していると、中にいる香が「うーん」と唸った。

「しつこいなぁ。さすがわたし」
「あの、どうすれば追い払えるのかお姉さんだったらわかるんじゃないですか? なんたって、本人なんですし」
「本人から言わせてもらえば、無理だね、たぶん。なに言ってもついてくると思う」
「そんな馬鹿な」
「バカだよ。カオルくんだって知ってるでしょ?」

 あっけらかんとした調子の香はさらに続けた。

「いっそのこと、この時のわたしにも手伝ってもらおっか。なにが起きるかわからないし、人手は多い方がいいでしょ」
「とはいえ、本当のことを言って信じるかどうか……」
「大丈夫。信じなかったらわたしが代わってあげる」

 ならばと、足を止めた馨は彼女に向き合い表情を引き締める。

「あの、お姉さん」
「お。どしたの急に。真面目な顔して」
「実は俺、未来から来たんです」

 刹那の沈黙。それから香は腹を抱えて笑い出した。まあ、そりゃそうだろうな。逆の立場なら信じないもんなと、馨は半ば投げやりな気持ちになりながら息を吐いた。

「……やっぱり信じませんね」

「了解。代わる」と〝内側〟の香が言ったその瞬間、馨は自らの身体を意識して動かせなくなった。この感覚にはなんとなく覚えがあると思えば、鬼子母神堂での一件の時と同じだ。今現在この身体の操縦権は、自分ではなくお姉さんにあるらしいぞと理解した馨は、黙って事の行く末を見守る。

 馨の身体を借りた香は、目の前にいる〝過去の自分〟を見据えながら大きく息を吸うと――。

「あなたの初恋の相手は幼稚園の頃に同じクラスだったマサキくん。はじめてのキスは小学二年生の夏休みで、一組のリュウくんと。おねしょを最後にしたのは――」
「ちょ――ちょっ! いきなりなに?! というか、カオルくんがなんでそんなこと知ってるの?!」
「色々事情はあるけど、とりあえず結論から言えば、今のカオルくんの中にはわたし……つまりはあなたもいるってこと。信じるなら、歩きながら説明してあげるけど?」

 真っ赤になった両耳を手のひらで包むように握った彼女は、恨みがましい瞳で香を睨んだ。

「わかった。でも、恥ずかしくないわけ? 自分の秘密をぺらぺら話しちゃって」

「慣れっこなの」と香はさらりと言ってのける。自由の利かないところで彼女の秘密を強制的に聞かされる羽目になった馨は、勝手に恥ずかしくなっていた。
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