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三十一粒目 あっけない幕引き

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 身体の操縦桿を返して貰った後で、馨は駅へと向かいながら〝外側〟の香へ現在の状況などを説明した。十分強に及ぶ彼の話を眉間にしわを寄せながら黙って聞いていた香は、彼の話が終わると「なるほど」と呟き、腕を組みつつ空を見上げた。

「いやあ、なんだか難しい話になってきたねぇ」
「話は複雑ですが、やることはシンプルです。火事を未然に防いで、誰ひとり死なないようにする。それだけですよ」

「カッコいいこと言うじゃん」というふたり分の香の声が、内と外から期せずして揃って、馨はなんだかむず痒くなった。

〝三人〟のカオルは電車に乗り込み池袋を目指す。マスター室藤の親戚が経営するレストラン『A train』は、サンシャイン通りから一本外れたところにある。周囲をゲームセンターやカラオケ店に囲まれた、五階建ての雑居ビルに看板を構えており、お手製のデミグラスソースをかけたオムライスが大変美味だと、夕方のニュースで取り上げられたこともある老舗の店だ。

 カオル達が現地に着いたのは午前十時過ぎのこと。建物を外側から眺めてみれば、なるほど火災が発生するのも頷けて、というのも、見た瞬間に「古い」という言葉が口を突いて出るほどのオンボロビルである。その割には背も高く、またそれなりに広さもあるものだからタチが悪い。

 一階には例の『A train』が、二階から四階まではゲームセンターが入っており、最上階はレンタルスペース。屋上は無し。火元として警戒するべきは一階のレストランくらいだろうと、馨はその点を安心した。

「ねえ。この建物には爆弾が仕掛けられてるとか適当なこと言ってさ、お客さん全員追い払っちゃえばいいんじゃないの?」と外側の香は突然物騒なことを言う。

 馨が冷静に「そんなことしたら捕まりますよ、普通に」と返せば、「そっか」と軽く言って撤回したところを見るに、考えなしの提案だったのだろう。馨の内側から自身の発言を聞いていた香は、「わたしって、こんな頭悪いこと言う人だっけ?」と、ショックを受けた様子である。

 それから、馨は店員として、香は客として、異なる立場から店内を見守り火事を防ごうという話になった。

 店が開店する十一時まではまだ一時間近くある。香と一旦その場で別れ、店の入り口を開けた馨が「手伝いに来た者ですが」とキッチンの方へ声を掛けると、奥からかひょこひょことした歩き方をする小太りの男性が出てきた。顔にはマスター室藤の面影がある気はするが、なんだか全体的に丸い石みたいにツルンとしていて頼りない。

 おまけに馨の顔を見るや否や、「いやいやいや。待ってた、待ってた、超待ってた。助かる、本当に助かる。日曜のこの時期に、急にバイトが体調崩すって、ツイてないとかそういうレベルじゃないくらいにツイてない。でも、まあ、持つべきものは兄だね。泣きついたら、頼れる子がいるから、手伝いに行けるか頼んでみるよって言ってくれて。って、僕って喋り過ぎ?」などと、饒舌という言葉が恥じ入るほどにぺらぺら喋り出す始末である。「本当にあの室藤さんの弟なのだろうか」と、馨が心の底から疑ったのも無理はない。〝内側〟の香は、「マスターさんがお腹の中に忘れたおしゃべり機能を、弟さんが持ってったカンジ?」と彼を評した。

 彼の名前は室藤孝之という。数年前まで病院関係の仕事をしていたらしいのだが、父親がギックリ腰で倒れたとのことで、独立していた兄に代わって職を辞して家業を継いだというのだから、頼りない見た目に反して中々の孝行者といえた。

 互いに簡単な自己紹介を済ませた後、馨はキッチンで店の仕事について説明を受けた。さすがマスター室藤の弟の店と言うべきか、提供するメニューはほとんど『しまうま』と変わらない。「これならだいたいは大丈夫そうです」と馨が言えば、ブラザー室藤は「おお、頼もしい」と拍手した。

「じゃ、窪塚くんはキッチンよろしく。基本、僕がフロアをバタバタするから。右往左往、あっちこっち、もう目が回るほど大変な未来がすでに見える見える。いっそのことアシュラマンになりたい、って、いまの若い子じゃ知らないか、アシュラマン。手は四本。顔は三つ。アシュラバスターがメチャクチャ強い。知らないよね?」

 馨は「知りませんね」と彼の無駄話を両断した。





 話が終わるころには、臨時である馨を含めて四人の従業員が『A train』に揃った。それから手早く仕込みを進めて、気づけば十一時。開店時刻である。開店から五分ともしないうちに一組目、二組目と順調に客が入ってくるのだから、さすが都心に看板を構えるだけあってかなり盛況しているらしい。

 馨は慣れないキッチンで忙しく働きながらも、忙しく周囲に目を配り火事を警戒した。しかし、たとえば油を引いたフライパンを火にかけっぱなしだとか、燃えやすい物をコンロの近くに置いているだとか、そういったミスは見受けられない。時折、店内にいる香へ視線を送り首尾を訊ねたが、その度に腕をクロスさせたバツ印が返ってくるばかりであった。

「……わたしたちが来たせいで、火事が起きるって未来が無くなったとか?」

 内側から祈るような香の声が聞こえた。「わかりません」と小さく答えつつ、馨はフライパンを振ってチキンライスを炒める。

「それなら、それが一番いいんですが」

 時刻はやがて一時半を迎えた。もう間もなく火災発生の予定時間である。

 昼のピークは終わりを迎え、店内は空席が目立つような状況だ。これを見たブラザー室藤が、「交代で休憩お願い。あ、僕のことはいいや。店主だから仕方なし」とわりと短めに従業員に告げたので、順番を決めて交代で昼休憩に入ることになった。馨が「最後でいいですよ」と申し出たのは、もちろん火事を警戒してのことである。

 昼の時間は過ぎたといえど、客が全く入らないわけではない。馨が高々と積まれた使用済み食器を洗っていると、ブラザー室藤が「注文入ったよぉ」と声を掛けてきた。オーダーを見ると、ビーフシチューに厚切りステーキ。

 シチューの方は作り置きしてあるのを温めて盛ればいいからさておき、ステーキの方は『しまうま』にはないメニューゆえ、素人がやるには焼き加減が難しい。どうすればいいかと馨がブラザー室藤へ訊ねると、「ああ、それ。だったら、テラさんに任せた方がいいかも」と答えがあった。テラさんとは、キッチン担当のベテランスタッフ、寺内のことである。

「寺内さん、休憩中だけどいいんですかね」
「いいよいいよ。困った時はお互い様で仕方なし。言いづらいだろうし、僕が頼んでくるよ」

 そう言うとブラザー室藤は更衣室兼休憩室で休む寺内へ、「テラさーん」と気安げに声をかける。すると間も無くして早足でキッチンにやって来た寺内は、慣れた手つきで肉を焼き始めた。

 五分としないうちにオーダーは片付け終わったものの、それを皮切りに注文が続く。困ったことにステーキばかりだ。寺内は「人気者はつらいね」と冗談めいた調子で調理を続け、馨はそれのサポートに入る――と、その時、馨の鼻は寺内の身体から微かに臭うものを感じた。煙草の香りだ。

 ――まさか。

 ハッと気づくものがあって、馨は慌てて休憩室へ急いだ。煙草が出す以上に白い煙が部屋中に充満しており、見れば寺内の吸いかけの煙草の灰が、彼が読んでいたと思わしき雑誌に落ちて、そこから小さな火が上がっている。

 発見の瞬間、馨は「うぉぉ!」と驚きの声を上げる。香は「火! 火!」と見ればわかることを身体の内側で叫ぶ。ふたりのカオルの慌て方は悠々頂点を超えるほどであったが、あらかじめ火事が起きるという心構えでいたおかげか、火元の雑誌を床に落として靴のまま足で踏んづけた。

 ボヤは難なく鎮火する。ふたりのカオルは未だくすぶる燃えかけの雑誌を見つめながら、揃って息を吐いた。

「呆気ないもんだね、終わってみれば」と香は笑い、「ですね」と答えた馨も笑った。
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