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三十三粒目 約束
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燃えゆくビルの中へと入っていく馨を引き留めることができなかった香は、無意味にその場で立ち尽くしていた。
――どうしてわたしは、カオルくんを止めなかったんだろう。どうしてわたしは、カオルくんを止められなかったんだろう。……ううん、考えたって仕方ない。答えはシンプルだ。わたしは、わたしを救って欲しかった。それだけ。たったそれだけの、わがままな理由。
白煙は夏の空へと浮かび、ほんの一瞬だけ入道雲のようになった後でゆっくりと消えていく。パチパチと何かが焼けて弾ける音がにわかに聞こえる。こんな時にも蝉は構わず鳴いている。
徐々に灰となり消えていく現実を、香がただ唇を噛んで見つめていると、足立が「長瀬さん」と彼女を呼びながら歩み寄ってくる。
香の悲壮感溢れる表情を見た足立は、周囲に馨の姿が無いことに気付いて表情を険しくした。
「……まさかとは思うが、彼は中へ行ったのかい?」
香は声を出さずに小さく頷いた。それを受けた足立は、〝死〟の一文字を即座に連想し、言葉を失い堪らず俯く。「どうしよう」とすがるように呟いた香も、同じように視線を落とす。ふたりの姿に、いつものような快活さは微塵も感じられなかった。
そんなふたりへ、ふと大きな影が落ちてきた。島津である。彼はふたりの肩をその大きな手のひらで優しく叩くと、「できることをやろう」と、穏やかながらも力強い声を発した。
「窪塚くんみたいに中に飛び込むのはちょっと無理かもしれないけど、俺たちだって、できることがあるはずだよ」
――……そうだよ。後悔したままぼぅっと待ってるだけなんてイヤだ。動いて、あがいて、バカやらなきゃ。カオルくんのために。
前を向いた香は自らの頬を思い切り摘んで「よっしゃ!」と気合を入れる。彼女と同様に頼もしい島津の言葉に焚きつけられたのか、淀んでいた足立の瞳に光が戻る。
真一文字に結んでいた唇にキザっぽい笑みを取り戻した足立は、「島津くんの言う通りだ」と自信たっぷりに言って、ビルの最上階を見上げた。
「私達には私達の出来ることがある。差し当たって、今は〝緊急事態〟に備えるべきだろうね」
かくして三人は、馨に数分遅れる形で動き出した。
◯
一方、ビルへと戻ったふたりのカオルは、美緒を探して建物の中を一階から注意深く探し回っていた。一階はまだそれほどでもなかったが、火元となる二階へ昇れば白煙と熱量が途端に命の危機を匂わせるほどになる。濡らしたハンカチで口元を覆い、姿勢を低くして歩きながら、馨は「美緒ちゃーん!」と繰り返し叫んだが、一向に返事は返ってこない。秒毎に焦りは募る。全身から噴き出す汗は熱さのせいだけではない。
彼の心中を察した香は、内側から彼に声をかけた。
「大丈夫。まだ時間はあるよ。落ち着いて探そう?」
「ええ。わかってます。わかってますが……」
二階に人影は見当たらない。三階へ昇って探してみても同じ。いよいよ四階を探そうと、階段を一段飛ばしで駆け上がったその時、馨の視界は踊り場の隅で丸まる小さな人影を捉えた。小学生低学年くらいの女の子。強く抱き抱えられているのはペンギンのぬいぐるみ。間違いない、美緒である。
――いた!
急ぎ駆け寄り、ぐったりとした少女の身体を抱き起こしながら、馨は「美緒ちゃん!」と強く叫ぶ。閉じていたまぶたをうっすらと開けて彼を見た彼女は、小さく頷くと同時にまた目を閉じた。口元に手を当てれば、呼吸はまだ感じられる。
――よかった。生きてる。
とりあえず馨はホッとしたが、しかしこれで終わりではない。むしろここからが本番と言えた。
「カオルくん、大丈夫? 運んであげられる?」
「もちろん。文字通りの火事場の馬鹿力です」
香を心配させぬように冗談で返した彼は、美緒の身体をお嬢様抱っこの要領で持ち上げた。ずしりとくる重さを感じながらも、「なんとかしろ」と自分に言い聞かせた彼は、一段ずつ階段を慎重に降りていく。
――空気が薄い。身体が熱い。鉛みたいに手足が重い。いっそのこと目をつぶってしまいたくなる。でも、止まるもんか。ここで諦めたら、何のために時間なんてものまで越えてここまで来たんだ。
四階から三階へ。それから二階へ――と、順調に進んでいた彼の行く手を遮ったのは、生命器官へ嫌というほど死の予感を訴えかける黒煙だった。
――ひと息でも吸ったらまずい。あの中に入るなんて考えたくもない。でも、あと少しなんだから、ちょっとくらい無理すれば――。
「カオルくんっ! 上に行って助けを待とう!」
香の言葉が馨の頭を冷やした。無謀な試みを即座に捨て去った彼は、彼女の言葉に従い元来た道を引き返す。五階のレンタルスペースまで昇れば、まだ煙はだいぶ薄く、熱気も遠い。死が迫るにはまだだいぶ余裕があると見えた。
広い部屋には会議用の椅子と長テーブルくらいしかない。窓際まで寄って新鮮な空気を吸った馨は、美緒をそっと床に下ろしてやり、壁に背を預けたままその場にへたり込んだ。
「ここなら、しばらくは大丈夫そうですね」という馨の声に、香は「だね」と安心したように答える。
「帰るんだよ、絶対に」
「ええ、帰ります。絶対に」
――どうしてわたしは、カオルくんを止めなかったんだろう。どうしてわたしは、カオルくんを止められなかったんだろう。……ううん、考えたって仕方ない。答えはシンプルだ。わたしは、わたしを救って欲しかった。それだけ。たったそれだけの、わがままな理由。
白煙は夏の空へと浮かび、ほんの一瞬だけ入道雲のようになった後でゆっくりと消えていく。パチパチと何かが焼けて弾ける音がにわかに聞こえる。こんな時にも蝉は構わず鳴いている。
徐々に灰となり消えていく現実を、香がただ唇を噛んで見つめていると、足立が「長瀬さん」と彼女を呼びながら歩み寄ってくる。
香の悲壮感溢れる表情を見た足立は、周囲に馨の姿が無いことに気付いて表情を険しくした。
「……まさかとは思うが、彼は中へ行ったのかい?」
香は声を出さずに小さく頷いた。それを受けた足立は、〝死〟の一文字を即座に連想し、言葉を失い堪らず俯く。「どうしよう」とすがるように呟いた香も、同じように視線を落とす。ふたりの姿に、いつものような快活さは微塵も感じられなかった。
そんなふたりへ、ふと大きな影が落ちてきた。島津である。彼はふたりの肩をその大きな手のひらで優しく叩くと、「できることをやろう」と、穏やかながらも力強い声を発した。
「窪塚くんみたいに中に飛び込むのはちょっと無理かもしれないけど、俺たちだって、できることがあるはずだよ」
――……そうだよ。後悔したままぼぅっと待ってるだけなんてイヤだ。動いて、あがいて、バカやらなきゃ。カオルくんのために。
前を向いた香は自らの頬を思い切り摘んで「よっしゃ!」と気合を入れる。彼女と同様に頼もしい島津の言葉に焚きつけられたのか、淀んでいた足立の瞳に光が戻る。
真一文字に結んでいた唇にキザっぽい笑みを取り戻した足立は、「島津くんの言う通りだ」と自信たっぷりに言って、ビルの最上階を見上げた。
「私達には私達の出来ることがある。差し当たって、今は〝緊急事態〟に備えるべきだろうね」
かくして三人は、馨に数分遅れる形で動き出した。
◯
一方、ビルへと戻ったふたりのカオルは、美緒を探して建物の中を一階から注意深く探し回っていた。一階はまだそれほどでもなかったが、火元となる二階へ昇れば白煙と熱量が途端に命の危機を匂わせるほどになる。濡らしたハンカチで口元を覆い、姿勢を低くして歩きながら、馨は「美緒ちゃーん!」と繰り返し叫んだが、一向に返事は返ってこない。秒毎に焦りは募る。全身から噴き出す汗は熱さのせいだけではない。
彼の心中を察した香は、内側から彼に声をかけた。
「大丈夫。まだ時間はあるよ。落ち着いて探そう?」
「ええ。わかってます。わかってますが……」
二階に人影は見当たらない。三階へ昇って探してみても同じ。いよいよ四階を探そうと、階段を一段飛ばしで駆け上がったその時、馨の視界は踊り場の隅で丸まる小さな人影を捉えた。小学生低学年くらいの女の子。強く抱き抱えられているのはペンギンのぬいぐるみ。間違いない、美緒である。
――いた!
急ぎ駆け寄り、ぐったりとした少女の身体を抱き起こしながら、馨は「美緒ちゃん!」と強く叫ぶ。閉じていたまぶたをうっすらと開けて彼を見た彼女は、小さく頷くと同時にまた目を閉じた。口元に手を当てれば、呼吸はまだ感じられる。
――よかった。生きてる。
とりあえず馨はホッとしたが、しかしこれで終わりではない。むしろここからが本番と言えた。
「カオルくん、大丈夫? 運んであげられる?」
「もちろん。文字通りの火事場の馬鹿力です」
香を心配させぬように冗談で返した彼は、美緒の身体をお嬢様抱っこの要領で持ち上げた。ずしりとくる重さを感じながらも、「なんとかしろ」と自分に言い聞かせた彼は、一段ずつ階段を慎重に降りていく。
――空気が薄い。身体が熱い。鉛みたいに手足が重い。いっそのこと目をつぶってしまいたくなる。でも、止まるもんか。ここで諦めたら、何のために時間なんてものまで越えてここまで来たんだ。
四階から三階へ。それから二階へ――と、順調に進んでいた彼の行く手を遮ったのは、生命器官へ嫌というほど死の予感を訴えかける黒煙だった。
――ひと息でも吸ったらまずい。あの中に入るなんて考えたくもない。でも、あと少しなんだから、ちょっとくらい無理すれば――。
「カオルくんっ! 上に行って助けを待とう!」
香の言葉が馨の頭を冷やした。無謀な試みを即座に捨て去った彼は、彼女の言葉に従い元来た道を引き返す。五階のレンタルスペースまで昇れば、まだ煙はだいぶ薄く、熱気も遠い。死が迫るにはまだだいぶ余裕があると見えた。
広い部屋には会議用の椅子と長テーブルくらいしかない。窓際まで寄って新鮮な空気を吸った馨は、美緒をそっと床に下ろしてやり、壁に背を預けたままその場にへたり込んだ。
「ここなら、しばらくは大丈夫そうですね」という馨の声に、香は「だね」と安心したように答える。
「帰るんだよ、絶対に」
「ええ、帰ります。絶対に」
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