食べると未来が見えるようになるアポロチョコを長瀬香が手放した理由

シラサキケージロウ

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三十五粒目 食べると未来が見えるようになるアポロチョコを長瀬香が手放した理由

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 気づくと、馨はベッドの上にいた。薬品の苦い香りが鼻をつき、そこが病院であることを教えてくれる。カーテンの隙間から光が漏れているところを見るに、時間は昼だろうか。室内ではクーラーが動いているが、汗ばむほど暑い。

 なぜこのようなところにいるのか。それを確かめるべく、馨は「お姉さん」と呼びかけた。しかし〝中〟からの返事はない。彼女はどこへ消えたのか。心臓が跳ね、身体が震える。慌てた馨が繰り返し「お姉さん」と呼びかけていると――「ここにいるよ」と声が響いた。病室の入り口にいたのは探し求めていた姿、香だった。

「……お姉さん、ですよね」
「はい、お姉さんだよ」
「……まさか、幽霊とかだったりしませんよね?」
「バカ」

 そう言って笑って彼の寝るベッドの傍に歩み寄った香は、「お疲れ、カオルくん」と、右手に持っていたアポロチョコを彼の口に突っ込んだ。

「間違いなく戻ってきたんだよ、わたしたち」

 慣れ親しんだ味が口内に広がると共に、今が現実であると確信した馨は、「よかったぁ」と大きなため息を吐く。同時に走る胸への痛み。身体の内側からナイフで刺されたような痛みに悶絶した馨は、声にならない叫びをあげた。

「だ、大丈夫? 骨の色々なところが折れてるんだから、あんまり動かない方がいいよ?」

「骨?」と訊ねた瞬間にまた激痛。呼吸すら億劫になるほどだ。

「そ。あの時のわたし、近所のゲームセンターから集めたぬいぐるみをクッション代わりに使ったみたいなんだけどさ、ちょっと足りなかったみたいなんだよね。美緒ちゃんの方は無事だったんだけど、カオルくんは落ち方が悪くて……で、そのカンジ」

 そりゃないだろうと馨は自身の不幸を呪ったが、思えばあんな場所から生きて出られたことが奇跡みたいなものなわけで、となると文句も言うに言えない。

「……今度は、もっと大量にぬいぐるみ用意しといてくださいね」と愚痴半分にこぼせば、香は「今度があれば、そうするよ」と言って笑った。

「ねえ、カオルくん。ところで、なんか大事なこと忘れてない?」
「大事なこと、ですか?」
「そ。飛び降りる前のやり取り。返事、無かったなぁって」

 言われて、馨の体温は瞬間的に急上昇した。「好きだよ」という彼女の甘い声が幾度と頭にリフレインする。融けた脳味噌を口から吐きそうになるのと、叫びたくなる衝動のふたつをなんとか堪えながら、彼は「俺もです」と辛うじて答えた。

「俺も、なに?」
「俺も、お姉さんのこと、好きです」
「ん。よろしい」

 満足そうに頷いた彼女は、自分の右手人差し指に軽く口づけしたかと思えば――その指を馨の下唇へ当てた。融けた脳味噌の代わりに、涎が一滴彼の口元に溢れた。

「じゃね、カオルくん。また明日来るよ」

 恥ずかしそうに頬を染めた彼女は早足で病室を去っていく。

 痛む全身、高鳴る鼓動。とりあえず馨はもうひと粒、アポロチョコが食べたくなった。





 馨が病院を退院するまでは二週間を要した。入院の間、香や父親、学校の友人以外にも、多くの人が彼の病室を訪れた。

 あの日、助けた美緒とその母親。足立と島津のわたあめ屋コンビ、改め〝カップル〟。マスター室藤とその弟。高校生の〝勇気ある行動〟を取材したいマスコミ……。色々な人が入れ代わり立ち代わりで来たものだから、とうとう担当ナースの怒りが頂点に達し、丸二日間ほど面会謝絶の状態になったほどだ。しかしこれも、馨にとっては入院中の楽しい思い出のひとつである。

 入院中に馨は色々と調べたが、あの日の火事による死者数はゼロで間違いないとのこと。代わりに重傷者がひとり。この重傷者というのが、自分のことだろうと馨は新聞を眺めながら理解した。

 退院してからしばらくは休んだ分の授業に付いていくのに必死で、バイトも休んで勉強漬けの毎日だった。その間、しばらくふたりのカオルは直接会わなかったものの、毎日欠かさず電話して他愛のない会話に花を咲かせた。

 勉強の心配もなくなり、体調も万全だということで、バイトに復帰したのが退院から三週間後のこと。日曜の午前九時半。久しぶりに『しまうま』の扉を開いた彼を、店員でもない香が、今にも幸せで弾けそうな笑みを浮かべながら「おかえり」と迎えた。





 春夏秋冬はのんびりゆらりと、しかし着実に巡っていく。誰に「待って」と言われたところで、足を止めて振り返ることすらしない。

 ふたりのカオルが出会ってから一年以上が経過した。秋、冬、春を超えた季節は再び夏へと戻ってきて、高校三年生となった窪塚馨は、大学受験に備えて勉強に追われる夏休みを過ごしている。

 一方の長瀬香はといえば、相変わらず『しまうま』に出入りする日々。しかしそれは今までのように客としてではなく、店のスタッフとしてであった。彼女は受験勉強のためにバイトを休職した馨に代わり、『しまうま』の店員を勤めているのである。料理の腕は彼に劣るが、持ち前の愛嬌と明るさにより、常連客からもそうでない客からも評判は高い。以前より客が増えたほどだが、この事実はマスター室藤の胸の中にしまってある。

 さて、その日。昼の十五時を過ぎたころ、『しまうま』にて。夏らしくないシトシトとした雨が朝から降り続いており、おかげで客足は芳しくない。というよりも、昼時にちらほら客が来たばかりで、それ以外は開店休業状態といったところ。

 客のいない店内に響くのは、細雨が屋根を叩く小さな音と、フランク・シナトラの『That’s life』。最近になってようやく、修理に出していたマスター室藤のオンボロレコードプレーヤーが返ってきたのである。

「ヒマだ」と呟くマスター室藤は、あごヒゲをジョリジョリと撫でる。それに「ですねぇ」とのんびり答えた香が、白いタオルで磨き上げたコーヒーカップを見つつ、満足そうに頷いたその時、真鍮製のベルが響いて来客を告げた。店に現れたのは馨であった。彼は自主勉強の場所として、時折この店を使わせてもらう事がある。

 彼の姿を一目見た香は、主人の帰ってきた時の子犬のように目を輝かせて手を振った。

「おー。カオルくんじゃん」

「どうも、〝香さん〟」と、馨が「お姉さん」ではなくてきちんと彼女の名を呼んだのは、〝道連れ〟としてではなく、男女として交際をはじめて半年近く経つことを考えれば自然なことと言えた。

「いらっしゃい」と微笑むマスター室藤に「どうも」と一礼した馨は、店の最奥、角の席を選んで座る。何もやることがないのをいいことに、店員であるはずの香も当然のように彼の対面に座った。

「いいんですか、店員なのに」
「いいんだよ、どうせヒマだし。休憩休憩」

 小さくため息を吐いた馨は鞄から参考書を取り出して開く。間もなくしてマスター室藤がふたりの元へコーヒーを運んできた。

 香はコーヒーをすすりながら、馨へ「どう? 勉強、進んでる?」とか、「わかんないとこあったら、教えてあげよっか?」とか色々話しかけるのだが、「ええ」だとか「まあ」だとか、気の無い返事が返ってくるばかり。

 もしかして、勉強の邪魔かなと考えた彼女は、「じゃ、がんばって」と残して席を立とうとしたのだが、その直前に馨が「あの」と引き留めた。

「香さん。今日はチョコレート、食べたんですか?」
「ん。まあ、おまじない的にひと粒だけね」
「どんな未来を見たんですか?」
「なんか、わたしがビックリして顔が真っ赤になってるとこ」
「それ、実現しましょうか?」
「勘弁してよ。前までとは違うんだから。ツマラナイ未来の実現はもうおしまい」

「ですよね」と、なんだか歯の奥に物が詰まったように呟く馨を見て、なにかあったのかなと思った香は、浮かせた腰を席へと戻した。

 再び向かい合うふたりのカオル。馨は宙に飛ぶ蚊を追うよう視線をあちこちへやりつつ、ぎこちなく言葉を紡いだ。

「俺、最近になって気づいた事が一個あって。香さん、未来を見る時、ただ漠然と俺の視界を見ているわけじゃないみたいなんですよ」
「どゆこと?」
「つまり、俺がアポロチョコを食べてる時の視界から、未来を見てるみたいなんです」
「……なるほど?」
「わかってない感じですか」
「なんとなくわかったような、いまいち納得できないような……」
「わかりました。じゃ、試しましょうか」
「……どゆこと?」
「少々お待ちを」

 そう言うと馨はおもむろにポケットからアポロチョコの箱を取り出し、ひと粒出して口に咥える。頭に疑問符を浮かべつつ、香が彼の奇妙な行動を見守っていると――思い切ったようにテーブルに身を乗り出した彼は、自らの唇を香の唇にそっと押し付けた。


 苦いコーヒーの香りと人工的な苺の甘い香りのふたつが、ふたりを柔らかく包んでいる。

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