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第10章
(27)死神
しおりを挟む--カロンッ。
深夜の街に、帳珈琲店のカウベルの音色が響いた。
入り口にはいつもの貼り紙。そして、目印となる橙色のランプがその周辺を優しく照らしている。閉店後の掃除を終え、入り口の灯りも消して、私は帳さんと並んで歩き出した。
「雨宮さんと美空さん、付き合う事になったんですね」
「はい。見つめ合う二人の間で、なんだか恥ずかしかったです。その後に、カフェの前で彼のリュックから出してもらいました」
そんな風に自分が関わった人々の話をしつつも、私の心はずっと、帳さんが言ったあなたのような死神の話を聞く為に、僕はこの珈琲店を譲り受けたという言葉が気になって仕方なかった。
「帳さん……あの……」
「そう言えば、まだ僕の話の途中でしたね」
私の表情を見た帳さんが、それを察するようにまた話をしてくれた。
「三年前。僕が二十九歳の時に、弟は事故にあいました。病室で眠る弟の前で、父が僕に言ったんです。『事故にあったのが、お前じゃなくて良かった』と……。その瞬間、僕の中の何かがプツリと切れて、父の胸倉を掴み怒鳴りつけていました。それから退職願を送りつけ、僕は父の会社を辞めたんです」
その後、帳さんは無気力状態で、夜の街をフラフラとさまよい歩いていたという。
「あの父親に喪失感を味合わせるには、僕が居なくなるのが一番だと思って、僕はただ居なくなろう。そう思って彷徨っていたんです。その時、ふと目に止まった灯りがありました。夜闇の中にほんのり照らされた、橙色のランプが……」
──あなたの話を聞きます。ただ聞くだけ、何も解決いたしません。
「近付くと、そこは珈琲店で、入り口には変わった貼り紙がありました」
「それって……」
思わず言葉を挟んだ私に向かって、帳さんが頷く。
「その店の名は、帳珈琲店。自分の苗字と同じで驚きました」
「このお店の名前は、帳さんの苗字からつけたものではなかったのですね」
「はい」
夕刻開店の店に合わせ、『夜の帳が降りる』という表現から、先代マスターがそう名付けたというのが本当の由来らしい。
「引き寄せられるように扉を開けると、この独特のカウベルの音色と、優しい笑顔の老父が出迎えてくれました。あぁ、この人に全部話して、全部全部話して、それから僕は居なくなろう。そう、思ったんです」
居なくなる。
それは、死を選ぼうとしていたという事だろうか。
抱えていたものを吐き出すように、帳さんは全てを老父のマスターに話し続けたという。
「話して、話して、話し尽くした僕に、マスターが珈琲のお代わりと、昔ながらのオムライスを出してくれました。一言だけ、『弟さんが目を覚ました時、君が居なかったら寂しいだろうな』と、そうつぶやきながら……」
帳さんがその光景を思い返すように、小さく笑う。
「美味しかったな。今まで食べた中で、一番あのオムライスを美味しく感じました。誰かに話をして、美味しい物を食べる。何も状況は変わっていないのに、何一つ解決なんかしていないのに、話す事・食べる事、その行為はそれだけで、人を救うんだなと驚いたんです」
知り合いではない。
自分と家族の事など何も知らない誰かに話しをする。むしろそれが、話しやすくて楽だったと、帳さんがそう言葉を付け足した。
『よく来てくれましたね。ここを見つけてくれて有り難う。君が、この珈琲店の最後のお客様だ』
老父のマスターは、そう言って優しく笑い掛けてくれたという。
「膝の具合が悪く、その日この店を閉める予定だったと聞きました。この店のお陰で僕は心が楽になって、また冷静に色んな事を考える余裕を持てたんです。後に、僕がこの店を買い取る事になるのですが……。店の入り口に、どうしてあんな貼り紙があるのかと、僕はマスターに尋ねました」
続きを話そうとした帳が、「ふふっ」と声を出して笑う。
「あの貼り紙は、自分を落ちこぼれだと卑下する死神のお客様がきっかけだったそうです」
「え……?」
帳さんの言葉に驚き、私は歩く足を止めた。
「僕がここを訪れる一ヶ月程前の雨の夜。閉店間際の帳珈琲店に、ずぶ濡れの男性が入ってきた。マスターが男性客にタオルとメニューを差し出すと、その男性がこう言ったそうです」
『お金がないので注文はできませんが、どうか、話を聞いてくれませんか』
実は自分は落ちこぼれの死神で、死神の初級試験にもう何年も合格できずにいる。
本当は人間を不幸になどしたく無いのに、元の世界に戻る為に仕方なく、今日一人の人間を不幸にしてしまった。その死神は、泣きながらそう話したという。
すぐに合格通知が届いて、元の世界に戻れるようになったけれど、この世界のどこかに、きっと自分と同じように心を痛めている死神や、居場所がなく途方に暮れた死神達がいるはずだと……。
だからもし、もしも自分は死神なのだと名乗るお客がここへ来た時は、どうか、どうか優しく話を聞いてやって欲しい。
「その死神は、そう言ってマスターに頭を下げたそうです。そして、まだ半信半疑だった先代マスターの前で、鴉に変身してみせた。その出来事があったから、先代マスターはあの貼り紙を入り口に貼った。店を閉める予定日までに、もしもそんな死神がやって来たら話を聞こうと」
しかし、一ヶ月が過ぎ、いよいよ閉店日が近づいても、結局死神だと名乗る客は現れず、最終日の夜に途方にくれた帳さんがこの珈琲店の扉を開ける事になったのだという。
『いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ』
『あの……入り口の貼り紙を見て……』
『では、こちらのカウンター席へどうぞ』
それはまるで、私が初めて帳珈琲店にやってきた日の会話そのものだった。
その時と、帳さんは全く逆の立場ではあるけれど……。
「席に着いた僕にメニューを渡しながら、マスターが小さな声で聞いたんです。『あなたは死神ですか?』って」
帳さんは、弟を追い詰めた自分が死神だと責められているような気がして、思わず涙が溢れてきたという。
そんな帳さんの姿に、『やはり! あなたも元の世界に戻れず苦労しているんですね。大変でしたね。さぁ、涙を拭いて!』と、マスターがおしぼりを渡して帳さんを励ました。
死神という言葉が自分に向けられた皮肉ではないと理解した帳さんは、『一応……人間です』と、遠慮がちに言葉を返したという。
『こ、これはとんだ勘違いを! あなたも心優しき死神かと。いや、失礼失礼。早合点してしまいました! 実はここに、まるで天使のような心を持った死神が現れましてな。その死神が言うには……。あ! これはまた失礼を! 貼り紙を見たという事は、あなたも何かお話がおありで、私が先に話し出すところでしたよ。ではあなたのお話を、珈琲と一緒に伺うとしましょうか』
朗らかな笑顔で老父にそう言われ、帳さんの凍えるように固まっていた心が解けていった。
「だから僕は、あなたに会う前から死神の存在を知っていました」
死神が初めて珈琲店を訪れた夜。
帳さんが全く疑う事なくすんなりと受け入れたのは、先代からその存在を聞いていたからだったのかと納得した。
「その死神は、人にどんな不幸を与えたのですか?」
気になっていた事を私は尋ねる。
「一人の男性が、女性に公園の噴水の前でプロポーズしていたそうで……。鴉にしか変身する事ができなかったその死神さんは、男性の頭上で、力を振り絞って糞を落としたそうです」
「え?」
「セットした髪型とオシャレをした服は台無しになったそうですが、プロポーズは成功したとの事です。それくらいの小さい不幸でいいと、その死神も言っていたそうですよ。それでも彼は、大事な記念日を台無しにしてしまった事を悲しんでいたそうです。まるで、あなたのように優しい死神ですね」
こんなにも同じ考えを持つ者がいた。
それだけで、私の心の奥が一気に温かくなる。
「あなたと同じ価値観を持つ死神はいる。そんな死神が、この珈琲店の扉を開けてやってくる日があるかもしれない。あの日の僕のように追い詰められた人々も、ここで話をする事で救われたら……。そう思い、僕はこの珈琲店を先代から買い取りました。ここが、人間も死神も区別なく、そういった者たちの居場所になればいいと思ったんです」
そんな帳さんの言葉に、私はハッとする。
「もしかして掃除は……! 私から料金を掃除で回収しようとしたのは、私に居場所を与える為ですか?」
帳さんは何も答えず歩き出したけれど、きっと、私がここにとどまるための理由をくれたに違いない。
私は先を歩く帳さんの背中に向かって叫ぶ。
「分かりにくいんですよ! あなたの優しさは!」
意地悪なのか、優しいのか。
振り回されているように見えて、いつもその行動には相手を思う意図が隠されている。改めて、彼が言った一つ一つの言葉を振り返る。不意に涙が溢れてきて、私は急いで頬を拭った。
「待って下さい! 帳さん」
その背を追いかけ走り出す。
私は照れ隠しに鼻歌を歌いながら、大好きな友人の隣にそっと並んだのだった。
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