出雲の駄菓子屋日誌

にぎた

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前編

5 熱海の朝焼け

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 枕元に置いてあった携帯電話のアラームを止め、雄一は眠気眼にその画面を見た。

 メールが一通。送り主は北野好子よしこ――妻からであった。
 旅行中、朝になるとメールは必ず送られてくる。ただの確認事項であり、特に返事を返す必要もない恒例行事なのだが、雄一は自ら感じた熱海の良さを彼女に返信した。
 もちろん返事は期待していない。

 カーテンを開けると、眩しい日の光と共に、美しい熱海の町が眼下に広がった。

 昨夜は夜の闇で見えなかった街であったが、朝日を浴びたその景色は、雄一の目を一気に覚ましていく。

 海から山へ続く傾斜の地形。
 浜辺にはボードをもったサーファーや、早朝の犬の散歩をしている人たちが小さく見える。

 反対側の山岳部では、なだらかなその斜面に雲の影が落ち、夏なのに朝霧が立ち込めるそれらの光景は、山の神の存在を認めたくなるくらい神秘的なものであった。
 熱海銀座通り付近の建物たちも美しい。
 朝焼けが当たって、揃って東側だけが照れたように赤く光っている。

 遠くからそれらの町並みを眺めている雄一は、なぜか少年時代を思い出した。

 無邪気で怖いもの知らずの子供たち。
 純粋で可能性に満ち満ちたそんな少年時代の思い出が、熱海の町に今日も飛び込んでいく中年男の背中を押してくれる。

 そして、熱海のうす暗い朝映えの景色は、大きな物語の序章にすぎず、フィナーレへ向けた大きな仕掛けを内在しているかのようでもあった。

 朝食を食べ終えた雄一は、いよいよ動けないくらい満腹になってしまった。

 二泊三日を予定した今回の熱海旅行は、今日が中日であって、この程度でへこたれてしまっては勿体ないと思いつつも、雄一は自分の部屋に帰ってくるなり、畳の上に大の字で寝転がった。

 窓を開けっぱなしにしているため、静かな和室に夏の騒がしい音が入ってくる。
 まだ朝の八時前だ。オートバイのエンジン音が、自然の中を通りすぎていった。

 木目調の天井を目でなぞりながら、外の音に耳を傾ける。
 時間がゆっくりと過ぎるひと時を、雄一は全身で感じた。
 そして、満腹なお腹にも慣れてくると、近くの喫茶店でコーヒーでも飲もうと、彼は立ち上がる。 

――今日もよろしくな。

 ポロシャツとジーンズにに着替えた雄一は、おなじみのボストンバックを手にもって、さっそく旅館を後にしたのであった。

 空に落ちる、落ちる。天気は相変わらずの快晴で、濃くて深い蒼色の空をずっと眺めていると、吸い込まれてしまうのではないかと、ついつい思ってしまった。
 高くそびえる数本の煙突は決して届かない高さにある空をより遠く感じさせる。

 海からの潮風を背中で受けながら、車がまだ少ない県道を登っていく。
 土産物屋やレストラン、骨董品店がずらりと並び、多くの旅行客とすれ違うその道で、彼は良い雰囲気の喫茶店を見つけた。

 喫茶・きらめき
 白を基調としたレトロな洋風の建物は、まさに純喫茶と呼ぶのにふさわしい。

 店先のショーケースには、昭和の時代を感じさせるような陶磁器のマグカップたちが飾ってあり、熱海の町の雰囲気と相まって、雄一は喫茶店に通っていた学生時代にタイムスリップしたような感覚になった。
 重たい木製の扉には、すこし曇ったステンドグラスがはめられていて、隅っこが微かにひび割れていた。

 店内は縦に長細く、落ち着いたクラシック音楽が流れていた。客もまだ少ないみたいで、一番奥のソファ席には、新聞を読んでいる老人が一人だけ。
 入って右側がカウンター席となっており、反対側はボックス席、そして、店のいたるところには、同じく綺麗な模様をした陶磁器が飾ってある。中には洋人形もいた。

 雄一は、ボストンバッグをもって、不愛想だけれど男前なマスターのいるカウンター席に座った。

「いらっしゃいませ」
「アイスコーヒーを一つ」

 注文を済ませ、胸ポケットから煙草を取り出す。
 静かな音楽と豆の香りが良いコンチェルトだ。他に聞こえるのは、奥にいる老人の新聞をめくる音か、たまに通る大型トラックのエンジン音だけ。

 ふう、と長く煙を吐いてみると、旅の疲れ、日ごろのストレスが一緒になって出て行く感じがして、雄一は「今」を充分に楽しむことが出来た。珈琲も美味しい。

「ご旅行ですか?」

 無愛想なマスターが、社交辞令で声をかけてくれた。

「ええ」
「熱海の夏は暑いので、無理はせずにね」
「どうもありがとう」

 日の光を受け、出窓のカーテンレースが白く輝いている。
 アイスコーヒーを半分くらいまで飲んだ彼は、二本目の煙草に火を着けた。

「一つ聞いてもいいかな?」

 雄一の問いかけに、マスターは無言でうなずく。

「今日、明日と熱海を堪能する予定なんですが、何かおすすめの見どころはないかな? 出来れば、パンフレットとかに載っていないような隠れた名所が知りたいんだけれど」

 うーん、と、マスターは首を傾げた。

「難しいですね……私たち地元民にとってはこの町は日常そのものですので、観光のお客様からしたら珍しく思うものでも素通りしてますし」
「確かに」

 雄一の非日常は、マスターたちの日常。自分にとっては観光地だけれど、彼らにとっては故郷なのだ。

「あ、でも、確か今日は供養式があったけな」
「供養式?」
「ええ。数年前から始まった非公式の行事なんです。駄菓子屋が主催の」

――名前は駄菓子屋ですが、骨董品も扱っているんですよ。

 何かが引っかかる。雄一は煙草の火を消して、珈琲を一口啜った。

 奥にいる老人客が新聞を畳むと、「お勘定」と言ってマスターにお金を渡す。預かったお金をレジにしまうと「すみません」とマスターがカウンターへ戻ってきてくれた。

「その、骨董品なんですが、中にはいわくつきの物もあるらしく、それらを供養するために火を焚たくんです」
「へえ、珍しいですね」
「年々地方からお越しの方も増えているみたいで、結構賑わうんですよ。賑わうと言っては不謹慎かもしれませんが」
「噂を聞きつけてやってくる訳か」
「まさに藁にも縋る思いですな」

 マスターも、胸ポケットからセブンスターを取り出した。

「よろしいですか?」
「ええ、どうぞ」

 煙を一つ吐き出したマスターは、カウンターに身を乗り出して、声を潜めた。実はこういうことがあったのです、と。

「私はあまりそういう類のものは信じていなかったのですが、知人が一つ掴まされまして」
「いわくつきの物を……ですか?」
「はい。変わった知人でして、いわゆるコレクターと申しますか、珍しいものを集めるのが趣味だったんです」

――中には不気味なものもありました。

 雄一はマスターの話に興味津々だった。一人旅が趣味な自分もまた、変わった人なのだろうかなんて思いながら。

「二年くらい前だったかな。その知人が新しいものを見せびらかしに、ここにやってきたんです。それは汚い車のおもちゃでした」

 マスターは両手を肩幅ほど広げて見せた。これくらいの大きさですよ、と。

「なんでも、戦時中の空襲で焼け残ったものだとか……。そんなもの持っていて何があるのかと聞くと、惹きつけられたからと答えるだけでした」

――戦争に生き残った物だぞ。まさに幸運の印だ!

「喜々とした彼でしたが、その後、奇妙な言動が多くなっていきました」
「どんな?」
「それがですね、車が勝手に動くのだとか、空襲の夢を見るから寝不足が続くのだとか……。そして極めつけは、その車のおもちゃで遊ぶ子供のお化けを見たと言ってきたのですよ」

 その子供は、知人を見るとニコリと笑って消えていったのだとか。

「それからが奇妙でしてね、そのお化けを見た後、今度は子供の声がずっと聞こえるようになったみたいなんですよ」

 助けて。
 暑いよ。

 雄一はマスターの真に迫る口調に、その話が嘘か真か判断する機会を失っていた。飲みかけの珈琲の氷が溶けて、カランと音がした。

「知人もですね、そのおもちゃが原因だとすぐに気が付きました。初めは幸運の印と謳っていたそれも、親の仇を見るような態度になっていったんです。一度捨ててみたらしいんですが、それでも声が聞こえてくる。これはしかるべき処理が必要だ、と、一度捨てた物をごみ収集車から引っ張り出したこともありました」
「それで、供養式ですか」
「はい。だれもそんな奇妙なものを引き取らない。だけどその駄菓子屋だけは快く引き取ってくれたみたいです」
「そしたら声も無くなった?」

 マスターはゆっくりと頷いた。

「ピタリ、と。はじめはただの宣伝文句だと思っていたんです。今の時代、駄菓子屋だけでは難しいですからね」

 いつの間にか珈琲の氷はほとんど溶けてしまっていた。

「その供養祭が今日あるんですよね?」
「確かそうですよ。チラシもあったかな? 町の掲示板にもポスターが貼っていたと思います」
「ありがとう。良い機会だから見てみるよ」
「ぜひ……とは言いづらいですが、せっかくなので」
「知人の方も、恐ろしい体験だったでしょうね」
「今は元気になって、性懲りもなく趣味を続けていますよ」

 マスターが初めて笑顔を見せた。笑った顔も男前だ。

「色々とお話をありがとう。お釣りはお話代にでも」
「お気持ちだけいただきます」

 雄一は残りの珈琲を飲み干すと、相棒を持って席を立った。

「ところで、その駄菓子屋はどこにあるのかな?」
「失礼しました。銀座商店街にございます。出雲の駄菓子屋という店です」

 出雲の駄菓子屋。
 それは昨日、雄一が好奇心を抱いた駄菓子屋だった。妙縁。雄一の心が踊った。

「なるほどね。……とりあえず、これから下見をしてきます。駄菓子も少しだけ食べたくなったから」


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